SWキャラの顔が変わり過ぎ問題について

こんにちは、最近はSWにどっぷりと浸かっているthe-Writerです。

日本だと米国に先駆けてMCU10年目の集大成『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が4/29に控えており、ファンなら期待だけで正気を失うレベルの化け物作品なのですが……今は何とかSWに集中することで『インフィニティ・ウォー』までの時間を長く感じずに済んでいます(-ω-)

『エピソード8』の感想記事を3本も書いた後なので、今回は比較的軽めな調子でいこうかと思います。ライアン・ジョンソン監督が全力で作り上げたものに全力で挑んだ後というのは心地よい疲れがありますが、疲れは疲れですからねw息抜きは必要です。

 

えー、映画でよくあることと言えば、登場人物の子供時代と大人時代をそれぞれ異なる俳優が演じる……これは当たり前ですよね。とはいえ2人で1人の同一人物を演じる以上は説得力を持たせるため、メインとなる大人の俳優にどれくらい似た子役をキャスティングするかは、作品によって異なります。

そんな現象が頻繁に起こり、更にデリケートな問題と化すのがスター・ウォーズというシリーズです。先ほど挙げた例の如く子供時代と大人時代ならまだいいのですが、たった数年しか間隔があいていない設定なのに演じる俳優、つまり同じキャラクターの顔が微妙に違う……というのもSWではよくあるケースです。更に、前回の記事で述べたようにある程度SWに慣れ親しんだファンとなると、「拘り」というものができてしまうので、自分が良く見知ったキャラクターが新たに違う俳優に演じられるとなると、それに抵抗を示すというケースはよくあること。

ファンの方なら一度は経験したあるあるではないかと思います。ライトなファンや一般客の方ならほとんど気にしないのかもしれませんが、ウォーザーであり、そういう細かいことが気になってしまう性格の僕としてはある程度はケリをつけておきたい問題です。 SWは様々な時代をとびとびに語るので、こういったケースは往々にして起こるんですよねぇ。

 

なぜ今わざわざこれを持ち出したのかというと、これです。

いやあ僕は前からずっと楽しみにしていた一本なのですが、「A Star Wars Story」と銘打たれたアンソロジー・シリーズ第2弾の主人公はハン・ソロ。特に昔からのファンの間では、ルークやレイアと並んで伝説級のキャラクターであります。そんなハンの若かりし頃に起用されたのが、オールデン・エアエンライク(表記は公式サイトに倣いました)。

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そんな彼の顔はファンの間で物議をかもしました。ルーカス・フィルムが行ってきたこういったキャスティングは、もはやSWのお家芸となっている気がしますが、「顔が違う問題」について僕の考えを書いていこうと思います。

 

 

顔が変わってきたキャラクター達

……そもそもこの「顔が違う問題」はそれこそ観客の感性が関わるので、なかなかデリケートな問題ですよね。ここでは僕が思いつく限りで、SWで複数の俳優が同じキャラクターを演じている事例を挙げて観ようかと思います。幼少期~青年期なら、「まあ、こういう成長もありえるかな?」と納得は可能ではあると思うので、あまり顔が変化しないはずの大人の時期で、演じる俳優が異なるケースに絞っていこうと思います。

アナキン・スカイウォーカー, オビ=ワン・ケノービ, ウィルハフ・ターキン, ラーズ夫妻, モン・モスマ, (例外:ヨーダ)……

 これはあくまで実写化作品に限ったものであり、同じ正史(カノン)に属する『クローン・ウォーズ』,『反乱者たち』,『フォース・オブ・デスティニー』といったアニメ・シリーズまで加えると、真面目に考えるのは更に大変になります。設定上は同時期であっても演者が違う・声が一旦変わってまた元に戻る(実写→アニメ→実写と経るので)、なんてケースもあり得ます。

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なぜ顔が違う=役者が違うのか?それは製作上の都合の他なりませんね(身も蓋もない)。

新たに描くのが既存キャラクターの若かりし頃にしろ老いた後にしろ、そのキャラクターを演じた俳優に続投してもらうのがベストです。しかし、SWの場合何十年も前につくられた映画のキャラクターの、それも若いころの姿になるので当然続投はほぼ不可能となるので新たにキャストを雇う必要があります。……とまあ当然のことをつらつらと書きましたが。

そして、その新キャストとはどうやって、なぜ選ばれるのか?これは完全に僕の推測になってしまうのですが……

顔はオリジナルの俳優に似ているか、というのはもちろん重要な点なのですがルーカス・フィルムがそれ以上に重視している点があるように思えます。それは、新しいキャストが演じてもらいたいキャラクターの「本質」を備えているかどうか、という事です。格好良く言えば「魂」を感じさせる演技ができるか、俗っぽく言えば演技がそのキャラクターっぽいか。

たとえば、オリジナルの後に製作されたプリクエルの主人公であるアナキン。オリジナルの悪役であるベイダーとは、恐怖の象徴・威圧的・それでいてどことなく哀愁と葛藤を感じさせるキャラクターでした。そんな彼の若かりし頃の姿にキャスティングされたのは、ヘイデン・クリステンセンというあからさまな美形です。オリジナルから忠実に追ってきたファンが唯一知っていたベイダーの素顔はセバスチャン・ショウでした。

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言ってしまえば、似ていないです。更に、そんなヘイデンの演技は『エピソード2』『エピソード3』を通して、まだ未熟な響きを持つ演技でした。「あのベイダーのかつての姿なんだから、きっとこうに違いない」と「拘り」を持っていたファンの中に、拒否感を持つ方も少なからずいたのではないでしょうか。ファンの反応はともかく、創造主のルーカスにとってのアナキンとは「そういうもの」でした。ヘイデンをキャスティングしたのは、「彼がダークな雰囲気を持っていた」からだそうです。傍に居る観客から見たら顔が違っていても、ベイダーというキャラクターを作ったルーカスは、ヘイデンの中にこそ、のちのベイダーに繋がる暗黒を抱えた若者を見出したのではないでしょうか。ヘイデンはアナキン及びベイダーの「本質」を体現できる俳優だったという事です。

ならば、オビ=ワンに関してもそうです。

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そして、ハン・ソロも。

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ルーカス・フィルムのキャスティングで重視されているのは、本質≧顔という気がします。とはいえ、キャスティング係は作品によって違うでしょうし、常に僕の思った法則通りというわけでもないでしょうが……。顔はそりゃ似ていた方が良い。けど、演技がそのキャラクターそのものなら、顔は大体似ていればいい。

『ローグ・ワン』のターキンとレイアについてですが、製作時にはルーカス・フィルムには「絶対に『エピソード4』につなげる」という固い意志がありました。それは必然的に『エピソード4』の描写に忠実なものになり、ターキンとレイアは最新の映像技術によってほぼ本人という形で再現が可能となりました。

 

一通り例を検証し終えたところで、SWの重要な性質を確かめたいと思います。

SWとは、おとぎ話です。おとぎ話とは史実というよりも伝説に質が近い。つまり、同じ事柄でもそれを伝える口によって異なってしまうことがあり得る……と僕は解釈をしています。SWとは伝えようとしている物語の根底にある本質さえ間違えたりしなければ、作品間の矛盾は存在したとしても、それはおとぎ話として許容される範囲のものであると。

僕がその解釈の裏付けとして挙げたいのが、「SWはバージョンによる違いがある」という例です。たとえばファンの間では有名な『エピソード4』のHan shot firstや、『エピソード6』の霊体アナキンの顔があります。こうした違いはまず、当時オリジナルの劇場版が公開され、後にジョージ・ルーカスが映像をプリクエルに近づけるため、VFXを付け加えるなどして改修した特別篇が製作されたといった経緯によるもの。

2018年2月の現在時点、ルーカス・フィルムは「のちにルーカスの改修を受けた『特別篇』こそがオリジナル」(≒「劇場版は存在しない」)という見解を崩していません。しかし、カノンとされ、SWの大本である『エピソード4』ですらバージョンによる違いがあるという事。

よって、遠い昔、はるかかなたの銀河系で何かしらの物語あるいは史実があった。しかし、それは語り口によって微妙に差が生じてしまう……と捉えることができます。MCUや『シン・ゴジラ』は「虚構のものが、もしこの現実世界に出現したら……」というように、コミックや特撮といった架空の存在をこの現実世界に落とし込むため、その背景となる社会・地理・時間経過なども綿密な設定を行い、極限まで現実世界に近づけ、リアルに見せる必要があります。しかし、SWはそうではありません。

 

また、SWの宇宙は最初からおとぎ話といいますか、フィクションのあそび場として設定された宇宙です。このジョージ・ルーカスが作った宇宙では、真空中で音が鳴り、ミレニアム・ファルコンは光速の1.5倍で飛び、フォースという魔法の力が存在します。SFはSFでも、サイエンス・フィクションではなく、スペース・ファンタジーなのです。ならば、ヘイデン・クリステンセン→セバスチャン・ショウ、ユアン・マクレガーアレック・ギネス、ウェイン・パイグラム→ピーター・カッシング、オールデン・エアレンライク→ハリソン・フォードも起こりえます(断言)。それに、SWは作品間どころか個々の作品内にも数々の細かい矛盾やおかしい点が存在します。ここではこれを読んでいる方の楽しみを阻害しないために、敢えて書きませんが……なので、そういった性質を持つSWは場合によってはキャラクターの顔が違うというケースも起こってしまうし、それは通常路線といっても過言ではないかもしれません(とはいえ、似ていれば似ているほど嬉しいことは確かです)。

 

f:id:the-Writer:20180223231201p:plain正直、オールデン・エアレンライクについて「無理はあるな」とは思いつつ、「まあいいじゃん」と普通に受け入れてます。というか既に好き。結局は個々の好き嫌いによるところです。まだ本編は公開されていないので「いいやこれは○○じゃない」というのは実際に映画を見てからでもいいと思います。それに、作品がどの層をターゲットに向けて作られたのかのもあると思いますし……(それについて語るのは別の機会に)。『エピソード7』以来、「ハン・ソロといえばハリソン・フォードでしょ」と条件反射的に考えるウォーザーとしての地盤が築かれていた僕ですが、『エピソード8』を経てもっと柔軟に行こうと思いました。

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既に、僕の中ではハンというキャラクター像が拡大しつつあります。惑星コレリアに生まれた少年はベケットが父代わり、幼馴染のキーラと過酷な環境を生き抜いてきた。その後、一度帝国に身を置きながらもランドと悪友になり、チューイと唯一無二の信頼関係を築いていき、賞金稼ぎとなってジャバの元で働き、ひょんなことから銀河帝国を倒す戦争にまきこまれる……そういう新しい地盤ができつつあります。まだまだ若く、エネルギッシュなハンが繰り広げる冒険をスクリーンで見たいですね。

 

SWのキャラクターたちにとって顔とは何なのか

まとめると、SWのキャラクター達の顔が違う理由は、

キャスティングの事情(大本の理由)

→①新キャストが旧キャストの演じた「本質」を持っている

→②SWの宇宙では顔つきが変わるような成長が起こりうる

という2通りになります。

どちらかと言えば、①は僕ら観客の現実世界に根差した理屈であり、②は架空のSWの作中世界に根差した理屈であると思います。①,②はあくまで「なぜ顔が違うのか」という疑問に対する答えですので、どうせなのでもう一歩踏み込んだことも少し書こうかと思います。

顔は、キャラクターの内面=「本質」(の一部)を表しているという説を提唱したいと思います。SWにおけるキャラクターは、まず描きたい性格を持ったキャラクターがあり、キャスティングされる俳優の顔や声というのも、その描きたいものを描くための手段となります。言い方を変えるならば、顔があっての内面ではなく、内面あっての顔という事です。顔が、そのキャラクターの内面を表しています。これはフィクション、特にSWというおとぎ話ならではの芸当です。ハンで例えるなら、オールデン=若く無鉄砲な男から、ハリソン=海千山千の不敵な男になっていく、という道のりです。

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初めて『ハン・ソロ』の特報で若いハンの声を聞いた時、「まだ未熟な若者っぽいな」というのが第一印象でした。『エピソード4』に登場した数々の修羅場を潜り抜けてきた既にベテランの密輸業者の声は、低くて余裕も感じさせます。それに対して『ハン・ソロ』で描かれる駆け出しの孤児の声は、夢に向かって溢れんばかりのエネルギー、まだ腰が落ち着いていない若者らしい感じでした。

 

またこの説なんですが、あくまで僕なりの独自解釈のつもりでしたが、考えてみると思わぬ有力な根拠があることに気付きました。先ほども言及した『エピソード6』ラストの霊体アナキンの顔です。劇場版ではセバスチャン・ショウでしたが、特別篇ではヘイデン・クリステンセンになっています。その変更を下した件について、ジョージ・ルーカスは「彼が善人であった最期の瞬間、アナキンは(ヘイデン・クリステンセン演じる)若き頃の姿だったから」という見解です。

↑の映像は、『エピソード7』からのキャラクター・レイのキャスティングについて。監督が述べるところには、重視したのは演技とのことですが。デイジー・リドリーについて、僕は個人的にかなりの適役だと思っていまして。彼女が見せる表情は状況に応じて男らしさと女らしさ、優しさと激しさ、喜びと孤独といった様々な要素が見えるすごいバランスの顔だと思います。まだ2015年当時はその素性が謎に包まれており、彼女自身自分が誰かわかっていないというキャラクター・レイ。その特徴を端的に表した顔を見つけ出したキャスティングは素晴らしい仕事をしたと思います。

 

 

 

以上、SWで同じキャラクターが時代によって顔が違う問題について僕の考えを書きました。確かに人によってはとても気になる個所であると思いますが、僕はそれはそれで面白いかなあと思いますし、楽しみの幅が広がるように思えます。同じキャラクターを異なる俳優がそれぞれ異なる時代の姿を演じることで、面白い相互的な影響が生まれます。アナキンに関していえば、ジェダイのアナキンに後のベイダーに繋がる影を見たり、ベイダーの中にふとアナキンの面影を感じたり……といった具合に。今は『エピソード8』の円盤発売と、未だ”kid”と言われていた若いハンが蘇る6月の『ハン・ソロ』が楽しみで仕方がない日々です。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、SWは

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『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』上映しているうちに書いた感想

なんと『エピソード8』について語る記事が3本目になってしまいました。いつの間にか出来上がってしまった『エピソード8』感想トリロジーはこれにて一旦完結です。ディズニーが『エピソード7』『エピソード8』『エピソード9』のシークエル・トリロジーや、ライアン・ジョンソンが舵を取る全く新しいSWトリロジーについて発表した時、興奮と共に「わざわざ3本も作って利益もガッポガッポか」なんて考えを持っていました(問題発言)(日本の伝統的思想)。しかし、ライアン・ジョンソンが新しいトリロジーについて述べていましたが、「三部作を通して一つのストーリーを語る」。自分でやってみてわかったのですが、ある物語を描くのに必要な規模や話数というのはあるのですね……それを実感いたしました。第1にあたるルークの記事で書きましたが、『エピソード8』感想について元々一本の記事を3幕に分けて書いていたはずでした。

 

しかし、あまりにも長くなりすぎたのでこうしてそれぞれ独立した記事として書いている、というわけです。各記事の文字数をチェックしてみるとおよそ1万字であり、自分でもびっくりしております∑(・ω・ノ)ノ

ここまで僕に感想を書かせるに至るとは、面白いか面白くないかは別として、『エピソード8』は並みならぬものが込められた映画、という証明になるでしょう。では、まず今まで実は述べていなかった僕の個人的な印象や感想を書いていこうと思います。ただ今回は僕の思考や感情が中心ゆえ、まとまっておらずに読みづらいかもしれません……ご了承いただいた上で読み進めてくださいませ

 

 

『エピソード8』感想

f:id:the-Writer:20180212214304p:plain記録として残すために、そして自分に嘘をつかずに正直であるために、これは言わねばなりません。『エピソード8』に関して、正直観る前から期待していたものではありませんでした。これは認めざるをえません。デザイン面ではTウィングとスノースピーダー以外は特に目新しいものはなく、エイリアン種族やカントバイトのカジノ描写もしかり。ファーストオーダーからの敗走劇という全体のプロット、キャラクター達の成長、どれも予想の範疇におさまるものであり、ガツンと殴りつけられるような衝撃は無かったです。前回「一度目の観賞時は『革新』のSWだなと思った」と書きましたが、実は言葉が足りていなかったです。所々に革新的な個所は見受けられるものの、全体としては結局「保守」に落ち着いていた、というのが正確な所です。期待していたアナキンとオビ=ワンやフォースの新たなる側面といったものはなく、スノークとルークは命を落とすという衝撃展開。そういった相対するものが相殺し合い、観終わった後は、例えるなら虚無というような心境でした。それから様々な方の意見や考察を読んでいった結果、作品のどういった特徴が独自で優れているかは、ルークの記事や『エピソード8』が果たす役割といった記事に書いた通りです。

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2度目以降の観賞で、一つ言える事。今作に対する印象を一言でいうなら、「物足りない」。なお、これはあくまで僕が今作に対して抱く数々の想いの一つでしかない事に注意してもらいたいです。また「物足りない」は決して「つまらない」ではない。変な方向に振り切ってそれこそ作品自体を台無しにするよりは全然いいと思います。この「物足りない」という感覚こそ、どことなく保守的なSWだと感じた大きな要因でした。そして「物足りない」からこそ、何度も観たくなるというのもまた事実です。

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プリクエルほど前衛的な、いわゆる攻めたデザインはあまり見受けられないものの、それはあくまで映画の表層的な個所にとどまります。スクリーンに映る舞台は相変わらず隅々までみっちり作りこまれており、スキがありません。今作は前作に引き続き、実物重視で撮ったため、ぎっしりとディテールが詰まっている映像は没入感を約束してくれます。また人物を映し出すカットもこれまでにはなかった新しい角度からだったのも印象的です。

さて、表層的な所から潜って作品の更に深いところ、その根底にあるもの。それは作品自体の構造、込められたメッセージといった類のものです(デザインやカット割りというのはそれを面白く見せるための仕上げなわけですね)。『エピソード8』のそれらがどれほど深いもので、観客の心に訴えかけてくるかは前2本の記事で書きました。

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とはいえ、一つのエンタメ作品として成立しているかどうかはどうでしょう、明言はできないです。『フォースの覚醒』はおおまかな流れは『新たなる希望』を参考にしたうえ、監督がJ.J.エイブラムスだったからこそ一つの起承転結、純粋な冒険映画として成立していました。一度目の観賞は、後述のいわゆるフィルターを抜きにしても、期待していたものがほとんど出なかったからこそ、静かな心境で観ることができた=スクリーンに映るものはとにかくありのままに頭に入ってきました。それによって生じる感情に、エンタメ作品を観た時の純粋な高揚はあまり感じられなかったですね。そもそも、その更に奥というか下の方に、ウォーザーとして築き上げた地盤があり、それが「これはナンバリングサーガとしてどうなの」と訴えかけていたから、あまり楽しいと感じられなかったのかもしれませんが。

2回目は、様々なキャラクター達が試練に直面していくストーリーが何本も並行に展開していきつつ、全ての展開がつながっているというのが印象的だったので、かなり楽しめるようにはなりました。

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そういう風にして作品の根底にある論理を理解したうえでまた映画館に足を運びました。その時には公開前に抱いていた予想や期待、それを裏切られたという気持ちはほとんど消え失せており、割とフラットな気持ち(=一般客の方とほとんど同じ心境)で観る事が出来たと思います。とにかく美しい。『エピソード3』を超えてくるほどの勢いで沢山詰め込まれている印象的な美しいカットの数々。

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スリリングな戦闘シーン。困難に直面しながらもキャラクター達が懸命に前に進み、変化していく様。「失敗こそが最良の師」という教えや、過ちを犯して憔悴しきっていたルークが伝説のジェダイとして復活する展開など、心にしみる作り。ラダス,スプレマシー艦内や、カントバイト、クレイトなど隙なく作りこまれたSWの世界を巡る「エキゾチックな」体験。目には見えないものの、希望を感じさせる結末。僕は『エピソード8』がすっかり気に入ってしまいました。今や『エピソード8』に対する否定的な感情がほとんどないからこそ、スクリーンに映し出されるものを抵抗なく受け入れ、楽しむことができているのだと思います。実際、4回目は心の底から楽しめました。こんなに面白く、素晴らしい映画を撮ってくれたライアン・ジョンソン監督および製作チームには感謝と尊敬の念しかありません。

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プロットの大きな穴として僕が気になっていたのは、「ホルドーがなぜラダス放棄作戦を特にポーに伝えていないのか」という事でしょうか。これは僕の脳内捕捉によるものですが、ホルドーは今や銀河に希望をともすレジスタンスという最後の砦の長です。今までハイパースペースに入れば敵はほぼ間違いなく追手は来れないという絶対領域が侵されたことで、敵がハイパー・スペース・トラッキングという技術を持つ可能性のほかに、レジスタンス内部にファースト・オーダーのスパイがおり、いちいちラダスの座標をリークさせていたという可能性も考える必要があったことでしょう。必要最低限のクルーや、自分が絶対に信頼できる部下にのみ、その作戦を伝えていた……という事で僕は納得しました。とはいえポーに対する態度が必要以上にキツいというのはありますが。また、「主人公であるはずのレイが薄味」という声があります。これは僕もそうだな、と思ったのですが逆手に取りました。「SWは人間たちの群像劇だよ」「これからは誰でも主人公になれるんだよ」と宣言したのが『エピソード8』、と僕は思っています(詳しくは前回の記事をご参照ください)。ならばそれをを宣言した立場上、作品の作り自体がそうなってもおかしくないという事です。つまりレイを主人公として彼女ばかりが強く、おいしい展開ばかりを迎えるのではなく、登場人物全員に必要な尺が与えられ、それぞれが乗り越えるべき試練に立ち向かっていく様子をできるだけシームレスに描いた……それが『エピソード8』であると。平たく言うなら、『アベンジャーズ』のような感じですね。

(↓IMAXポスターをチョイスしたのは単純に僕の趣味です)

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やはり前後編というのは面白いですね。余裕があった時に『エピソード7』を最後まで見てから映画館に足を運んだのですが、『エピソード7』と『エピソード8』はナンバリングサーガでは異例の直結した2作です。お互いに影響を及ぼし合う興味深い2部作であり、とても楽しかったです。まさしくどっぷりとSW漬けの幸せな時間でした(*´ω`*)

ただやはりタイムラグというものができてしまうので、はやくディズニー・ジャパンによる『エピソード8』円盤の発売告知がほしいですね~。物語はシームレスに直結しているものの、同じキャラクターの成長や作品間の描写の変化も面白い。J.Jは非常にオードソックスな印象の映像を撮り、ライアンはより濃く、見事な味わいの映像を撮りました。自宅でこの贅沢な2部作を連続して観られる日が待ちきれません!

 

考えさせられた「好き」の哲学

中国では公開1週目で90パーセント以上の劇場が『最後のジェダイ』の公開を終えてしまったそうです。『ローグ・ワン』との扱いの差が顕著です(全世界興行収入では『最後のジェダイ』は既に『ローグ・ワン』は超えている)。

とはいえ、僕の近辺で『最後のジェダイ』を見に行った7人に直接聞いてみたところ、例外なく「面白かった」と言っていました。彼らの共通点は新規ファン、いわゆるこれまでのSWを一切知らない、あるいはライトなファンであったということ。まだ僕のように確固たる地盤(こだわりや望み)がなかった、ということです。

ここで湧いてくる疑問が「SWは、そもそも映画館にあまり行かないような人が楽しめたらそれでオーケーなのか?」という事です。映画館というのは自宅と違って、巨大なスクリーン、響き渡る音響、ゆったりとしたシート、照明を切った空間、漂うポップコーンの匂い……など、上映される映画に集中できる環境です。これをまとめて「劇場効果」と呼ぶとして、仮に観たのが駄作であってもそれを「面白い」と感じたら、その映画は本当に駄作なのか?という事です。劇場効果によって駄作が傑作という矛盾が生じてしまう可能性があります。

 

 

 

とはいえ、そもそも映画に「これは傑作、これは駄作」と決められるような、絶対的な面白さの尺度なんてあるのでしょうか?映画も広い視点で観れば、芸術に属します。10人いれば感じ方も10通りある、それが人の感性です。そんな人の感性が製作側と観賞側両方に関わってくる映画というものには、絶対的な正解は存在しないという事です(いわゆる絶対主義ではなく、相対主義)。強いて何かしら評価の基準をもうけるなら、どれだけ多くの人を満足させられたか、ではないかと。

そもそも傑作、駄作というのは誤解や衝突を招きかねない言い方です。世間で傑作と絶賛されるものが自分にはつまらないかもしれないし、駄作とボコボコに言われている一本がツボにはまる大好物かもしれない。傑作、駄作という表現を使う分には問題ないとしても、本来はそのまえに「個人的には」という文言が入るのでしょうね。

「SWのように多くのファンが存在するような作品はファンと一般客、どの層をターゲットにして製作すべきなのか」。これに関しては議論がなられるべき議題ですが……前回の記事にも書いた通り、ライアン・ジョンソン監督は彼なりに丁寧に過去の作品(およびそれが好きなファン)と向き合ってくれ、満足度の高い物語を創り出してくれたと思います。慣れるのに時間はかかりましたが、ウォーザーである僕は今作が好きです(とはいえ、僕のようにうんうん考えた上で「やはりだめだ」という方もいると思いますし、むしろそっちの方の方が多いかもしれません)。という事で、映画に関して絶対の正解や見方などあり得ない、と言った後にこう言うのもなんですが、今作はSWの伝統や常識を壊したことでファンを蔑ろにしたように見えながら、実はファンの事も非常に大切にして作られたSWだと思うのです。

そして、どうしてもだめな作品は恐らくファンと一般人、両方からはっきりNOを突き付けられ、それが興行収入というわかりやすい形に数値化されて現れる(ハズ)でしょう。僕としては、一度目はプロット上の穴として気になった点も、二度目は自分なりの解釈を持ってその穴を埋め、滑らかな一本の娯楽映画として楽しめました。もうそれで良い。僕の中で『エピソード8』は傑作、好きな映画、思い出の一本という位置づけにしっかりと収まったのです。そしてウォーザーとしても、これはナンバリングサーガに連なるれっきとした一章として胸を張って言えます。

(あくまで僕の主観で話している事を念頭に置きつつ)僕はどんな面白い映画も、つまらない映画もなんでも受け入れて楽しめる雑食系ではありません。大金を投じて作られ、大いに期待していって「つまらない」と明確に感じるものはいくつかあります。幸い、『エピソード8』はそれには入ることはありませんでした。なぜなら、優れたものが映画の根底にある(と感じる)からでした。ライアン・ジョンソン監督および製作チームが全力でぶつけてきたものに、僕は全力で挑みました。図らずとも、それはファンとしての僕を根幹から揺るがし、結果的により強固な、そしてある程度は柔軟な考えを持たせるに至ったと信じています。

それとも、僕は『エピソード8』が期待に沿う出来ではなかったからと言って、自分自身を無理矢理納得させ、「あれは最高のSWだった」「面白かったんだ」と洗脳しているのでしょうか?例え傍から見たらそう見えても。(結局は僕の主観による話ですが)ぼくは違うと思っています。改めて冷静になったうえで2度目の観賞で、オープニングの高速な宇宙戦で感じたスリル、レジスタンスの兵士の犠牲の悲しみ、スノーク謁見室の緊張感あふれる決戦、ルーク関連の感情に訴えてくるシーンの数々など……これらの感情は作り出せるものではなく、ましてやウソではないはずです。レイアとルークはそれぞれフォースを使って「空を駆ける者」=スカイウォーカーを最後に体現してくれました。

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オクトーの自然は素晴らしく、クレイトのスピーダーによる滑空はのびのびとした感じが良い。純粋に素晴らしいからこそ、心から自然とそういう感情が湧き出てくるのだと思います。

 

 

 スター・ウォーズに対する理想的な姿勢とは

『最後のジェダイ』はファンほど振り回され、ライトな人ほど楽しんでいる……そんな印象があります。この差はいったい何なのでしょうか?SWの特徴として、その世界はとても広大な上に解釈の余地が深い、というのがあります。ファンを続けていると、知識と解釈、それによって出来上がるSW像というのが形成されていくの気がします。「SWといえばコレ!」「SWとはこうあるべきだ」と、これらを「拘り」と書いていきますね。SWについて詳しくなっていくのは結構なことですが、それは時としてしがらみにもなると思います。今回のケースがまさにそれではないでしょうか?ファンの期待とはどこか違う、「拘り」に真っ向から挑むような作りだったからこそ、多くのファンが困惑しました。しかし、逆に「拘り」というのものが一切ライトなファン、あるいは完全な一般人客は普通に楽しむことができたと。

↑引用させていただいたこのツイートに、SWに対する理想的な姿勢の(一つの)答えがあると思います。

ある作品が好きでファンになり、もっと好きになる。そのうち「拘り」ができていく。それ自体は何ら悪いことではないですし、個人の自由です。しかし、SWとなってくると、その世界があまりにも広く、深すぎるのです。万に一つ、もしくはそれ未満の確率で製作側と自分の好みが一致しない限りは、SWに対する過度な期待などはかえって自分を苦しめる可能性があります。それが表れたのが、今回の『エピソード8』でした。今まで積み上げてきた期待を裏切られたからこそある人は衝撃を受けたり、嫌いになったり、そもそもその作品とは何でなぜ好きになるのか哲学を始めたり……。厄介なことに、特に僕のような人間はあれこれ考えてしまうので、作品との適切な距離というのはこれからおいおい見つけ出していくしかありませんが……

SWは何が来ても受け入れる、そんな心意気で観に行くのが良いのかな、とすら今は思います。思えば、SWは根底にあるものは普遍的・人間的なものであっても、表層となる映画としての作風ですら、作品毎にずいぶん違うと思います。というかもう、バラバラです。『エピソード1』から『エピソード6』までのルーカス6部作は、どれもルーカスが深くかかわっていますが、同じようなものはどれ一つとしてないと僕は思います。それはあたかも、三次元空間に様々な方向を向いたベクトルが存在しているといった具合です。太さも長さも方向も、それぞれが全く違う多種多様な矢印が、そのSWという空間に存在しています。

 

 僕がまだSWにハマりたてのころ、実は『エピソード1』のナブーや、『エピソード6』のエンドアなど、正直SWとして好きになれないものはいくつかありました(時間が経って、今ではすっかり慣れて「これもSW」として受け入れています)。今は『エピソード1』から『エピソード6』まで、「はい、これがSWですよ」と言わんばかりに全てバーンと揃っています。多少は「ん?」と思うところはあれど、6作を連続して家のテレビなどで楽しめるようになっているので、その一見してまるで規則性が見いだせない膨大な世界をSWとして、ありのままに受け入れることができます。SWとは、常に受け入れの連続の歴史だったのではないでしょうか?

SWは楽しめればそれで良いと僕は思います。大金を投じ、映画を何作も撮ることで時間をかけて一つの大きな物語を形成していく……それがルーカス・フィルムがとっているスタイルです。その間にできていくSWファンの総数というのは恐ろしく大きく、時間が経つうちに「オリジナル世代」「プリクエル世代」「シークエル世代」というように、世代が形成されていくほどです。そうやって時間をかけつつ、つくられた作品群は世代ごとに作風が違い、更にそれを観て育ったファンたちの好き嫌いは世代によって多少の差異ができます。よって全員を満足させるのはまず不可能なシリーズと言えるでしょう。

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製作側でさえ試行錯誤してSWサーガに新しいものを少しずつ積みあげていっているわけです。この考えが良い、この姿勢が正しい、というつもりは全くないですが、僕はこれからは「これもSWなんだな」と受け入れるような気持ちで臨もうと思います。ただどうしても好き嫌いというのはあるので、そこは無理して変える必要はないですし、個人個人の感性としてむしろ保ち続けるべきです。好きも嫌いも、SWとして受け入れる。「そういうものだ」と。それが、『エピソード8』を経て僕が得た新しい見地でした。 

少々話はそれますが…

…『エピソード8』という前作以上に賛否両論な作品をリアルタイムで観て、大勢の観客の方々の感想を見て思ったことがあります。「肯定派・否定派はそもそも関わらないで良いのではないか」と。両方の意見を熟知するのは余程の熟練のファンか制作側で十分だと思います。僕は今作が好きです。好きだからもっと好きになりたい。感性に間違いというものはありません。好きでも嫌いでも良い。しかし、感性という根本的なものが違うからこそ、基本的に好きな人と嫌いな人とは分かり合えないと思うのですよ。突き詰めてしまえば、同じものをどう感じるかですから。感じる方向が根本的に違うのです。僕は今ひたすらこの『エピソード8』が好きになっています。そして、せっかく好きになっているのだから他の方の否定的な意見にはできるだけ流されず、この感情はずっと保ち続けたいと思います。なぜかというと僕は周りの意見に影響されやすいので、「あのシーンだめだったよな」という声を聞いた後だと、せっかく自分が好きなシーンでも素直に楽しめなくなったり、以前ほど高揚が湧いてこないんですね。それはまるでガラスが曇ってしまうように。 好きな人は好きな人で、嫌いな人は嫌いな人で、それぞれがやりたいようにして自分の感情を深めていけばいいと思います。

気をつけたいのは、(特に作品に否定的な評価を持つ場合に)あくまでその感情は作品に対して向けるべきであって、他人(特に意見が異なるような人)に向けてしまわないようにする事です。自分と正反対の正義を持つ人との議論というものに慣れていないと、不毛な争いになりかねません。作品に対してなら何を思っても良い。しかしそれを頭の中に留めず、誰かに見られる形で残すなら。更に異なる意見を持つような他の人たちに言及するならば、細心の注意を払うべきだなと思いました。好きになる人、嫌いになる人、好きになろうとしてる人……一人一人がそう感じ、それぞれ独立した思考をする人間なのだから作品に対してどう感じるかなどは自由です。だからこそ、そんな個人の自由を侵害しないように気をつけたいですね。 

 

 

 

 

 

最後に、SWはあーだこーだアレコレ語りましたが。結局は「楽しむ」、これに尽きることだと思います。前回の記事に引用したジョージ・ルーカスの発言より、とにかく彼は自分が楽しいと思うものを詰め込むことで、観客が楽しいと思えるような映画を撮りました。SWは元々は楽しむためにつくられました。娯楽です。だから、『エピソード8』や『ハン・ソロ』といったウォーザー達の間に激震が走るような作品が公開されていく今、SWにはまっていく人たちが羨ましく、幸福に思えます。なぜなら事前の先入観といったものが無いまっさらな状態で、純粋な視点でド迫力のSWを映画館で体感し、その世界に入り込めるからです。今やウォーザーとしてたくさんの知識を身に着けた僕ですが、やはり深く考えずに楽しめるのがベストだなぁと思います。SWに関して様々な知識を身に着けたことで、僕は一般客の方のように純粋に無垢な状態でSWを観ることはかなわなくなってしまいました。あれこれ考えてしまいます。もう後戻りはかなわないのです。

だからといって、後悔はしていません。2015年の『エピソード7』を起点とする、ウォーザーとしての濃密な数年は後からでは絶対に手に入らず、唯一無二の楽しい時間だったと確信しているからです。『エピソード8』はSWに対する姿勢を見直し、より「強くなる」ための試練の時でもありました。これからも僕は色々と予想や考察を立てて、作品を見た後は自分なりに何かを見出し、論理を紡ぎ出していきます。僕はそうして僕なりにSWを楽しみ、それはいつか思い出になっていくと思います。

人間は主観的な生き物です。かの著名な哲学者ニーチェは「世の中に事実は存在しない、あるのはただ解釈のみである」と言いました。何かが人の口を通して語られる時、その時点で(言葉を介する時点で)その人のなんかしらの解釈などが入る、という事が考えられます。SWに対して抱く思いが肯定的か否定的かにしろ、語るその人は何かしらのフィルターを通してSWを見、語っていると言えます。そのフィルターを変えられる可能性がより高いのは、フィルターを形作る感情や印象ではなく、論理である、と僕は思います。幸運な事に、最初は否定的な評価をしていた『ローグ・ワン』と『エピソード8』を最終的に受け入れ、好きになりました。これは様々な方の考察を読んだり、自分なりにそれらの作品と時間をかけてじっくり向き合った結果です。

僕は今、自分の考えをここに書きました。僕にとってはただの記録、あるいは備忘録でしかありません。しかし、インターネットに公開している以上それは誰かの目に留まり、その時僕の書いた記事はただの記録以上の何かとなります。できれば、まだ好きではないがどこか諦めきれない、SWのある作品にそんな割り切れない思いを抱いている方を少しでも手助けできれば。視点の幅を広げてもっと楽しむ事につながれば、僕はとてもうれしいです。ファンとして。オタクとして。先に書いた通り、作品や他のファンの方との適切な距離を保ちながら。純粋に「楽しむ」という気持ちは、ずっと持ち続けたいと思います。

 

 

 

 

 

 

Next……?

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スター・ウォーズという物語に、『最後のジェダイ』が新しく続けた1ページとは

僕は、スター・ウォーズが好きです。

 

僕にとって初めてのスターウォーズは、『エピソード3/シスの復讐』。オープニングのコルサント上空戦・ジェダイ・マスターたちが歩き回るコルサントの映像の雰囲気や、アナキンがムスタファーの川辺で火に焼かれるショッキングな映像など……話はさっぱりわかっていなかったにも関わらず、そこで感じた印象や雰囲気などは僕の奥深くにしみこんでいる思い出深い一本なのです。

それからは特にスターウォーズに触れることもなかったのですが、確か2015年初頭だったかYoutubeで偶然『エピソード7/フォースの覚醒』のティーザー映像を見つけました。そこから徐々にスターウォーズに触れていくことになり、ディズニーが再び始めた祭りに乗って、今はこうして僕なりに全力で楽しんでいます。

今ではすっかり胸を張って「SWオタクです!」と言えるようになりましたが(一部ではウォーザーというそうですね)、恐らくファンともなればある程度はシリーズの知識を身に着け、次回作に向けて予想や期待を持つ方もいらっしゃると思います。そういった予想や期待を持ったウォーザーの方々が映画館に足を運ぶと、「( ゚Д゚;)……?!」となるのがシークエル・トリロジーの第2章を担う『エピソード8/最後のジェダイ』ではないでしょうか?実際、僕の方はどうだったかというと映画館から出てくる頃には、打ちのめされて疲れたような感じがしました。それはさながら「どうして言ってくれなかった、ベン……」と打ちのめされた『エピソード5』終盤のルークのように。それからは冷静に『エピソード8』の分析、そして「スター・ウォーズとは何なのか?SWとして何が正しくて、何が違うのか?」といった壮大な疑問まで、時間を見つけては自問自答、一人哲学の日々です。『エピソード8』の監督・脚本を務めたのはライアン・ジョンソン。監督と脚本を一人で務めるのはジョージ・ルーカス以来。彼が撮った一本は、全世界のウォーザーに大きな衝撃を与えたことでしょう。僕にとってはまさしく試練でした。自分が期待していたものが悉く裏切られたことで、僕のSWに対する姿勢、すなわち自分のウォーザーとしての地盤を見直す事になりましたから。結果的に、僕は『エピソード8/最後のジェダイ』を好きになり、SWは変わらず好きですが、SWに対する見地が以前より拡大・確立されることとなりました。

ジョージ・ルーカス、そしてライアン・ジョンソンがいわゆる個人的なモノをSWに込めて撮ったように、ここに書いていくのは解説ではなく、個人的な意見です(前回書いた『エピソード8』のルークの記事も「一つの視点」なのであくまで僕の意見ですね)。今回は『エピソード8』のナンバリングサーガ全体に与えた余波を語っていこうと思います。

 

ライアン・ジョンソンはいかに神話を僕らに近づけてきたのか

ライアン・ジョンソンが『エピソード7/フォースの覚醒』から繋げて語る物語、特にルーク・スカイウォーカーについてのストーリーは多くの観客の予想を裏切るものでした。とある事情から戦いに嫌気がさし、誰にも見つからないような絶海の孤島で粛々と生活を送る世捨て人。その描写の一端から「なぜルークはこうなってしまったのか?」という疑問に対して、僕が出した答えが、前回のルークの記事です。一見突拍子もない意見でも、根拠があって論理的に組み立てられていれば問題ありません。ならば、なぜわざわざルークの負の側面を掘り下げるようなストーリーを組み立てたのか?「オクトーに隠居している理由を導き出すため」「ルークがなにか障害に面していないと、レイたちのストーリーが薄れるから」というのが、僕がその記事で出した答えでした。

しかし僕は、第3の理由が存在するのではないかと思いました。その第3の理由は、『エピソード8』の要所要所から感じ取れるので決して事実無根ではないと思います。それは「ルークを一人の人間として描くこと」、です。

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人間というのは複雑な存在です。善か悪か割り切れるものではないし、身勝手な所も献身的な所もあります。矛盾を大量に抱え込むのが人間ではないか、と僕は思うのです。そんな人間は間違いを犯します。ルークの場合は、自分が犯した間違いの余波があまりにも大きすぎた事、それに伴う自責の念からひっそりと行方をくらましました。

ルークに罪を背負わせたこのストーリーは、『エピソード8』まで続くナンバリングサーガの意味合いを大きく変えます。ライアン・ジョンソンがここまで意図していたのかはわかりませんが、この副作用は偶然にも観客がSWをより楽しめるようにするものでした。どういう事かと言いますと……

オリジナル・トリロジーではルーク・スカイウォーカーという農家の青年が、故郷を飛び出し、仲間との冒険と戦いを通じて成長していく様子を描いていきました。

のちに製作されたプリクエル・トリロジーは、ルークの父アナキン・スカイウォーカーがなぜベイダーという恐ろしい敵として君臨するようになったかを描く、いわば答え合わせ的な作りです。

このSWの創造において始点となったルークはルーカスの自己投影でしたが、『エピソード5』ではその弱さや欠点が示唆され、『エピソード6』からジェダイとして成長し、ひたむきに父を救おうと奮闘する様子から、「キャラクターの一人歩き」が起こっていたと推測されます。アナキンの場合、『エピソード1』では奴隷からの解放、『エピソード2』ではアミダラ議員との禁断の恋とジェダイとしての未熟さ、『エピソード3』ではついに暗黒面への転向が描かれました。この一連の流れ、見方によっては神話的な印象を受け、特に『エピソード3』の暗黒面への転向があまりにも極端な描写だったことから、非現実的=神話的という見方が生まれます。よって、ルーカスが手掛けた6部作は神話という見方ができました。神話だから、物事はたいてい結果的にうまくいく。作品間の多少の矛盾は許される。登場人物たちの心情の極端な変化も許される。

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しかし、『エピソード8』がそれを終わらせたのではないか、と感じます。ルーク・スカイウォーカーはいつでも明るくまっすぐで、下す判断が間違うなんてことはない……と、無意識のうちに作り上げられるような認識を壊したのです。その弱さを徹底して描くことでルーク・スカイウォーカーも、結局は過ちを犯す僕ら観客と何ら変わりない人間の1人であることを宣言した、と僕は感じました。従って、続く他のキャラクター達も全員同じ人間なのです。ルーク・レイア・ハン・チューイ・C-3POR2-D2や、アナキン・オビ=ワン・パドメ・ヨーダそしてパルパティーンでさえも。

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以前の記事で僕は、「ナンバリングサーガはSW作中の銀河の歴史で重大な転換点を切り取ったものである」と述べましたが、更に踏み込んだ言い方ができます。スターウォーズとは遠い昔、はるかかなたの銀河系で様々な人間たちが出会い、別れ、前に進み、一生懸命生きて歴史を作っていく様を描いた物語、という捉え方が可能になるのです。

決して手が届かない神話の人物ではなく、自分たちと同じ観客だからこそより感情移入ができる。より感情移入ができるから、作品がもっと好きになる。

更に、シークエル・トリロジーのキャラクター達は(『エピソード8』でハッキリと定義されましたが)、これまでのルーカス6部作のキャラクターとは違う方向を向いた弱さを持った人間たちです。

どう違うのかというと、6部作はまず物語の「記号」としてのキャラクターです。たとえば、ルーク=主人公,ハン=荒くれもの,レイア=ヒロイン、というように。「弱さ」はキャラクターの味付けでしかありませんでした。

一方、シークエルは「弱さ」が中心になっているキャラクターです(※正確には『エピソード7』で登場したキャラクター達に『エピソード8』が後から「弱さ」を付け加えているので、本来は正しくない言い方なのですが、『エピソード7』の時点でそれとなく示されてはいるので良しとします)。

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レイ=家族がいない孤独,フィン=目の前の困難から逃げる,ポー=状況や仲間を顧みない身勝手さ、そしてカイロは両親からまともに愛を受けられずに育ってしまった人間です。どれも人間だれしもが持つであろう「弱さ」です。また、現時点で過去がさっぱりわからずじまいのスノークでさえ「弱さ」はあるそうで(スノークを演じるアンディ・サーキスライアン・ジョンソンから彼の過去をすべて聞かされているため)。レイは主人公、カイロは裏の主人公というように、そんな彼らが物語の「記号」に割り振られています。このキャラクターたちが主人公になることで、スターウォーズは様々な人間たちが懸命に生きていく物語、という性質を色濃くしているのです。

特にカイロに設定されている弱さとは、意外にも多くの人々に大なり小なりあてはまるものではないでしょうか。これはあくまでシークエルにとどまった例ですが、このようにして自分の持つ弱さを一見どうみてもフィクション=現実ではないSWのキャラクター達の中に見出すことで、より深い所で共感し、物語をもっと楽しむことができる……

シークエルは特にプリクエルやオリジナル以上に観客に近いキャラクター達が動き回る群像劇として描かれます。そのドラマをなるべく新世代である彼らのものにするために、フォースの両サイドの頂点であり、場合によっては両陣営のトップになり得、その強大な力ゆえに新世代の彼らの存在感を薄れさせてしまう恐れがあるルークとスノークは今回命を落とすことになった……ライアン・ジョンソンはそんな意図をもってあの衝撃展開を書き上げたのだと思います。

 『エピソード8』はスターウォーズのナンバリングサーガを神話から人間たちの物語へと引き戻したのではないでしょうか?

 

「これはただの映画だ。観て、ただ楽しむものなんだ。夕日みたいなものさ。そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい。”素晴らしい”って言うだけで充分なんだ」──創造主ジョージ・ルーカスによる、1981年のインタビューの言葉である(※)。『最後のジェダイ』のルーク・スカイウォーカーは、映画の過剰な神格化に疲れ切っていたかつてのジョージ・ルーカスそのものだった。ジェダイや自分に対する幻想を重荷に感じていたルークが「ジェダイは終りを迎えるべき」としたように、ルーカスフィルム/ディズニーは『最後のジェダイ』を以ってこれまでのスター・ウォーズを終わらせたのだ。

※「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」クリス・テイラー(著)、児島修(翻訳)、パブラボ、2015年

出典:【レビュー】『最後のジェダイ』はいかにしてスター・ウォーズの伝説をリセットしたか ─ 「古いものは滅びるべき」

 

上に引用したのは、THE RIVERという主に映画について取り扱うファンメディアの編集長さんによるレビューです。特にルーカスの言葉はいくつかの解釈ができそうですね。神話というのはその名の通り、人を超えた神の荘厳なお話であり、基本的に人の手が届くものではありません。スターウォーズのファン(と人気)が増えるにつれ、神格化つまりSWを神話としてみる視点が成長していきました。

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僕が思うに、SWとは神話である以前に観客と等身大の人間たちの群像劇です。そしてその根底には人間模様がある作品だと僕は思います。その作品を「すごい共感できる、これは人間同士のドラマだ」「とても壮大だ、これは神話に違いない」「メカがかっこいい、これはSFだ」など、どう解釈するのかは観客の自由です。しかし、娯楽作品としてもっと観客が楽しめるようにする大本の土台として。スクリーンに映るのは観客と同じ人間である事を、ルーカス・フィルムは改めて提示したのだと思いました。

 

矛盾こそが、大きな魅力

「衝撃の、スター・ウォーズ」という謳い文句の本作。展開はさることながら、ファンはこれまでのいくつかのお約束が破られていることから「これまでのSWは終わった」「革新的なSW」と評する方も少なくありません。しかし、僕はそこからまた一歩踏み込み、総括して「矛盾を抱えたSW」という意見に行きつきました。

"Let the past die. Kill it, if you have to."

 ↑予告編にも使われたカイロのこのセリフ。一度目の観賞時は過去のSWのお約束や伝統を破るところが印象的だったので「革新」をテーマにしたSWなのかな、と思いました。しかし、様々な方の考察や感想を読んだ上で、冷静にもう一度観た時には逆に過去のSWへの丁寧なオマージュがちりばめられている事に気付く。展開やキャラクターの成長具合も以外に予想の範疇内に収まるのでむしろ「保守」のSWだな、と感じたのです。感想が1回目と2回目でまるで逆ですね。これはいったい何なんだ?!となったところ、偶然見つけた感想でストーンと納得させられたものがあったので以下に引用いたします……

僕的に本作のテーマは「フォース=調和=バランス」だと思っていて。過去のジェダイたちを否定する台詞をルークに言わせて遺物を燃やすものの、この映画シリーズ自体が過去の恩恵にすがって成り立っているものだったり、ヒーロー的行為はダメで命が大事だと言いながらローラ・ダーンの自己犠牲をカッコ良く描いたり、伝説化を否定しながらもラストは伝説が受け継がれていったり、相反する要素をあえて盛り込んで、観客に「矛盾を抱えながらバランスを取ることが大事」と伝えている気がしたんですよね(それが上手くいっているとは言い難いんですが…)。とは言え、これをルークが聞いたら、「素晴らしい、すべて間違っている ( ゚д゚) カエレ!」なんて言われちゃうのカナー (´∀`;) ナンダコレ 

出典:スター・ウォーズ/最後のジェダイ(字幕版、吹替版)(ネタバレ)

 三角締めで捕まえてというブログを運営されているカミヤマさんによる感想ですが、「相反する二つ」を様々な形で盛り込んだのが本作なのだなぁ、と思いました。一応主人公のレイはフォースのライトサイドに属していますが、宿敵のカイロ・レンはダークサイドに属しながらレイ以上の複雑な背景や葛藤を秘めたキャラクターです(すなわちカイロは裏の主人公)。

僕は『エピソード8』はSW史上最高に観る人に優しい作りだな、と思っていまして。これはできるだけ多くの新旧ファンに受けが良い「最大公約数」的な作りだった『エピソード7』とは違う方向の優しさです。『エピソード7』は観客のSWファン的な部分に優しく、『エピソード8』は観客の人間的な部分に優しい作り、だと思います。前述の通り、人間というのは矛盾を抱え、不完全な生き物です。映画そのものを、矛盾を抱えたものとして作り上げてしまうこと自体、そんな矛盾を抱えながらも生きていく人間=観客たちの肯定のように思えるのです。他にも、弱みがある前提のキャラクターたち。英雄とされていた人物でさえ、あそこまで憔悴してしまうこともあるという事。そして何より、「失敗こそが最良の師」という指導者でも間違う事、人間が犯してしまう失敗すらも受け入れ、認める教え。ひたすら希望の素晴らしさも謳う映画もいいですが、このように挫折や絶望、失敗を認めてくれる上で、希望を持てるような結末に仕上げた『エピソード8』は、観客の人間的な部分に優しいということです。

また『エピソード8』が抱える大きな矛盾が、伝統と革新の兼ね合いです。新旧の対決と葛藤、製作側が大きく悩んだところでしょう。『エピソード7』はディズニーが再起動させた新しいSWの幕開けとして、可能な限り多くの観客が楽しめるように馴染み易く、懐の大きい一本でした。もろクリフハンガーな終わり方をした『エピソード7』に続く『エピソード8』は、新世代のキャラクター達にそれぞれ試練を課し、物語を大きく前進させる役割が予想されていました、が。奇しくも『エピソード8』はSW全ての始まりである『エピソード4』公開40周年記念節目の年である2017年に公開でもありました。『エピソード4』から始まったナンバリングサーガは、ルーカスフィルムによって「スカイウォーカーサーガ」と定義されています。『エピソード8』は、『エピソード4』に様々な形で敬意を払いつつ、スカイウォーカーサーガの終わりを暗示し、その枠を押し広げたのです。

『エピソード4』へのオマージュ点

 ・オープニングテーマ

SWはオープニングの説明文が終わった後に短い間奏があり、各作品毎に異なる印象の導入が楽しめます。しかし『エピソード8』は『エピソード4』のものを改めて使いました。どうせなら『エピソード8』独自の間奏を聞いてみたかったですが、これもオマージュの一環なのかもしれません。ポジティブに捉えるなら、『エピソード4』は41年前の作品なので音楽の音質も古く、管楽器の音もそろわずバラけている個所もありますw 『エピソード4』のオープニングの一連の音楽が、現代のキレイな音質でのリプライズで楽しめると思うと少しオトクです。

 

・「嫌な予感がする」

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これは『エピソード4』に限ったものではありませんが「あれ、今回あのセリフが無いじゃん!」と言う方がいらっしゃるので書いてみました。ポーがX-Wingでドレッドノートに向かい合うカットの直後、BB-8が何か言ってポーが「わかってる」、レイアが「私もそのドロイドに同意ですよ」と言います。初見では当然わからないですが、BB-8にこのセリフを当てはめるとしっくりきます。このお約束はしっかり守られていました。

 

・レイアのホログラム

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「いわずもがな」ですが、ジーンときました。R2が疲れ切ったルークを再び奮い立たせる言葉として、掘り出したものです。現在も敵から逃げているものの、まさに危機に陥っているレイア。そして今は隠れているジェダイ・マスターこそが最後の希望である事。彼の冒険の原点であるホログラムを見せ、純粋な心を呼び覚ましたのでしょうか。この粋な計らいにはいやはや参ったという他ありません。

 

・レッスン1

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かつてオビ=ワンにフォースの軽い手ほどきを受けたルークですが、その彼が今やジェダイ・マスターとしてフォースの手ほどきを授ける立場です。その時、座禅を組んだレイに説いたフォースの説明がオビ=ワンに教わったものを受け継いでいるのです(その後「万物の間にフォースは流れている」という説明はヨーダから教わったものですね)。

 

・アナキンのセーバーの光刃の出し入れ

レイがアナキンのセーバーを使って自主訓練を行い、岩を切り裂いてケアテイカー達を困らせるシーン。岩場からアッチャー……と感じにケアテイカー達を見ながら光刃を収納する時、『エピソード4』でルークが起動スイッチに触らずに光刃を出し入れしたのと同じ描写に見えました(まだ確証が無いです……)。どういう事かと言いますと、1977年はまだ設定が固まっておらず、2015年になって明確に描写されたのがアナキンのセーバーの起動スイッチです。

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セーバーの刃が出る口の付近に二枚板状の突起があり、その後ろに赤いスイッチがあります。それが起動スイッチです。タコダナやスターキラー基地でフィン、レイは共にこれを押して使いました。なお、オクトーでは敢えて『エピソード4』の黄色いモールドが入ったボックス付近に触れて刃を収納する方式が描かれていました。細かい演出です。

 

・カイロのTIEサイレンサースピン

カイロが専用機のTIEサイレンサーに乗り、レジスタンス旗艦ラダスに追撃をかけ、スピンをかけた攻撃時。中で操縦しているカイロもクルクル回るカットは、デススターで味方機にトレンチからはじき出され、なす術なくスクリーンでクルクル回るベイダーのオマージュです。

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また、攻撃時に機体をスピンさせるのは『エピソード3』のコルサント上空戦で彼の祖父にあたるアナキンが搭乗するイータ2をスピンさせた事を思い出させます。このシーンは『エピソード3』『エピソード4』で描かれたカイロの祖父のリプライズを一挙にやっているのですね。

 

・レイアのブラスターのスタンモード

『エピソード4』でレイアに使われた青いリング状のスタンモードですが、映画で登場するのは実はそれ以来だったそうです。

 

・クレイトでのファルコンチェイス

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ポーグがやかましいクレイト地下のファルコンチェイス、オープニングと同じく『エピソード4』の有名曲のリプライズでした。デススターから脱出したファルコンを4機のTIEファイターが追撃した際の音楽ですが、現代版らしく重低音を思う存分響かせるのがまた良い。自然が作った曲がりくねった立体迷路内を飛び回ることも併せて考えると、旧スターツアーズも思い出されますね。彗星に突っこむところと第3デススター攻略を合わせた感じですが、その旧スターツアーズの精神がナンバリングサーガに組み込まれていると思うと嬉しいです、楽しみが増えました。

 

・ルークのたどった結末

老いジェダイマスターが自分と決着をつけに来た暗黒面へ堕ちた元弟子と戦い、次世代に希望を託して自身はフォースと一体化する……こうして文字にすると、オビ=ワン対ベイダーにも、ルーク対カイロとも捉えられます。やはり展開自体は非常に似通っているのです。SWには過去作へのオマージュ含めた過去作の美学、というのがありますが『エピソード8』ではただの「繰り返し」に留まらない展開につなげました。

 

・双子の夕日

いわずもがな、ですね。SWは並べられてみると「あっ同じ構図だ」と気付かせられることが多いのですが、今回は初めて、何もせずともオリジナルのシーンが重なりました。このシーン設計はルーク・スカイウォーカーの完結を担うため細心の注意を持って行われたからでしょう。禅を組んでローブをはためかせ、オクトーの美しい双子の夕日に臨むジェダイ・マスターの背中に、僕は確かにタトゥイーンで広い銀河に思いをはせる19歳のタトゥイーンの農家の少年の姿を見ました。オビ=ワンが望んだようにはなれなかったかもしれない、オビ=ワンのようになれなかったかもしれない。それでも最後の彼は心安らかに、希望の火を受け継いでこの世に別れを告げたのだと思います。

 

サーガの流れを終わらせた点

・R2と3POの出番はカット

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感じ方は個人差あるとは思いますが、あまりスクリーンに登場しなかったように思います。次作の『エピソード9』でも今回以下の出番か……やはりルークと同じく新世代の物語に集中するためでしょうか。また、今回でこのコンビはまたしても主人に先立たれてしまうことになりました(´・ω・`) ドロイドの悲しき宿命ですね。

 

・アナキンのセーバーの破壊

親に捨てられた孤独を抱える似た者同士のレイとカイロでしたが、決別に終わります。その際ついに破壊されてしまったアナキンのセーバー。思えばクローン大戦の時代からアナキン・スカイウォーカーが使い、その後世代を超えてルーク、レイに受け継がれてきた重要な遺物でした。

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その「お下がり」の破壊は、レイの自立(後に新しいセーバーを作る?)、そしてスカイウォーカーサーガの終結を暗示します。そういえばその少し前のスターキラー基地での戦いでも似たような状況が発生し、セーバーはレイを選んだかのようにその手に収まりましたね。今回はセーバーがレイとカイロを選び切れなかったのか、真っ二つに割れました。

 

ライトセーバー戦が存在しない

一応終盤のクレイトでのルーク対カイロがありますが、あの時のルークは幻影です。一応ライトセーバーの使用者同士がセーバーから火花を散らして戦うもの、と定義すると今作は史上初それが存在しませんでした。

 

・アナキンとオビ=ワンの皆勤賞、ついえる

前作ではアナキンは一応遺骸という(不本意な)形で出演しており、オビ=ワンはレイが観たビジョンに「レイ?これが君の最初の一歩だ……」とささやきかけていました、が。今回はまさかの欠席……(´・ω・`) 導き誤った弟子が暗黒面に堕ち、ジェダイ・オーダーを破滅に導いたという点で、アナキンとオビ=ワン/ベンとルークは共通しているのでかつてクローン大戦の英雄でもあった師弟に来てほしかったですね……オビ=ワン、なぜあなたはタコダナのレイに向かってあんな意味深なセリフを囁いたのですか

 

・回想シーンが登場する

時系列的にはプリクエル→オリジナルなのですが、製作順はオリジナル→プリクエルです。オリジナルにプリクエルの回想シーンが挟み込まれることは勿論ないですが、オリジナル製作時点でプリクエルの時期を当時のキャストで撮った回想シーンすら撮られませんでした。そのルーカス6部作に続く『エピソード7』ではフォースによるヴィジョン、という形で「ナンバリングサーガでは回想シーンは使ってはいけない」という暗黙のルールは守ったことになります。『ローグ・ワン』では回想シーンが登場しましたが、あれはアンソロジーでした。

なお、『エピソード8』ではついに回想シーンが使われ、更に個人的に最も使ってほしくなかった形で使われてしまいました。

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それは、「ウソ」です。過去の出来事を語るとき、視点によって語り方が違うのは往々にしてあることですが、場合によっては事実と異なるウソだってありえます。更に、それを映像として見せられてしまうと観客にはもう疑いの余地がないんですね。しかし、『エピソード8』はただ過去を描きたいというだけで初の回想シーンをはさんできたのではなく。黒澤明監督による『羅生門』へのオマージュとして、語り手が交互に変わる計3回の回想シーンをはさんだそうです。『エピソード4』にように黒澤明監督への敬意をこめて撮られたのが、この回想シーンなのですね。

 

・レイはスカイウォーカーではない(現時点では)

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心の奥底でもう自分が待つ家族は戻ってこないことをわかっていたレイにとって一番つらい事。それは両親が名のある誰でもなく(=自分を確立するアイデンティティが無い)、その両親はもう戻ってこれない所に旅立ってしまった事でした。すなわち天涯の孤独。前作で強いフォースの素質を示してスカイウォーカー関連の血筋を匂わせた彼女でしたが…… ルーク「素晴らしい、全て間違っている」ファン「Noooooooooo」

スカイウォーカーではない者=一般人が今や主人公なのです。

 

・ラストシーン

初見の僕は、少なからず戸惑いを覚えていました。今までのラストカットはスクリーンのどこかに必ずスカイウォーカーが映っていたので、その伝統を何となく感じ取っていたファンの方々は「あらっ」と思われていても全く不思議ではありません。なお、最終的に納得した僕の考えを、流れを追いながら書いていきます。

ルーク・スカイウォーカーはついに銀河の表舞台から去ってしまいました。なお、自由を求めて戦うレジスタンスは人数を大幅に減らしたものの、今一度より強くより大きくなって復活することが示唆されます。密輸船だったファルコンはレジスタンスを乗せ、希望を胸により明るい未来へと突き進んでいく……という感じで主人公たちの出番は終わります。さて、画面が変わるとそこはカントバイトの厩で働かせられている少年たち。その言葉は観客にはさっぱりわかりませんが、どうやらジェダイ・マスターのルークの活躍についてお話している様子。今一度、改めて「伝説」という役割を引き受けた彼の行いは、確かに銀河各地に種をまいたようです。その後、その部屋から追い立てられたテミリ少年は寒々しそうな厩でさりげなくフォースを使って箒を手繰り寄せます。元々「フォース感応者というのは銀河各地に生まれる」という設定です。それがこれまでの映画で描かれたかどうかは少しあいまいなので、改めてそれが提示されたことになりました。そんな彼が星々がきらめく夜空を見上げると、一条の光の筋が走り抜けます(ファルコンでしょうか?)。先ほど2人のレジスタンスに指輪と共に、立ち上がる勇気と希望をもらったテミリ君のその顔には、明らかに希望と夢が宿っています。これからの道を切り開いていくかのように、小さな箒をジェダイライトセーバーを持つように構える彼。ルーク・スカイウォーカーは伝説として、希望として、そしてフォースとして人々の中に生き続けます。テミリ少年も例外ではありません。目には見えませんが、確かにテミリ少年の中にルークがいる。ルークが受け継いだ希望は新しい世代に受け継がれ、新しい物語を作っていく……そうして僕は、あのシーンは『エピソード8』のフィナーレに相応しいという事で納得しました。

 

 

『エピソード8』は過去を終わらせたのか?

上にようにわざわざ『エピソード4』へのオマージュと・過去の伝統を破った点をそれぞれ列挙しましたが、その前に書いた通り『エピソード8』が抱える数々の矛盾の一つです。よって僕が出した答えは、過去に敬意を持ってお別れの意を告げた……という事です。これは過去に固執するわけでもなく、切り捨てているわけでもないということを留意してください。

先ほど述べたラストシーンについて。「誰でもない」テミリ少年がこの映画のラストを締めくくるというのは、ナンバリングサーガ全体で見ると極めて異例の変化球です。そんなラストシーンがなぜ『エピソード8』にふさわしいのかは先ほど述べた通りですが、「誰でもない」少年に重要なラストを任せたのには理由があると思います。

『エピソード8』は登場人物たち全員を、「何かしらの弱点があり、何かしらの動機があって動く存在」=「観客と同じ人間」として描きました。ならば、今までオリジナルやプリクエルでは脇役だったスカイウォーカーでない一般人たちも、これからは主人公になれるのです。

アナキン・スカイウォーカーは「選ばれし者」として、「フォースにバランスをもたらす者」として強大なフォースの素質を秘めて誕生しました。それはジェダイ・シスの枠組みを超えた超然とした存在になるはずでした。ですが彼は人間として生まれ、愛を知りました。それゆえ、自分よりはるかに邪悪で狡猾な存在に付け込まれ、もてあそばれ、傀儡とされてしまいました。スカイウォーカー=強大なフォースの持ち主、という図式はそのままSWという物語を語るときに、何となくスカイウォーカー=主人公という認識や伝統を生み出すに至ります。

前作でレイの秘めるフォースの資質について様々な意味深な伏線が張られましたが、今作でそんな彼女は別にスカイウォーカーでもなく、特別な血筋に生まれたわけでもない。平凡……というのは流石に語弊がありますが。その生まれながらに持つアイデンティティは何ら特別なものではなかった、という事が描かれてしまいました。そのレイが主人公という事は、もうスカイウォーカー=フォースにバランスをもたらす者≒主人公、という役割はアナキンの時点で終わっていたという事です。続くルーク、レイア、ベンは血筋に付きまとう宿命に縛られずに自由に生きていても良かった。ルークは反乱軍の一員として、ジェダイとしてベイダーをライトサイドに呼び戻したり帝国の崩壊に大きく貢献しました。一見フォースの意志のように見えたのは、ただルークが自分なりの人生を自分の意志で「それが正しいんだ」と信じて、一生懸命歩んできた軌跡でした。

しかし、ベンに関しては生まれたその瞬間から、彼を囲む状況が自由に生きることを許さなかったのではないか……と思います。いずれベン・ソロについては記事を一本は書きたいのですがここでは割愛します(←重要な説明なのに?!)。銀河内戦終結後も忙しい「英雄」の両親のもとに生まれたことで、その両親からまともに構ってもらえず、更に「英雄」という肩書が重くのしかかってしまった……とにかく総括すると、彼の場合は、スカイウォーカーの血筋がマイナスに働いてしまったように思えるのです。

『エピソード8』はスカイウォーカーだからといって頑張らなくても良い、自分には何もないから何にもなれないわけじゃない……そんな対比が僕には読み取れました。それに加えて、前述の明確に弱さが設定された続三部作のキャラクター達、そして「失敗は最良の師」「師は、弟子が超えていくためにある」という教え。オリジナル、プリクエルと経てきたSWは、また違った方向に濃く、僕ら観客の心に訴えかけてきます。先ほど書いた通り、ナンバリングサーガとはスカイウォーカーサーガであり、スカイウォーカーの血をひくベン・ソロは裏の主人公として、『エピソード9』でも物語の中心にあり続けることでしょう。しかし、それに対する主人公側はスカイウォーカーましてやフォースを使えなくても良いのです。少し飛躍した言い方になりますが、SWの冒険に参加する敷居は低くなりました。これからは誰でもそこに飛び込み、主人公になる事だってできるのです。

 

僕はむしろ、『エピソード8』はできる限りの過去作への敬意を持って作られたと思います。しかし、一方でシークエルの第2章として新しい世界あるいは流れを打ち立てる必要がある。いつかは過去とはお別れをする時が来る……。その中での敬意です。

なぜ僕が「ライアン・ジョンソンは過去作への敬愛を持って『エピソード8』を撮った!」と言い切れるのかというと、ヨーダのシーンなのですよ。ファンの方ならピンとくると思いますが、霊体として戻ってきたヨーダは、プリクエルのVFXで生き生きと動く姿ではなく、オリジナルのパペットのぎごちなさと温かみを持って、改めてルークを導きました(時系列で見てもVFX→パペット→パペットなら流れがスムーズですね)。また、なぜアナキンとオビ=ワンは戻ってこなかったのか。追い詰められたルークの元に父が戻ってくるのは何らおかしくないですし、弟子が暗黒面に堕ちたという点ではオビ=ワンと通じるものがあります。しかし、ライアン・ジョンソンが(オビ=ワンについて)語ったところによれば、「ルークはユアン・マクレガーのオビ=ワンとの交流が無い」とのことでした。確かにそうです。ルークはあくまでアレック・ギネスの顔をした老いたオビ=ワンの弟子なので、ユアン・マクレガーのオビ=ワンに導いてもらうというのはどこか違和感があります(それでも僕はプリクエルとオリジナルの交差点として見たかったですが……)。よってアナキンとオビ=ワンではなく、オリジナルのヨーダをルークと引き合わせたシナリオは結果的に、見ていて何も違和感なくしっくりくる映像に仕上がりました。アナキンとオビ=ワンをわざわざ選ばなかった点や、前回の記事で説明したルークの人物像が過去作の延長線上にある点。それこそ、僕がライアン・ジョンソンが過去を葬ったりないがしろにしていることは無い、と感じる根拠です。

『エピソード4』へのオマージュと、これまでのナンバリングサーガの伝統を絶った点。決定事項としては物語全体は希望がある方向へ向かう事。そしていつかは過去とは決別をつけなければならなかった、という点でしょう。僕にはまるで、『エピソード4』(過去作)というインクで新たな物語を描き出したように思えます。

ファルコン内で、フィンが昏睡状態のローズにかぶせる毛布を引き出しから出すときに一瞬見覚えのある本の数々の背表紙が映ります。ヨーダが夜のオクトーの島で、フォースの木もろとも燃やしたと思われた聖典の数々は実は新世代のレイの手で持ち出されていました。よく数えてみるとその数は8冊あるそうです。非常にさりげなく、気の利いた形で『エピソード8』の過去に対する姿勢が表れたシーンでしょう。

 

 

 

これは完全に余談なのですが……先ほどエピソード1~9からなるナンバリングサーガは多層的な解釈ができる大河ドラマである、と僕は書きました。最近新たに気づいたのは、プリクエル=ジェダイの末期,オリジナル=シスの末期という見方です。ジェダイとシス、フォース信望者における象徴的な集団であり、対極の立場に居ながらどちらも1000年以上は続いています。ならば、シークエルに属する『エピソード8』でルークが述べた「ジェダイは私で最後にはならない」(←若干意訳しました)では、またしてもフォースのバランスが崩れ、再び(ジェダイとシスのイタチごっこ)歴史が繰り返されるのではないか、という懸念があります。実際、これを示唆するようなセリフが2015年9月に発売された小説『アフターマス』にあるのです。

しかし、同じく『えピソード8』で明かされた(裏)設定として、最初のジェダイ寺院であるオクトーの孤島には、あるレリーフがあります。それは最初期のジェダイたるプライムジェダイ。旧,新共和国時代に存在するジェダイ・オーダーのようにライトサイドのみを扱うのではなく、ライトサイドとダークサイドの両方に通じる存在だったそうです。前回の記事で、「ジェダイは今後ただライトサイドに傾倒した存在ではなくなるかもしれない」という予想をたてましたが、思わぬ形でこれが当たるかもななどと思っています。現時点のシークエルの展開自体は光と闇の戦いで、未だにルーカスが手掛けた6部作と構図は何ら変わっておらず 、悪く言えば二番煎じ止まりです。思わぬ形で『エピソード9』を手掛けることになったJ.J.エイブラムスですが、シークエルトリロジーが過去の二つのトリロジーとどう異なるから特別な意味合いを持つのか、9部作全体にどのような結末を迎えさせるのか。全ては彼の手にかかっているのです。

ちなみにR2-D2には今後個人的に興味深い役割(を果たす可能性)が残されています。

スター・ウォーズR2-D2の記録がウィル銀河史に収録されたものである

「ウィル銀河史」は、「草案や小説版の冒頭でちょっと触れられているだけの裏設定」ではありません。実はスター・ウォーズのストーリーを理解する上で、「ウィル銀河史」の上記の文章は重要な意味を持っているのです。
では、「ウィル銀河史」とは何でしょうか?
これは実は、長い間、わかりませんでした。何かよくわからないが、スター・ウォーズの話は「ウィル銀河史」に書かれているらしい。そんな位置付けでした。しかし、近年、少しずつその謎が明らかになりつつあります。
まず、ウィル銀河史とは、銀河で起こった重要な出来事を記録している歴史書のようなものらしいということ。そして、R2-D2が記録した情報が「ジェダイの帰還」からおよそ100年後にウィル銀河史に書き加えられたということがわかっています。
これらは「シスの復讐」のメイキング本におけるジョージ・ルーカスへのインタビュー等から明らかになったものです(今後設定が変更になる可能性はありますが、少なくともルーカスはそのように考えていました)。

出典:「ウィル銀河史」とは?

そう、R2-D2はナンバリングサーガで皆勤賞に加え、3POと違いこれまでの記憶をすべて持ったままなのですよ!いうなればスカイウォーカーサーガの生き証人。『エピソード8』の34ABY時点で67年は稼働している事に。また、上に引用したウィル銀河史についてもう少し知りたい方は引用元へ飛んでくださいませ。ウィル銀河史は原語だと"Journal of the whills"。実は『ローグ・ワン』でチアルートとベイズが「ウィルズの守護者」、ウィルズが何かはわからないもののウィルズ自体はカノンに組み込まれているのです。ウィルズというのはジェダイ以上にフォースと強いつながりと知識を持つ集団であり、銀河の歴史に関して半ば傍観的な達観的な立場をとっている……と推測できます。なお、銀河帝国ジェダイと共に粛清を受けたようですが。

ここでは説明は割愛しますが『エピソード9』でスカイウォーカーサーガ、すなわちナンバリングサーガは一旦完結を迎えるとされています。ここからは妄想ですが……『エピソード9』のラストシーンはR2-D2が寺院らしき薄暗い部屋で机に向かったフードをかぶった何者かにしきりに電子音を発している。その人物は「話は分かった、詳しくはまた後で聞かせてもらえないか」と言い、R2と共に部屋から立ち去る。机上の紙に書かれたオーラベッシュが示す題名と目次は「ウィルズ銀河史」「エピソード1/ファントムメナス、エピソード2/クローンの攻撃……」\Directed by J.J.Abrams/

とはいえ、以上に書いた『エピソード9』の予想は全くあてになりません。なぜなら、ライアン・ジョンソンが語るところによれば、ルーカス・フィルムはトリロジー全体の話の流れをあらかじめ決めているわけではなく、各作品を担当する監督にそのストーリーの方針を完全に委任する方針だそうです。『エピソード8』では『エピソード7』で思わせぶりに張られた伏線の数々が盛大にぶん投げられたことから(←言い方に問題あり)、次作の監督が今作の要素を丁寧に拾ってくれる保証は全くない。だからこそ予想がつかず、各監督によって仕上がりが違うSWを楽しめるという事でもありますね。

 

 

 

 

 

 

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(↑Earthdownfall72氏による作品です)

以上、僕が感じた『エピソード8』がナンバリングサーガにもたらした影響などに関する意見でした。自分では納得いっている考えなので、今は『エピソード8』はスムーズに楽しめるどころか、過去作もまた少し違った見方で楽しめるようにもなりました。一作また一作と撮り、気付けば壮大な規模に成長した現代のおとぎ話、スター・ウォーズ。新しく積み重ねられていく毎にサーガ全体に新しい意味合いを持たせたり、また違った解釈を可能にしたりと、見ていて非常に興味深い成長です。とても奥が深いこのシリーズはこれからもまだまだ深く、そして広くなっていくのでしょう。

最後のジェダイ、過ちと希望

 

お久しぶりです、the-Writerです。

気付けば2018年に入り、あれだけ待ち望んでいた『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』は公開され、日本では『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』が6月29日に公開決定いたしました。

ルーク・スカイウォーカーの如くふらっとブログから離れ、なぜ何の音さたも無かったのか?それはシンプルに「書きたい!」という情熱が湧いてこなかったからです。僕はあくまで楽しむためにブログに記事を投稿しているだけなので、読者が待っているんだ……!と、仕事のような気持ちで書くのはできるだけ避けています。「趣味を義務感でやるのなら、そこでやめた方が良い」どこかでこんな言葉を見た事があります。あくまで娯楽としてのブログ。これからもこれを心がけていこうと思います。

 

さて、今回はついに観てきました『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』の感想……の一部です。まだ手元にBlu-ray,DVDといった円盤が無い状態で不安はありますが、書いていこうと思います。その一部とは何か?

ルーク・スカイウォーカーについてです。

 

 

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『エピソード7』ラストでレイがかつて彼の、彼の父のものだったセーバーを差し出し、レイはルークを万感の思いで見つめ、ルークはやさしさと葛藤が要り混じった(『エピソード7』脚本より)瞳でレイを見ている。さあ、ここからどうなるんだ?というところで『エピソード7』 は幕を閉じ、次作へと続きました。

『エピソード8』序盤でオクトーの美しい島が映し出され、『エピソード7』 から引用した不思議な音楽が盛り上がったところで、まさかルークがぶっきらぼうにセーバーを後ろにポイ捨てするとは、まさか誰も夢には思わなかったはず。その姿は動乱の世に嫌気がさし、すべてを捨て、すべてから逃げだした世捨て人そのものであり、過去の若かりしころの栄光の姿とは対照的に落ちぶれ、すさんでいました。

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レイに修行を施すのはR2の奇策ともいえる機転から、レイに修行を施す事にはします。「レッスンは3つだ」という宣言から始まった修行ですが、その最中のちょっかいは意味不明で、どことなく雑な印象を受けます。

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(↑「そう、それだ、それがフォースだ!wwww」草ヒラヒラ)

 

 

『エピソード7』を観た観客の予想や期待の真逆を行く人物像に、恐らく多くのファンが混乱した事でしょう。僕が彼について立てていた予想は、

オクトーに引きこもったのは、恐らくフォースにかかわる重要な手がかりを求めて。『エピソード6』から30年、様々な経験を積み、知識と貫録を兼ね備えたジェダイ・マスターとして新世代のレイを指導してくれる……機は熟したとして、再び緑の光刃のセーバーをその手に握り、レンの騎士団、もしかしたらスノークと頂上決戦を演じてくれる……

と思っていました。中には「こんなのルークじゃない」と拒否した人も少なからずいたのではないでしょうか?何を隠そう、僕もその一人で、あの楽観と希望の象徴のようなキャラクターだったルークが全体的に哀愁漂わせ、しかもどこか嫌味ったらしいジェダイ・マスターであり、その印象を観客に与えたままその生涯を閉じてしまうというのは非常に抵抗がありました。

 

しかし、僕は一旦時間を置くことにしました。じっくりと徐々に彼のキャラクターを理解しようとしていき、様々な考察を読んだ結果、「あ、やっぱり彼はルークだったんだな」と、ようやく受け入れることができました。『エピソード7』を観た観客の「期待」したルーク。正直「期待」の方が、王道で観客の観たいものに寄り添っており、僕もそっちが見たかった。はるばる訪ねてきたレイに、老練の賢者ルークが「今までこうして籠っていたのはフォースの更なる訓練と探究のため……今こそ君を立派なジェダイにし、スノークを倒して銀河に平和をもたらそう!」と頼もしく言い切ってくれた方が良かったです。ですが!敢えてその真逆のアプローチでルークを描き切ってくれたライアン・ジョンソン監督の心意気には拍手を送りたいですね。

『エピソード8』を楽しみにして観に行き、「何か違う」「裏切られた」という感想を抱いた方がこれを読んでおり、何か新しい「ある視点」に気付く手助けにもなれば、と思います。

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なぜ最終的に今作で描かれたルークの人物像、そして彼がたどった物語の結末に納得させられてしまったのか。それは、ジョンソン監督の描き出した「その後のルーク」は、地盤(基礎)となったオリジナル・トリロジーのルークとつながっていたからです。ルーク視点で述べるなら、『エピソード8』は『エピソード6』の直系の続編です。

というわけで、『エピソード8』でようやく明かされたニュー・ジェダイ・オーダー崩壊の真実に焦点を置いて、僕なりの考えを書いていこうと思います。ライアン・ジョンソンが今作のストーリーを考える時、まず取り掛かったのが「なぜルークはただ一人、オクトーの孤島に隠れていたのか?」という謎に答えを出す事、だったそうです。よって今作の核ともいえるこの重要な転機をいかに解釈・紐解くかで、ルークの人物像と今作全体に対する印象や評価は大きく左右されると思います。

 

エンドアの戦い~ニュー・ジェダイ・オーダー崩壊のルークがどんな日々を送っていたのか、自分の考察(実質妄想)を描きたいのですが、あまりに長くなりそうなので泣く泣くカット(´;ω;`) ジェダイとして一人前になり、独り立ちしてジェダイの遺物や知識を求めて銀河中を奔走するルークについて考えるのは結構おいしいのですが……

その代わりとして、以下に STAR WARS/スター・ウォーズ 情報考察Blogさんの記事を2つばかり引用させていただきます。記事を書かないときはちょくちょくチェックさせてもらっては「ほえ~」と言っておりましたw

 

さて、本題のそれ以降のお話です。『エピソード8』劇中のルークの証言によれば、彼は自分と集めたフォース感応者の弟子たちしか知らない場所に新しいジェダイ寺院を作り、そこで訓練の日々を行っていました。そしてある日の夜、弟子たちが寝静まった時間帯にルークはベンの小屋を訪れ、フォースを通じてベンの心を読み取ります。その時に感じたのは、想像を絶する巨大な闇であり、彼の脳裏には「このままでは自身の愛するすべてが破壊される」という恐怖か、はたまた本能の声が浮かびます。ルークはその手に愛用のセーバーを握り、緑の光刃を起動させてしまう……

ここでルークの心情の分析に大きな手掛かりになりそうなのが、ベン視点の回想です。ふと夜中に眠りから覚めたベンに向けて、ルークが鬼気迫る表情でセーバーを構えていたこと。とっさにベンは手元に引き寄せた自身のセーバーでルークに対抗しつつ、小屋をフォースで崩落させてルークを撃退することに成功しました。ルークの鬼気迫る表情、特に殺気で見開かれた目を、過去のどこかで観たことありませんか?

 

まず『エピソード5』では、マスターであるヨーダやオビ=ワンの助言を無視して「友達を助けなければ」という本能に従って単身ベスピンのクラウド・シティに向かいました。そこでベイダーに心身ともに叩きのめされましたが、それが後のベイダーに匹敵するほどの実力を身に着ける修行の強い動機になりました。いわゆる結果オーライ。

そして『エピソード6』、第2デススターの中です。銀河帝国皇帝にして、全ての黒幕であるシス卿ダース・シディアスに仕向けられ、ルークは実の父であるベイダーとの対決を強いられました。クラウドシティでの決闘からおよそ1年、独自に修行を積んだルークは既にベイダーと互角以上の勝負に持ち込めるほどの実力を身につけましたが、目的はベイダーを倒すことではなく、アナキンを呼び戻す事。母パドメが死の間際までそうしたように、ベイダーの中にクローン大戦の英雄であり、勇猛果敢で善良なジェダイ、父アナキン・スカイウォーカーを信じていたのですね。途中からベイダーとの対決を拒むルークですが、ここでベイダーが不用意な発言をします。

「そうか、お前には……妹がいるのか」

(中略)

「お前が暗黒面に下らないならば、彼女を引きずり込むまで」

ここでルークが思わず焦りと恐怖、そして怒りでベイダーをセーバー戦で押し込みます。その後どういうわけか姿勢を崩し(僕はルークの怒りのフォースがベイダーの義足を機能停止にしたのだと思いました)、ベイダーが手すりにつかまりながらも構えるセーバーに無我夢中で武器をたたきつけ、右腕をセーバーごと切り落としてしまうのでした。この時、ひたむきに父を救おうとしていたルークが思わず本能的にその父を殺しかけているのですよ。

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その後、改めて暗黒面を実感したルークは父と違い、毅然とジェダイとして暗黒面への誘いを断ち切りましたが。

『エピソード8』のベン視点の回想でも、ルークは思わず実の父を殺しかけた、あの時と同じ目をしていました。ルークとしては、ベンに気付かれたときにはすでに心が落ち着いて後悔と恥しかなかったそうですが、ベンとしては命が危機にされされている状況なうえ、ルークの殺気=フォースを感じ取ったのでしょうか。(『ローグ・ワン』でチアルートがイードゥに不時着したUウィングの中で、「殺気を持つ者、暗黒のフォースをまとう」と述べていますし)

 

かつてヨーダに向かって「恐れません」といったルーク。しかし、今は「恐ろしい」のです。『エピソード5』の時と同じように本能の声に従い、『エピソード6』の時のようにそんな思いは一瞬だったはずなのに、悲しきかなベンには気付かれてしまいました。客観的に見て彼はいつも通りの行動をとったはずですが……もはや今の彼は「導く側の人間」という状況ゆえ、今回は惨劇に繋がってしまいました。

基本的にオリジナル・トリロジーでは若く、純粋でやんちゃな一面が描かれた希望と楽観の象徴ルークでしたが、結局彼も一人の人間だったのですね。ベンに刃を向けた時に「愛する者を失いたくなかった」という気持ちは、レイアを守るためにベイダーを滅多打ちにしたあの時と同じですし、更にはパドメを死の運命から救いたかったアナキンとも重なります。ルークも悩み、恐怖する僕らと何ら変わりない一人の人間だった、ということがわかりました。

恐らく一番目をかけていた弟子に「自分は裏切られた」と思わせてしまった恥・せっかく自分が築き上げてきたものが一瞬のうちに崩壊した悲しみ・数々の愛弟子たちを失った悲しみ・そして愛する妹レイアと親友ハンの子供を手にかけようとしてしまったふがいなさ・重すぎる過ちの後悔・銀河中の人々から「英雄」「希望の象徴」と称えられてきた事とのギャップ……これらのことが一気に重なった、と僕は推測します。純粋で優しい性格ゆえ、これらの重荷に耐えられず、ふらりと失踪したと。レイアとハンの元に連絡しなかったのもこれで合点がいきます。一人の人間に課すには、あまりにも大きすぎた責任だったのです。

全てが嫌になってオクトーにたどり着いたルークは、まず愛機のT-65Xウィングを海中に沈め、そのSフォイル(X型に開く戦闘翼の事)の装甲をはがして自身の住居の扉にしてしまいます。これまでとは打って変わってジェダイを冷めた視点から捉える事になったルーク。それが、旧共和国時代のジェダイを「偽善と傲慢」と言わしめ、あの夜の悲劇となった大本の動機であるジェダイの全てを終わらせようという考えも浮かんだのでしょう。様々な条件が一挙に重なり、奈落の底に突き落とされたルークは、その心情をこじらせ、全てから逃げて何とも関わりたくない気持ちになり、殻を作ります。バラシュの誓いどころではなく、フォースすらからも自身を閉ざしてひっそりと死を迎えるのを待つばかりだった……。

 

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そこに突然、謎の少女(女性?)レイがやってきたわけですね。そこに、かつて生来の右腕と共に失ったはずの、父アナキンのセーバーを期待するような顔つきで差し出されるわけです。『エピソード7』ラストでは考えが読めない彼でしたが、今となっては葛藤あるいはフラッシュバックが起こっていたのではないかと思います。

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辛い記憶を必死に忘れようと孤島で粛々と生活を送った日々でしたが、父のセーバーの現物を差し出されることで起こったフラッシュバック。まだ自分が平凡な農家の少年で、一生何もない故郷で退屈な日々を送っていくんだと思っていた矢先、偶然に偶然が重なり、ずっと自分を見守っていたオビ=ワンとの邂逅。「君の父は実はジェダイだった」と父の形見であるセーバーを渡され、ジェダイを夢見て送った帝国との戦いの日々。あの時はまだ純粋でしたが、年を取ってから自分が犯した過ちや、過去に抱いた夢や理想とのギャップを感じ取ったのではないでしょうか。やっと決心をつけて全てをひっそりと終わらせようとした(=自殺?)矢先、レイの来訪に邪魔された形になります。過去から逃げたかったのに、それを鮮明に思い出させられたので、受け取ったセーバーを不機嫌な様子でポイ捨てしてレイを置いていく、という反応も納得いく気がします。

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以上が伝説にして最後のジェダイルーク・スカイウォーカーの謎に包まれていた「その後の30年間」の真実でした。とはいえ、まだまだ語られるべきストーリーはあるのでしょうが……

物語の中盤、上記の真実が判明するまではルークはそれをレイには伝えていませんでした。彼はまだあの夜の出来事、それに追随して起こった感情などをまだ克服できていません。時間が止まったままなのです。ハンに何が起こったのをレイから知らされた後では尚更いうことができなかったのでしょう。「彼を殺そうとしたの?あなたがカイロ・レンを創り出したの?!」という詰問が彼の胸に突き刺さったのは想像に難くありません。

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レイは単身、レンを説得しるためにオクトーを飛び出していきます。ルークはもうジェダイを終わらせようとたいまつを持って古代の書物を収めたフォースの木の元へ。その時、背後に気配を感じ、振り向いた先に立っていたのは、霊体となってもなお彼を見守っていたヨーダでした。

「若きスカイウォーカーよ」

決意をヨーダに述べてもなお、全てを燃やすことに躊躇するルーク。フム、と一言発したヨーダはフォースによる天候操作で雷を落とし、容赦なく木を燃やします。衝撃を受けるルークをよそ目に、ヒーッヒッヒッ!と大笑いするヨーダ。かつてダゴバで初遭遇した時のお茶目なふるまいを思い出させます。年を取り、ジェダイ・マスターとなっても、ヨーダの前ではルークは一人の弟子であり、ジェダイの貴重な書物を燃やしたことに文句を垂れる時の顔はまさに「若きスカイウォーカー」のままなのです。

「あんなカビ臭い書物など忘れてしまえ!」

「まだ地平線を見るか、ここ、ここじゃ!目の前にあるものを見ろ!」

「あの娘、レイが持つもの超えるものは、あの書物にはない」

「学んだものを受け継ぐのじゃ、強さ、技巧、だが弱さ、過ち、失敗も」

「失敗、そう失敗こそが最良の師」

「わしらは、彼らが超えていくためにある」

ジェダイを終わらせようとした時に、自分の前に現れたジェダイとしての師であるヨーダ。人とのかかわりを絶ち、ずっと自分の過ちを許せずに悔いていたルークに、ヨーダが授けてくれた失敗すらも肯定する教えがどれほど救いになったか。ルークはようやく、自分のことを許すことができたのではないでしょうか。夜の闇の中、霊体のヨーダと並んでフォースの木が煌々と燃えていく様子を眺めている後ろ姿からは穏やかな雰囲気すら感じます。

レイに聞いたハンの最期、R2が見せてくれたレイアのホログラム、そしてフォースを通じてレイアに呼びかけた事……少しずつ心情が前向きに変化していたルークは、ようやく復活を果たしました。かつてのように、銀河の人々のために。帝国を倒した反乱軍の英雄・伝説のジェダイルーク・スカイウォーカーとして。今一度その名前を背負ってクレイトに(幻影として)赴きます。ようやく再開した兄妹。レイアが何も言わずともルークを許すのはグッと来ました。しかし、レイアは自分を探し求めていた間に、ベイダーの娘であることを暴露されて失脚し、長年連れ添った愛する夫ハンを残酷な経緯で失い、息子のベンすら暗黒面に捕らわれて諦めかけていました。そんな彼女にルークがかけた言葉は「誰も真に、いなくなったりはしない」。レイアとの最後の別れが、自分の最期が近いことを悟っていた上でのものだとしたら泣けますね。

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唯一、ドロイドである3POだけはルークがそこにはいないことに気付いていたのか。いたずらっぽいウィンクは口止めの意でしょうか。ファーストオーダーが突入しようとしてくる入り口の割れ目にローブをはためかせて堂々と向かいます。希望の象徴として、暗闇からついにその姿を現したルーク。それを次々に頭を上げて見る兵士たちが、ルーク復活の衝撃と感動を実感させてくれます。

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追手が迫る中、民衆の前に一人立ち、逃げ道を切り開くその姿はまさに救世主のモーゼのようです。ルークと決着をつけようと一人来たカイロ・レンもしくはベン・ソロ。ルークが幻影として採用した姿は、ベンが最後に見たルークの姿ですが、衣装が違います。黒地の一見シンプルなローブの下に見える白い衣服。まさに、絶望から復活して希望を見出したルークそのものを表していると思います。

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せめてレジスタンスの彼らが逃げる時間を稼ぐために、ルークは幻影として最大限できることをしますね。まずレンが不安定な精神の持ち主である事を利用して、レンが最後に見た姿(レンが殺される寸前に見た姿)で、レンご執心のアナキンのセーバーを持って彼と向き合います。レンを心の底から自分自身に注意を惹きつけ、攻撃をひたすらかわす事で、レジスタンスの撤退を可能にするのです。これで自分の足跡がクレイトの真っ白な地表に残らないことにも気づかれません。この時、ルークのセーバーの握り方なのですが、よく見ると『エピソード5』のあのちょっと変なぎごちない感じの持ち方です(演出が細かい!)。さらに、ルークは基本的に右手を上に構えていたのですが、今回は左手を上に構えているのです。命がかかっている一騎打ちで敢えて逆の手を使う……このことから、ルークはレンと戦う意志は決して持ち合わせていない、と僕は読み取りました。

ここでルークは"I failed you, Ben. I'm sorry."と言います。かつてオビ=ワンがムスタファーでアナキンに言ったようにです。ベンを導きそこなった、失望させた、という思いはあるようです。なお、ベイダーの時のように積極的な救済の意志は見られません。今回は敢えて、本人の好きなようにやらせる一方、次世代のレイたちに希望を託したのでしょうか?

この後はご存知の通り、幻影でレンを翻弄している間に実はレジスタンスを逃がすことに成功したのが知れ渡ります。と、口先と幻影のみで未熟な青年一人を翻弄した辺り、ルークのマスターとしての実力を垣間見ました。"See you around, kid" もう彼が"kid"という側に立ったんですね……(遠い目で)。まさしく、ヨーダから受け継いだ教え「ジェダイはその力を決して攻撃ではなく、知識と防御のために使う」を体で実行に移したのが、この一連のシーンでもありました。

この後ルークはオクトーで双子の夕日を見つめながら、その生涯を閉じます。それは、レイに言わせれば「苦しみや絶望ではなく、穏やかで意義あるものだった」そうです。彼が満足げな表情で故郷を想起させる双子の太陽を見つめていた時に感じていたのは、望郷の念か、レイアやハンへの愛か、次世代への希望だったのか。その結論を出すのは別の機会に譲りまして……彼が最後に満たされていた事は確かです。非常にドラマチックなシーンでした。

一度は「ジェダイは、滅びる」と言い切るも最終的に希望を取り戻し、「私は、最後のジェダイにはならない」と確信したルーク。彼という火花に呼応するように、レイ、そして銀河各地で未だ名も知らぬ子供たちのフォース、そして希望が燃え上がりつつあります。今度復活する時にはただライトサイドに傾倒した者ではなくなっている可能性もあるジェダイ。そんなジェダイがこれからも立ち上がっていく事が示唆されているだけでなく、ルークの希望は次世代の人間たちに受け継がれ、彼らとその物語を前進させるのでしょう。

 

『エピソード8』を受け入れられなかった方の中には、ルークの人物像だけでなく、実際にライトセーバーをぶつける戦いすらせずに最期を迎えた事が嫌だった……という方もいるかもしれません。少なくとも、僕は最初そう感じていました。

しかし、時間をおいて考えると、続三部作はレイ達の物語であり、ルークの冒険は監督も述べているとおり、旧三部作で完結しています。旧三部作の主人公が本格的に復活して一緒に戦うとなれば、レイ達を食うほどの存在感を発揮し、せっかくの続三部作の物語が薄れる恐れがあります。よって『エピソード8』でルークとのお別れは不可避だったのかな、と今では思うのです。丁度ルークの祖母にあたるシミ・スカイウォーカーの言葉を思い出します。「運命は変えられないの。夕日が沈むのを止められないのと同じ」

ルークが旧三部作を終えてからたどった道筋は、決して僕ら観客が期待していたものではありませんでした。「いつまでも幸せに、暮らしましたとさ」という絵にかいたような幸せな生活を送ってほしかったですが。そもそもそんな状態なら、続く『エピソード7』からの続三部作に出演する必要が無いわけで。物語が続く以上は、やはり何らかの試練を受けないと物語として成立しません。仮にその「幸せな」状態で出演したとしても、何一つ不足しているものはない完璧なキャラクターということになるので、それこそ前述の通りレイ達の影が薄くなってしまいます。言い方を変えれば、今回のすさんだ状態は、ルークという最初のSWの主人公である伝説級のキャラクターに対する足かせ、あるいはハンデだったわけです。

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それでもなお、最後に彼が満足し状態で逝ったなら、自分で自分の歩んできた人生に何か意味が意義が見いだせたなら、少なくとも僕は嬉しく思います。プリクエル世代の僕ですが、『エピソード7』に向けてルーカスのSW6部作を何度も何度も見て、ルークや他のキャラクター達が本当に好きになりました。最初は受け付けなかった『エピソード8』のルークの最期は今では悲しく、壮大で、非常に美しく思います。最高のやり方で、ルークというキャラクターを送り出せたと思いました。

 

 

 

 

以上、現在『エピソード8』のルーク・スカイウォーカーについて思ったことでした。本作品の特別映像インタビューでフィンを演じるジョン・ボイエガが述べた通り「全てが逆の方向に動き始める」、実際ルークは衝撃の人物像でしたが、冷静に少しずつ紐解いてみるとしっかりと旧三部作のルークに根差したものでした。衝撃を裏付ける丁寧なキャラクター構築、脚本も務めたライアン・ジョンソン監督のスターウォーズ愛をひしひしと感じました。その手腕と、ルーク・スカイウォーカーの人生を完結させるという英断には拍手を送りたいです。見事でした……

 

なお、『エピソード8』の感想はこれだけにはとどまりません。元々一本の記事だった予定が、ルークの個所を書いているうちにかなり長くなってしまったので急きょこうして独立した記事にしたわけでして……とにかく、今『エピソード8』について感じた事を書いた記事を鋭意執筆中です。またそこでお会いしませふ(´・ω・)ノシ

 

 

トランスフォーマー・シネマティック・ユニバースの魅力について語ってみる

僕に好きなものは沢山あります。

冷静に振り返ってみると、本当に多趣味というべきか様々なシリーズのファンでした。思い出せる限りで列挙していきますと、

・『ドラえもん』シリーズ

東映スーパー戦隊仮面ライダーシリーズ

・ディズニーのアニメ作品

・スタジオ・ジブリのアニメ作品

江戸川乱歩氏による『怪人二十面相』シリーズ

ダレン・シャン氏による『ダレン・シャン』や『デモナータ』など

・『海底二万里』『十五少年漂流記』『地底旅行』などの古典小説

・『ハリー・ポッター』シリーズ

・『ケロロ軍曹』シリーズ

・マーベル・シネマティック・ユニバース

・DCエクステンディッド・ユニバース

・『スター・ウォーズ』シリーズ

また、フィクションの作品ものに限らなければ、工作・ナノブロック・プラモデル、そして最近はPCゲームの『マインクラフト』にはまりつつあるなど、順調に我が道を行っていますね( ・ω・)y-~~

 

そんな僕の中で、今ホットになりつつシリーズ。

それが実写映画の『トランスフォーマー』シリーズです。

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今年2017年の8月10日より、最新作である『トランスフォーマー/最後の騎士王』が公開されました。シリーズ5作目であるにも関わらず、まったく終息を見せないストーリー、続々と控えている続編群、あまり進歩が無い出来、など衰えどころかまだまだこれからが楽しみなシリーズなのです。

2007年に公開された『トランスフォーマー』からの計4作品、最初は特に感じるものはなく、「観た後はとにかく疲れるなー」とすら思っていました。……が、なぜか繰り返し見ているうちに徐々にはまっていったと思われます。

トランスフォーマー』シリーズは、今年で10周年を迎えます。後述しますが、続々と控える続編群や現在のハリウッドでの情勢により、本シリーズは「トランスフォーマー・シネマティック・ユニバース」という名前を授かるに至りました(あまり浸透していない名前ですね)。

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なぜ、僕が本シリーズにはまったのか。未だシリーズ未見だという方は、本記事で「トランスフォーマー・シネマティック・ユニバース」の魅力を少しでも知っていただきたいと思います。ただ、個人的な記録という一面もあるので、読みづらいところもあるかもしれませんが、ご容赦くださいませ(´・ω・)

 

トランスフォーマーとは何なのか?

トランスフォーマーとは、地球よりはるか彼方の遠方に存在する惑星・サイバトロンの住民です。地球よりはるかに巨大なその惑星表面は、六角形のハニカム構造の建造物でくまなくおおわれています。

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彼らの肉体は金属で構成される金属生命体です。彼らの中に半ば伝説という形で伝わるところによれば、元々オール・スパークという金属に命を与える特殊なエネルギーを持つキューブ型の物体により、彼らが誕生したとされています。

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しかし、事実として確定している所によれば、「創造主」と呼ばれる超高度な技術を持つ異星人により、有機物を元素変換することで得られるトランスフォーミウムという金属によって創り出されました(オール・スパークと創造主の関係性については未だ不明です)。

彼らは人間と同じく記憶や感情などを持ち合わせ、胸部に格納される青白く発光する物体「スパーク」が、それらを収納しています。そのため、胸部のスパークもしくは頭部を破壊されると、死を迎えます。

 

本当はサイバトロン星人と呼ばれるべきなのですが、後述の特徴により、我々地球人から「トランスフォーマー」と呼ばれています。

トランスフォーマーという名前は、変形(トランスフォーム)から来ています。

彼らを構成する金属トランスフォーミウムは、地球の分析によれば「プログラム可能な物質」であるそうです。つまり、彼らの意志・あるいは創造主の手によってその体は任意に原子レベルで再構成することが可能になります。

トランスフォーマー名物のあのガシャガシャ変形はトランスフォーミウムの性質由来なのですね。

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まず彼らは「サイバトロンモード」という、いかにも地球外のエイリアンらしい見た目をした一番基本の形態を持っています。それが、地球など他の星へ突入する際に「トランジッションモード」という卵型の隕石形態や、その惑星に滞在する際に(主に擬態目的で)自動車といった機械の類をスキャンし、内部構造に至るまで完璧にコピー・その形にトランスフォームします。それが「アース・モード」です。

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そのコピーはあまりにも完璧なので、彼らが自分たちの意志でガシャガシャと変形して正体でも明かさない限り、人間にはさっぱりわかりません。

地球よりも高度な技術力を持ち、優れた文明を築いてきた彼ら。銀河を渡って星から星へ宇宙を旅したり、物質転送といった技術も開発。そして太古の昔から人類史に干渉してもいました。

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しかしその中でオール・スパークを巡って、トランスフォーマー達は「オートボット」と「ディセプティコン」に二分されました。オプティマス・プライム率いるオートボットはに他の生物との共存を重んじる「良い者」の集団ですが、メガトロン率いるディセプティコン達は基本的に手段を選ばない残虐な「悪者」の集団です。それでもやはり例外はありますが。

 

……以上がトランスフォーマー達の説明となります。それでは、以下にシリーズについて書いていきますね。

 

 

個性的なキャラクター達

良い映画に共通する3つの特徴としてよく挙がるのが、キャラクター・ストーリー・世界観(設定)です。その一つであるキャラクターの造形に関しては、トランスフォーマーも文句なくあてはまるのです。

実を言うとただでさえキャラクター数が多いのに、特にトランスフォーマーはガチャガチャした見た目で覚え辛いので、僕自身覚えているキャラクターが少ないです(´・ω・)

一人一人紹介してもいいのですが、それだと膨大な量になってしまうので絞っていきましょう。

 

まずは、オプティマス・プライム。

シリーズの看板的キャラクターであり、この人がいないとシリーズは成り立たない(『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャックや、『ターミネーター』のT-800、『ミッション・インポッシブル』のイーサンですね)。

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「プライム」という称号は、トランスフォーマーのリーダーを意味します。最初期のトランスフォーマーに属する7人のプライムの血を引きながら、実力でその称号を受け継ぎました。さらに現時点では詳細は不明ながら、一部の伝説のトランスフォーマーたちと同じ「騎士」の称号も得ているようです。

紳士的で聡明な性格であり、基本的に人類からの要請は受け入れる寛容な姿勢を見せます。それに加えて作中では1,2を争う強さも持ち合わせ、仲間であるオートボット達から絶大な尊敬を集めています。事情あって隠居した後、帰還した時には仲間たちは一同結集し、一気に士気が高まりました。

 

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黄色いボディが特徴的なバンブルビー。ノイズのような電子音声、もしくはラジオの音声を代用する事でしかしゃべれないものの、感情表現がとても豊かです。その彼とは、オプティマスは旧知の戦友だであり、信頼できる右腕だそうで。

また、今は宿敵同士のメガトロンとは、かつて先代のプライムであるセンチネルの元、同僚で良きライバルでした。それが、思想が真っ向から対立したことから、オートボットディセプティコンの内戦に突入したのです。

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 前述の通り戦闘力は相当のものであり、彼が戦いの場に参戦すると大抵は無双状態になります。その人柄合わせて、彼がスクリーンにいる間は一種の安心感を覚えることができるのです。戦闘時には口元をマスクがシャキンッ!とカッコよく覆い、主に剣を使って暴れまわりますね。

人間の友であるサムを守るため、メガトロンらディセプティコン3人をまとめて相手にして優勢に戦ったりもしました。

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「弱いぞォ!」

「メタルのクズめ!」

「ガラクタの、役立たずの、スクラップがぁ!」

 

……ちなみにメガトロンのセリフではありません。全部オプティマスのセリフです。

他にも、

「最期に言い残すことは?」

「その顔をはいでやる」

とても正義の味方とは思えないほどの恐ろしい名言を連発しています。こうなるのはディセプティコンとの戦闘中の身なのですが……戦闘スタイルはまさしく残虐そのもの。隙あらば敵の顔面を狙い、顔面真っ二つなんて当たり前という調子です(((((゚Д゚;)))))アワワ

メガトロンは一応「破壊大帝」という異名で恐れられていますが、非公式ながらオプティマスは「サイバトロン破壊大帝」あるいは「顔面破壊大帝」の名で呼ばれているとかいないとか。メガトロンってオプティマスと1対1になると強さでも残虐さでもかすんでしまいますね……。

ということで、これが人間の頼もしき守護者であり、オートボットの司令官であるオプティマス・プライムでした。もちろん彼は数多くのキャラクターの筆頭に過ぎず、他にもまだまだ面白いキャラクターは沢山いますよ!

 

 

サイバトロンと地球が紡ぐ壮大なストーリー

現在、本シリーズは

トランスフォーマー

トランスフォーマー リベンジ』

トランスフォーマー ダークサイドムーン』

トランスフォーマー ロストエイジ

トランスフォーマー 最後の騎士王』

の計5作品までが製作されています。

毎回毎回のお約束にもなっているのが、「彼らが実は過去にも地球に来ていました」という歴史秘話。

エイリアンであるトランスフォーマー達は、1作目の2007年時点で突然ポッと地球に飛来したわけではなく、実は恐竜の時代から地球の歴史にかかわってきていたのです。

 「え、あの時トランスフォーマーがいたの?!」

という逸話の数々。詳しくは作品を鑑賞して確かめてもらいたいのですが、特に現時点で最新作である『最後の騎士王』では、歴史の裏で行われていた人類とトランスフォーマーの接触という側面がメインとして取り上げられていましたね。歴史もののミステリー感覚や、過去からの遺産を巡って起きる現代での波乱。

そもそも全く体のサイズが違うことから、そもそも交流の成立自体が怪しい人間とトランスフォーマーの関係。意外としか言い表せないサイバトロンと地球の接点は、久しぶりに子供らしい純粋な好奇心と想像を刺激してきます。

一例を挙げてみますと、

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↑およそ6500万年前に有機物を変換することでしか得られないトランスフォーミウム欲しさに地球に攻め込み、恐竜を絶滅においやった「創造主」たち。

 

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↑およそ1万年前、自分たちの動力源であるエネルゴンを求めて地球に飛来した最初の7人のプライムたち。

 

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↑484年に地球に飛来したアイアコンの騎士達。およそ1000年前の異民族との戦争では、円卓の騎士たちに力を貸した。

 

f:id:the-Writer:20170919203850p:plain↑1866年に撮影された、幕末の武士達とドリフト。ちなみに200年以上続いた江戸幕府が終わりを告げた大政奉還はこの翌年の1867年。

ドリフトは4作目『ロストエイジ』からの登場ですが、彼はずっとこの地球にいたのですね。トランスフォーマー達は地球滞在時に擬態のために、アースモードとして地球のものに擬態する、というのは先ほど説明した通りです。初期に「創造主」につくられた騎士達である「ダイノボット」は、当時地球最強の生物である恐竜を模したデザインでした。ならば、特に自動車などが存在しない江戸時代では、ドリフトは武士たちの甲冑を取り入れたデザインに体を変化させた……という考察ができます。日本の文化がここまで直接影響し、日本の武士たちとの交流があり徒党を組んで戦ったであろうトランスフォーマーがいる、という設定は非常に興味をそそられますね。

 

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↑1897年、その10万年前にオールスパークを探して地球に墜落し、凍結していたメガトロンが発掘される。政府に回収されたメガトロンは、NB-1というコードネームで秘密組織セクター7の管轄下に。メガトロンを研究して得られた技術はまさしくオーパーツであり、自動車のエンジン・ロケット・インターネットといった技術革新に繋がります。

 

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↑1939年から6年間続いた第二次世界大戦にて、連合国軍に属していたバンブルビー。特殊部隊「悪魔の旅団」のメンバーとしてナチスせん滅に活躍。ZB-7というコードネームで呼ばれ、このころの彼はオプティマス曰く「とても手に負えなかった」とのこと。黄色いボディ・良くも悪くも子供っぽい性格・電子音声によるコミュニケーションでマスコット的なポジションのバンブルビーですが、かつてカーキ色で重火器をぶっ放して冷酷に敵軍を吹き飛ばしていたとは、ギャップが激しい過去を持っていますね。

 

 

代表的なものをいくつか挙げてみましたが、これ以外にもトランスフォーマーが介入してきた事例はまだまだたくさんあります。

『最後の騎士王』では過去の写真にトランスフォーマーが写りこんでいる……という事例が多数紹介されました。余談ですが、何となくスレンダーマンを連想してしまいました。何の変哲もない写真を加工し、本来あり得ないものを写りこませるというのは、フィクションならではの楽しみであり、ワクワクさせてくれますね!

またこの広大な宇宙において、トランスフォーマーだけはない他のエイリアンの存在も示唆されており、彼らがどんな生物でどんな関わり方をしてくるのか、という考察も楽しいです。

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4作目『ロストエイジ』を作り終えた時点で、既にハリウッドではマーベル・スタジオによるマーベル・シネマティック・ユニバースが大成功を収めていました。実はすべて同じ世界にいるという設定の、一見全く異なるスーパーヒーローたちの映画を何作も作り、数年に一度彼らが一挙に集合するお祭り映画も作る……

これは俗に「ユニバース商法」と呼ばれ、マーベルのライバルであるDCコミックスも同じ試みを始め、スターウォーズや、ハリウッド版ゴジラ、はたまたユニバーサル・スタジオの古典的モンスター達まで、様々なシリーズが独自のユニバースを作ろうとしています。

言わずもがなトランスフォーマーもこの流れに乗ることとなり、その結果が以下の通りです↓

以前の記事で述べましたが、僕は脚本関係のニュースも大好き。そんな中で飛び込んで来た、「ライターズ・ルーム」の話はまさに「ありがとう……ありがとう……」とひれふさんばかり。トランスフォーマーシリーズは終わるどころか、まだまだこれからなのです。また、以前『G.I.ジョー』とのクロスオーバーがささやかれたこともありましたが、それ以降何の音さたもないので「企画は死んだか……?」と思われていましたが?

 

なんとまだ水面下で続行しているそうです!G.I.ジョーは、トランスフォーマーと同じくハズブロ社が出がけるオモチャをベースとしたシリーズであり、様々な特殊ガジェットを装備した国際編成部隊の活躍を描いています。2大シリーズのクロスオーバーは聞いただけで非常に楽しみになります。是非とも実現してほしいところ。

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このように、地球の各地に隠された謎や歴史を紐解きながら、膨大なストーリーが展開されようとしている所も、トランスフォーマーシリーズの魅力なのです。

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 爆発、爆発、爆発!!

 最近、ディズニーが製作しているスターウォーズは『ローグ・ワン』『ハン・ソロ(仮題)』『エピソード9(仮)』と、監督交代のトラブルに見舞われまくっているそうですが……本シリーズは(なぜか)5本通してずっと同じ監督が製作してきています。これまでのシリーズの中心人物ともいえる男、それがマイケル・ベイなのです。

マイケル・ベイ、具体的に彼はどんな人間なのか?

 

国内・海外問わずファンの間で「マイケル・ベイの脳ミソには火薬が詰まってるのではないか」と言われるほど、とにかく迫力に満ちた爆発(とカーチェイス)の描写に定評がある。『アイランド』ではベイが車を運転しているなか鉄道用の車輪運搬トレーラーと遭遇し、「これが落ちたらヤバそう」と感じ、同映画のカーチェイスシーンにこの要素を加えている。特に『トランスフォーマー/リベンジ』のクライマックスで使われた火薬の量はハリウッド映画史上最大級と言われるほど。 また、異様なめまぐるしさのカット割と、やたら揺れたり回ったりのカメラワークから、観客の中には酔う人も多い。「何が起こっているかさっぱりわからないが迫力だけは感じる」という評価が少なくない。 土埃や火花の中でカメラを覗き込むベイの姿は、それ自体が既に映画的である。また、かなりのミリタリーフェチで、映画ではだいたい米軍が活躍する。 伊藤計劃も指摘していたが、『トランスフォーマー』を例にとると、窮地に陥った味方基地に対して、まず無人偵察機が飛び、AWACSが急行し、A-10が地上を制圧し、そしてAC-130が対地支援攻撃を行う、という過程を省かずに(作品全体としてはそんなに必要な描写でもないのに)しっかりと描く。軍事考証がしっかりしていると言うよりは、米軍の本気を映像にしたいという素直な欲求がにじみ出ていると言える。かっこよく映してくれるので、米軍も快く協力してくれるという。加えて、スピルバーグが舌を巻くほどに車の描写が上手く、彼に「車をかっこよく撮らせたらベイの右に出る人はいないね」とまで言わせているほど。というのも、そもそも車のCMを作っていたこともあるからである。 

出典:マイケル・ベイ 

 

 

かの有名なクリストファー・ノーラン監督のIMAXにまつわる秘話と並ぶレベルに壮絶な話ですね……

 このように、車を撮らせると彼の右に出るものはいない。加えて地獄のような爆発祭りを勝手に開催してくれるホットな男、それがマイケル・ベイなのです。

しかしこの人、それ以外の描写がアレです。特に『ロストエイジ』は顕著でしたが、特に人間パートは不器用な描写であり、無駄なシーンも多い。それがけっこう映画の勢いを殺してしまい、ゲンナリすることもあります。このせいで、「彼の映画は中身が無い」と評されることも多々あったり。とにかく不器用なんです。

 

が、しかし!ILMのスタッフの方々が毎回膨大な量の作業をしっかりやりこんでくれるおかげで、スクリーンにうつるトランスフォーマー達は非常に興奮する仕上がりになっています!ガシャガシャ変形シーンは垂涎もの。車から人型に変形し、人間のように表情もある金属生命体だなんてCG(以下VFXと書きます)でしか再現できないわけですが。VFXとわかっていても、そのVFXで描かれる金属の質感はなぜかハートをくすぐります。f:id:the-Writer:20170921211925j:plain

人間とトランスフォーマーが写るシーンや、トランスフォーマーが市街地や森などで戦うシーンは、最初に豪快に撮影した映像に後からVFXトランスフォーマー達を描きこむことになります(場合によっては街ごとVFXで製作します)。映像の質を保つために、特に実物とVFXの境目はきれいに処理を行わなければいけません。しかし、5作通してもその映像は隅々まで丹念に作りこまれています。トランスフォーマー達は驚くほどにに映像になじんで暴れまわっており、「CGだから本当は存在しない」と思っていても、息をのむ迫力です。

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シリーズもので、だいぶ年月が経った後に続編や前日譚を製作すると、進歩したCG技術のせいで話はつながっているはずなのに、映像の質がだいぶ違ってしまう……という事象がシリーズもので起こってしまうことがあります。トランスフォーマーは、1作目から5作目までで10年が経過していますが、今1作目を観ても全く見劣りしません。2007年当時、限界までVFXを丁寧に作りこんだからなのか。バンブルビーを主人公に据えた、1作目の『トランスフォーマー』から20年前の1987年を舞台とした単独作が来年の年末に公開されますが、このVFXのクオリティなら、違和感無しに観ることができますね。

 

ダイナミックな映像に、VFXによって命を吹き込まれた、緻密で金属製ながら非常に有機的なトランフォーマーたちが、画面で動く。地面をめり込ませ、お互いに高い金属音と火花を散らせあいながら戦う。その中を小さな人間たちが一生懸命に駆け抜け、更にマイケル・ベイがさりげなく撮るアツい画。爆発とVFXの雪崩は、シリーズの醍醐味なのです。

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以上、トランスフォーマー・シネマティック・ユニバースについてたくさん書いてみました。とにかく破壊王マイケル・ベイにより、爆発とVFXメガ盛りである本シリーズですが、とにかく「考えるな、感じろ」という言葉が当てはまると思います。画と迫力がすごいのに中身は空っぽというこの感覚、根底に流れるパラマウント配給のエンタメ作品の空気など、とにかく観て感じてほしいですし、はまる人ははまりますよ!

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マイケル・ベイは『最後の騎士王』を持って本シリーズから卒業するので、『最後の騎士王』から始まる三部作の第2章のメガホンは他の誰かに譲られます。また12人の素晴らしい脚本家たちによるチーム「ライターズ・ルーム」により、ストーリーは様々な方向へ動き始めています。これらの事から、トランスフォーマー・シネマティック・ユニバースはもっと面白くなるのです。本記事に書いた基本設定を踏まえた上で今観始めるのなら、通常の何倍も楽しめると思います。これを機会に、試しに1作目『トランスフォーマー』を観てみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

P.S 5作目にして新たなスタートでもある『最後の騎士王』は、ベイ監督曰く「よく見ると、この映画にはここから目指せる展開がたくさんあるんだ。つまり、シリーズをどのようにも続けられる“踏切板”のようなものなんだよとの事。脚本関係のニュースが大好きな僕は、「これだ!( ✧Д✧) キラーン」となりました。本記事には、今後に記事になるかもしれないヒントが大量に隠れております(-ω-)フフフ

次回の記事が、以前の予告にあったものなのか、それとも本記事内で言及されたものなのかはお楽しみに!

また、最近記事の更新ペースがめっきりと落ちていますが、一応理由はありまして……僕には「波」があるのですが、「波」が来た時には書きたいことが沢山浮かびますし、キーボードに走らせる指も大変勢いが良いです。今は「波」の絶好調時ではないので、頻繁に記事を書けるわけではないですが、それでもポツポツとは浮かんできてはいます!最近書いていないスターウォーズに関する話も、一つ面白そうなアイディアもありますし……決して義務感からではなく、楽しんで自分の興味の赴くままに記事を書く、それが僕の目指している方針です。

「とびらあけて」は傑作です

『シンデレラ』『白雪姫』『ピーターパン』『リトル・マーメイド』『くまのプーさん』…… ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオが作り続けてきたアニメーション作品は、時代を超えて大勢の人々にインスピレーション、メッセージを与えてきました。

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そんな中で、「ディズニー・プリンセス」というくくりが存在しますね。そのままとれば、ディズニーが創り出してきたお姫様たちの事です。シンデレラ, 白雪姫, オーロラ姫などが特に顕著ですが、清純で心優しく、美しいお姫様が何らかの危機に陥った時、王子様が颯爽と助けに来てくれる……(コアなファンの方々から怒られそうな書き方ですが)。初期のころに製作された作品群のプリンセスたちは、その性格・行動を持って僕らに普遍的なメッセージを伝えてくれますが、近年はそういう「受動的な」姿勢を打ち破ろうという姿勢が見られます。インターネットの発達もあり、世界中の人々の交流が盛んになるこの情勢で、これまでの伝統的な様々な枠組みを壊そう、もっと自由になろうよ、という動きがいたるところで起こっています。

さて、ディズニーのアニメ作品で最もヒットした作品は何でしょうか?

 

アナと雪の女王』です。

アメリカ本国は2013年11月27日、日本では翌年の2014年3月14日に公開されました(原題は"Frozen")。

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アナ雪という略称でも親しまれている本作品ですが、特に大好きな一本です。

僕は小さいころからディズニー作品に囲まれて育ったのでなじみは非常に深く、なんとなくディズニー作品が持つ雰囲気や世界、その温かみを肌で感じていました。その記憶が時々フラッシュバックのごとく蘇ったりしますが、非常に心地よいものです。

そして『アナと雪の女王』をも観た時、「こ、これは正統なディズニー作品だ……!」と直感で感じました。家族愛、認め合うことの大切さなどのメッセージはもちろん、作品が持つ雰囲気が僕がディズニーに慣れ親しんだ感覚、感じたことをビビッと思い出させてくれたんですね。

アナと雪の女王』には、鑑賞済みの方ならご存知の通り、"Let it go"「ありのままで」以外にも数々の名曲が入っています。その中で僕が特に気に入っている曲が、"Love is an open door"「とびらあけて」なのです。

 

 

「とびらあけて」の魅力

アレンデール王国の戴冠式の日。女王であるエルサと、その妹であり姫のアナは、エルサの戴冠式のパーティーに参加します。するとアナは、日中偶然出会ったサザンアイルズ王国のハンス王子と再会します。夜の誰もいない窓辺に腰かけ、二人は上に兄や姉がいるゆえの境遇を打ち明け、意気投合……

そうして始まるのが、このアナとハンスのデュエット曲「とびらあけて」ですね。


この曲は本当に大好きでして。iphoneで何回再生したか数え切れません(もしかして3桁行ってる?)。デュエットならではの、歌う2人が織りなす「歌」が良いんです。なので時々youtubeニコニコ動画で、いわゆる「歌ってみた」という一般人が歌っている動画をあさったりします。

そういえば、『アラジン』で有名な"A Whole New World"「ホール・ニュー・ワールド」が世界中で大ヒットし、アカデミー賞を受賞していましたね。言うまでもなく、大好きなデュエット曲ですが、「とびらあけて」はそれに匹敵する……それほどに好きなのです。

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一番好きなのは原点にして頂点の原語版でしょうか。このアナ役のクリスティン・ベルと、ハンス役のサンティノ・フォンタナの相性が最高で、その2人が歌うメロディは唯一無二、最高の一曲です。実際、後に彼女らが何らかのライブ?で歌った時の歌を聴いたのですが、「この劇中のバージョンにはかなわないなぁ」と思いました。

日本語版も良いのですが、ハンス役の津田英佑がサビの「とびらあーけーてー」のところで、アナ役の神田沙也加に押し負けている気がするのですね。惜しいところです。

 

 

原語版基準でこの曲について思う事を書いてみますと……

アナとハンスがそれぞれ自分の境遇を告白しあった後、少し沈んだ雰囲気になったところで曲のイントロと共に、ハンスがアナを受け入れる意思を示します。ミュージカルならではの、場面転換の合図なのですね。すると、アナも気持ちを切り替え、"OK, can I just, say something crazy?"「ねぇ、ちょっとおかしなこと言ってもいい?」と始め、曲が続きます。

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この曲は全編通してテンポが良く、アナとハンスがリズミカルに会話を重ね、サビに繋がります。Love is an open door~♪と2人で声を合わせてのびやかに歌うサビは非常に気持ちが良いです!直線的にまっすぐ歌うアナと、それをサポートするように、しかしアナを相互的に引き立て、聴く人を虜にするハーモニーを作るのですね。最後に行くにつれて2人の息がますますピッタリ合っていくさまも必見です。

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この歌の分かれ目はこの2回あるサビ、長めの高音をキレイに2人で調和して歌いきれるか、といっても過言ではないと思います。繰り返しになってしまいますが、クリスティンとチャドのコラボは聴く者を恋させるほどに素晴らしいものなのです。

また、機会があればこの曲のBGMのみ(カラオケ)を聞いてみてはいかがでしょう?普段は歌声に目が行きがちですが、普段とは違うこの曲の魅力に気付くかもしれません。

(この先、『アナと雪の女王』の重大なネタバレがあるので未見の方はご注意ください)

 

 

 

 

 

 

 

「とびらあけて」の裏に潜む真意

物語が終盤に差し掛かると、なんとハンス王子が悪役であるということが判明します。彼の背景をよく掘り下げると、末っ子ゆえに兄たちに相手にされず、王の子に産まれても王位も継承できないので、自分が王になるために平和なアレンデール王国の姫と結婚する……それが彼の目的でした。

この主人公のお姫様のパートナーとなるはずの王子が悪役(ヴィラン)という展開は、先のエルサの「その日に会った人間と結婚するものではない」というセリフ含めて、初期に製作されたディズニー・プリンセスの型への、いわゆる「アンチテーゼ」なのですね。

しかし、この豹変ぶりに戸惑いどころか違和感を感じた人も多いはずです。そこで、監督等から明かされた裏設定、ハンス王子とは本当は誰なのか……それが以下のサイト様の記事です。

かいつまんで言うならば、ハンス王子は「鏡」です。ハンスは、その場面に居る登場人物たちの気持ちを反映した行動や態度をとっていた……これを頭に入れてもう一度本編を観ると「あぁ、確かにそうかも」となると思います。

幼少期から兄弟たちに虐げられて性格がゆがんだハンス王子。彼は、

・意志を持たない、物語の記号的存在の「鏡」(ある意味神話的でもある)

・その時々にいる周りの人々に合わせ、望まれる態度をとる狡猾な「鏡」のような人物

と、2通りの捉え方があるでしょう。

「鏡」であるハンスが映すアナの「理想」とは、見方によっては偽物であり、本物です。設定上、「とびらあけて」の最中含め、ハンスの語る言葉は全てウソ・演技ということになってしまいます。確かに、ハンスが悪者ということ知ったうえでの「とびらあけて」はどこかうさんくさく聞こえてくるという巧妙な作りになっているのです。「とびらあけて」が気に入った僕としては受け入れがたい真実です……(´・ω・`)

 

 

……しかし、それでも僕は「とびらあけて」が大好き、と言いたいです。

しかし、歌が持つ魅力は上にも書いた通り、素晴らしいものです。なので、僕はこの歌自体は好きなのです。できれば、続編の"Frozen2"(原題)で、アナとクリストフに「とびらあけて」のリプライズ版をうたってもらう・あるいは「とびらあけて」をアレンジしたメロディを一部使った新しいラブソング を聞きたいですね。

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例えば、今作の「生まれて初めて」のリプライズ版は、一度目の「生まれて初めて」から加速したエルサとアナの気持ちのすれ違いを、リプライズとして歌っていました。ならば、アナは本当に自分を愛してくれるクリストフと、「とびらあけて」のリプライズ版をうたってもいいですよね。ここでクリストフはもちろん、アナのセリフをコピーするのではなく、自分の気持ちも正直に述べるべきですね。

余談ですが、特に記憶に残っている中では『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』や、『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』は過去作のテーマ曲の引用やアレンジ、それを使うタイミングがとても巧みで、ファン泣かせの音楽でした。

 

 

 

アメリカよ、これが日本の「とびらあけて」だ。

2人で歌う曲ということで、カップルに最適(もちろん同性もアリです)!な「とびらあけて」。僕が長い間動画サイトを巡ってきた結果、「これは皆さんにも聞いていただきたい!」というオススメのものを下記にまとめます。ほとんどがニコニコ動画が出典なのですが、なるべく多くの人が手軽に見られるよう、Youtubeに転載されたものを載せておきますね。(やむをえずいくつかニコニコ動画を載せますが、アカウントを持っていない方応見られると思います。)

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どれもとても素晴らしく(言っていることが合唱祭の審査員みたい)、それぞれが独自の「とびらあけて」を歌い上げてくださいました。中にはアナとハンスの両方を兼任している方もいますが、そこを技術と笑いでカバーしており、結果的に実際に2人で歌っているものに匹敵します。「え?笑いって何よ」と思った方!是非とも読み進めてくださいませ

 

1.アナ:うなぎ さん ハンス:NORISTRY さん

王道の「歌ってみた」です。全体を通してとてもハイレベルな質を保っており、まさにお手本にしたい「とびらあけて」。本家の日本語版よりこちらが好きになる方もいたり?

 

2.アナ:38番 さん ハンス:しゅーず さん

先ほどのお二人とはまた違う上手さです。上手さのベクトル(向いている方向)が多少違っており、敢えて言葉にするなら、38番さんとしゅーずさんは特に楽しそうに歌っています。聞いているこっちまで心が弾みそうな明るさであり、『アラジン』の"A Whole New World"のブロードウェイ版にも通じるものがありますね。

 
3.アナ:☆イル さん ハンス:ユーキ(E.L.V.N)さん

日本では珍しい、原語版の「歌ってみた」ですね。発音もきれいで、少しアレンジが聴いて一味違う"Love is an open door"です。原語版のファンの方は必見です! 

 

4.アナ:ろん さん, タイヤキ屋 さん ハンス:そらる さん, タイヤキ屋 さん

元々そらるさんとろんさんが歌っていたものに、タイ焼き屋さんの歌を編曲して合わせたものですね。そらるさんとろんさんが安定して歌う中、どちらかというとネタ方面に走ったタイ焼きさんの力強い声が絶妙なタイミングで挿入され、上手いのに爆笑もの、という仕上がりです。やたらワイルドなアナに、初見で吹き出さなかったらすごいと思います……。ちなみに僕は開始5秒で撃沈しました。あとハンスが変t

 

5.アナ:メガテラ・ゼロ さん ハンス:メガテラ・ゼロ さん

こちらも多少ネタ方面を向いていますが、「デュエット曲を一人」というハンデをフル活用した技術でカバーしてきます。ネタと技術が両立した数少ない例ではないでしょうか?違和感のないJ-Popのような仕上がりに、初見はニヤニヤが止まりませんでした。後半から始まるバック・コーラスはズルいですって……

 

6.アナ:いかさん (さん) ハンス:いかさん (さん)

メガテラ・ゼロさんと同じくアナとハンスを兼任していますね。こちらはタイトル通り女性なのですが、「これ実は2人じゃないか?」という違和感のなさです。一度目のサビが終わった後の、2人が廊下を滑って「飛び出せるよ~」と歌うテンポの子気味良さはピカいち!ハンスパートは男の僕がヘコむうまさですね。

 

7. アナ:りす さん ハンス:七尾 さん

やたらテンションが高い七尾さんのハンスと冷静にいなすりすさんのアナは、例えるならまるで犬と猫のよう。元気すぎるハンスが聴く人を笑顔にしてくれます!最初から何かがおかしいです

 

8.アナ:しゃけみー さん ハンス:しゃけみー さん ハンスの連れ ボクラモイルヨ!>(゚∀゚ )(゚∀゚ )(゚∀゚ )(゚∀゚ ):しゃけみーさん

(この動画を転載した方が、youtube以外でのサイトの視聴を認めていないので、動画ウィンドウの埋め込みができませんでした……)

恐らくこの中では一番有名なしゃけみーさんです。「ふ」の発音に問題があるアナ、そしてハンスが連れを連れてきてしまい、もはやデュエットではなく合唱と化しています。とにかく最初から最後までにぎやかに(そしてカオスに)突っ走ります!初見は爆笑必須なので是非ともご覧あれ。しゃけみーさんは他のアナ雪の劇中化で「効果音全部俺。」をうたっており、それらもオススメですよ!

 

9.アナ:うらたぬき さん, ヲタみん さん, しゃけみー さん, タイ焼き屋 さん, にららぎさん, ろん さん ハンス:そらる さん, すずなみ さん, あほの坂田 さん, コゲ犬 さん タイ焼き屋 さん, にららぎ さん, しゃけみー さん (連 ゚∀゚)連れ:しゃけみー さん

【耳が幸せな合唱シリーズ】その1!以上に挙げた「歌ってみた」の方々が結構入っていますね。全部観た方にとっては『アベンジャーズ』のごとく、知っているヒーローが大集合という豪華な絵面です。巧みな編集でそれぞれの良さが活きており、楽しい「とびら開けて」となっていますよ。

 

10.アナ:うらたぬき さん, ヲタみん さん, しゃけみー さん, タイ焼き屋 さん, ろん さん ハンス:そらる さん, あほの坂田 さん, コゲ犬 さん タイ焼き屋 さん,しゃけみー さん (連 ゚∀゚)連れ:しゃけみー さん

 

【耳が幸せな合唱シリーズ】その2!その1からメンバー数が減り、編集は大味になりましたが楽しさはその1以上。また違う編集で豪華な合唱になっており、個人的にはその1よりも好きかもしれません。本来はデュエット曲のはずですが、歌が上手い方々が結集することによってここまでの感動が生み出せるんですね……

 

 

 

 

 

以上、『アナと雪の女王』の劇中歌「とびらあけて」でした。

書いてみるとかなり長くなってしまいました(;´・ω・)。それにしても作詞・作曲のロバート・ロペスとクリスティン・アンダーソン=ロペスの二人は、ストーリーを踏まえたうえで素晴らしい歌の数々を創り出してくれました。このロペス夫妻の作品で、他にも未公開曲や短編の『エルサのサプライズ』のテーマ・ソングなどもあり、これらも本編の曲と並んで非常に良いです(いつか記事にしようかな……)。皆さんも、自分のお気に入りの「とびらあけて」を見つけてみてはいかがでしょうか?

 

 

 

"Frozen2"(原題)は2019年11月27日、全米公開ですよ(ボソッ

『ドクター・ストレンジ』は教科書だ

 「魔法」……この言葉を聞くと何が頭に浮かびますか?

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箒に乗って空を飛ぶ、というのは古すぎる発想かもしれませんが、杖を持って呪文を唱え、現実にはあり得ないような奇跡を起こす、というような光景を考え付くのではないでしょうか。

少しばかり真面目に考えてみた結果、僕にとっての魔法とは「不可能を可能にする」技術、という結論になりました。なにやら少年漫画の熱血主人公などにあてはまりそうな文句ですが……少しだけ言い換えるならば、魔法とは一見不可能に見える事を実現して見せること、でもあるでしょう。

たとえば、スイッチ一つをカチッと押すだけで安定した光が灯る電灯。この21世紀の現代では当たり前のことですが、今から200年過去に遡った時代では、まだ蝋燭やたき火といった、天然の火に頼っていました。また、現代ではスイッチ一つで食べ物が温めることができ、お風呂を沸かし、遠い外国の最新情報が手軽に入手できます。しかし、これらの当たり前とは、過去ではすべて「奇跡」です。そしてなぜそれが可能になったのかと言えば、「科学」が発展したからでしょう。科学とは、自然界の仕組みを知る事。様々な自然現象を「公式」の形にまとめることで、誰でも学習・理解・使用することを可能とし、様々な新しい技術の開発に繋がりました。

一見、科学と魔法は対極にあるものとされ、魔法など非科学的……という意見もありますが、僕はむしろ科学の発展形こそ魔法であり、魔法は科学を包括するという、相互的な関係にあると思います。敢えて科学と魔法に線引きを行うならば、「説明・実証」が可能か?という点でしょうか。

ちなみに、『2001年宇宙の旅』などで有名なSF作家アーサー・C・クラーク氏が提唱した「クラークの3法則」というものが存在します。それによれば、

クラークの三法則(クラークのさんほうそく)とは、SF作家アーサー・C・クラークが定義した以下の三つの法則のこと。

  1. 高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
  2. 可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
  3. 十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。

出典:クラークの三法則 - Wikipedia

よって、いよいよ科学⇔魔法という関係が僕の中で固まりました。

以上、僕の魔法に対する見解です。

そして、その魔法を現実と地続きに描くことでリアリティある説得力を持たせ、新しいヒーローのオリジンを描いた作品が『ドクター・ストレンジ』なのです。

 

今や膨大な数の映画やドラマを制作し、自社のキャラクター達を実写化しているマーベル・スタジオは、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)という一つの巨大な世界を作り上げている……というのは、本ブログをよく読んでくださっている方々はもうご周知でしょうか。その作品群は、SF, コメディ, ファンタジー, クライムサスペンス……といった様々なジャンルを扱い、非常に「懐が広い」と言えるものの、すべての作品が一定の高いクオリティを保ち、まさにハズレが無いのです。

マーベルのヒーローの代表としてよく挙げられるのが、アイアンマン, キャプテン・アメリカ, スパイダーマン など。

アイアンマンやスパイダーマンは機械工学を主として、物理・化学を駆使して作り上げたスーツを身にまとって戦う、(地球の)科学の最先端を行くヒーローです。

一方で、ソーといった北欧神話からやってきたヒーローは、高度な文明を持つ異星人という解釈がとられ、雷を自由自在に召喚するハンマー・けた外れの身体能力、といったコミック的要素が現実に落とし込まれています。

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MCUではコミックの実写化に際し、「そこに実在するのだから、そこには何か理屈があるはずだ」というスタンスが根底にあります。よってヒーローの動機から、その能力の仕組みといった全てに対して説明がつくように、設定が練りこまれているのです。

一見現実では起こりえないむちゃくちゃな絵面(例えば怒ると体が緑に変色してごりマッチョに膨れ上がる中年男性)でもしっかり現代科学に基づいたものとして、理系の方でも安心して楽しめるのですね。

もっとも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のしゃべるアライグマ・人型の樹木、といったキャラクターはやはり一際異彩を放ちますが……

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そして、ついにそのMCUが『ドクター・ストレンジ』を製作する=「魔法」を扱うとして僕は前々から非常に楽しみにしていました。

結果として、僕は大満足です!ついにMCUに参戦してきた摩訶不思議なドクター・ストレンジ。今回はその魅力を書いていこうと思います。

 

 スティーブン・ストレンジという男

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』にて、テロ組織ヒドラの抹殺対象として名前が言及されたスティーブン・ストレンジ(日本語字幕だと彼の名前は省略されています)。そんな彼はどんな人間なのか?

事故によってその輝けるキャリアも技術も失った、天才外科医。

溢れる知性とユーモア、スタイリッシュな佇まいの彼の唯一の欠点は、その傲慢さ。

出典:ドクター・ストレンジ|ドクター・ストレンジ|映画|マーベル

この特徴的なキャラクターは、一見すると非常にコミック的なわかりやすいものです。しかし、物語が進むと「傲慢」というのはあくまで表面的なものであり、ストレンジはそこまで浅いキャラクターではなく、味わい深いキャラクターだと気付かされました。

トニー・スタークと同じように、彼には本当は繊細で臆病な一面があります。臆病故、失敗したくないからと必死に勉強して天才外科医という異名をとるまでになった、というのは本人の口から説明されていました。恐らくそれを隠したいがゆえに、無意識のうちに傲慢不遜ととられるような立ち振る舞いをするようになり、頭も良いので会話によくジョークも交える現在の性格になったのでは、と思います。

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一方で、彼は一度こうと決めたら、絶対にそれを曲げない不屈の意志を持っています。香港での最終決戦にてドルマムゥとの「交渉」に向かった彼は、ドルマムゥと自分自身をアガモットの眼の力で「ループする時間」という牢獄に閉じ込めました。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の主人公ケイジのごとく、ドルマムゥに何十回と殺されようとも、ドルマムゥが根負けして手を引くまでストレンジはあきらめませんでした。どんな魔術大戦か、と期待していくと拍子抜けするような展開なのですが、このストレンジの粘り強さは既に序盤の方から伏線が貼られているんですね。

 

まず、天才外科医に至るまで、彼によれば「勉強と実践を何年も繰り返した」そうです。特に脳神経という分野は医療でも複雑困難をきわめるところでしょうが、それを丹念にずっと学び続けたからこそ、脳外科として働けたのでしょう。また、その手術自体も、一秒一秒、細心の注意と集中を絶やすことができない、大変負担がかかるものでしょうが、彼は一見それを難なくやってのけます。これも粘り強さによるものと解釈できます。次に、一度エンシェント・ワンによってカマー・タージから追い出された時、彼はあきらめて放浪するでもなく、5時間以上も門の前に座り込んで門を開けてもらえるのを待っています。修行中にヒマラヤ山脈に置き去りにされたときも、カマー・タージへの口があくまでずっとスリング・リングを構えて右腕を回し続けていたことでしょう。絶対に笑ったりしないウォンに対しても、なんとか笑わせようとギャグをかまし続けます。床に就いた後でも、アストラル次元でひたすらに書物を読んで知識をどん欲に蓄えていきます。

確かに、彼には瞬間記憶力という天性の特殊な能力がありますが、ストレンジは決してその天性の能力の上に胡坐をかかずに、実は結局地道な方法で能力を高めようと頑張ってきたんだ、と僕は思いました。その愚直ともいえる粘り強さが、エンシェント・ワンに認められてマスターの称号を授かり、最終的に強大なドルマムゥをも根負けさせるまでに至ったのです。ここに一種の感慨深さまで覚えてしまいます。

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また、それに加えて彼には自分の美学を固持し続けるとともに、内に秘めた正義感があります。作中、ストレンジは「ミスターじゃない、ドクターだ」と2回ほど訂正する場面があります。アメリカ本国のTVスポット(CM)ではここのみが切り取られてギャグシーンかのように扱われていましたが、実はここにストレンジのこだわりがあるのです。意図的ではないものの敵の命を奪ってしまった時。

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医者となり、ドクターをかたくなに名乗るのは人の命を救うため。従ってドクター・ストレンジは、もはやMCUでは珍しくなってしまった「優しき不殺のヒーロー」なのです。それが、最終的に負けることで勝利する、という結末を迎えました。

「人のためにあれ」という、師であるエンシェント・ワンの最後の教え。最初、ストレンジは腕を直して元の地位に返り咲きたい、という自分中心の願い(決して悪いことではないですが)を持ってカマー・タージに来ました。最終的に彼は、天才外科医としての輝かしい日々や、クリスティーンへの未練を断ち切り、自分に与えられた使命、そして運命を受け入れます。今はもう動かないクリスティーンからのプレゼントである時計は、「失ったものはもう帰ってこない」という戒めをこめて改めて腕につけたものだと思います。アガモットの眼を使って時間を操った男だからこそ、更にグッと来る静かな決意です。NYサンクタムの丸い窓辺に立ち尽くす彼は、世界の守り手であり、番人として覚悟を決めた、一人のヒーローの様を呈していました。

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MCUに持ち込まれた「魔法」

 厳密に言うと、MCUに魔法が持ち込まれたのは『ドクター・ストレンジ』が初めてではなくて『マイティ・ソー』から、と思っています。

例を挙げるならばソーのハンマーであるムジョルニア。その成り立ちに関する設定などはしっかり存在していますが、雷を自由自在に召喚・吸収・放出、ご主人様呼ぶ所どこでも駆け付ける、高潔な者しか持ち上げられないなど、僕ら地球人からすればどう見ても魔法そのものです。

また、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のオマケシーンに初登場し、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で活躍したワンダ・マキシモフは、作中では呼ばれないものの「スカーレット・ウィッチ」という名前を持っています。また、その力は赤いエネルギーを操って、人に幻を見せたり、物体を動かしたり、エネルギー自体を攻守に使えるというのですから、れっきとした魔法です。

よって、あれだけワンダが暴れまわった後なので、同じ魔法使いとして続くドクター・ストレンジはどのように差別化を図るのだろう……というのが公開前の懸念でした。

 

ワンダと、ストレンジたちカマー・タージの魔術師たちの魔法の根本は、エネルギーを操るという点です。ここは共通しているのですね。

ワンダは6つのインフィニティ・ストーンの一つ、マインド・ストーンによって体に備わったエネルギーを、自分の意志で自由に使います。一方で、カマー・タージの魔術師たちは、異次元から引き出したエネルギーを操る、と説明されています。

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視覚的には、ワンダは赤い流動的なエネルギーを使っていますが、魔術師たちは手先から火花が散る直線的なオレンジ色のエネルギーを、様々な決められた形にして使っています。ワンダはある意味独学で自由に魔法を使っている一方で、ストレンジは既に確立された方法に従い、効率的に魔法を使っているわけですね。

MCUは、ドクター・ストレンジが持ち込んだ魔法を「異次元から引き出したエネルギーによるもの」、と説明をつけたわけです。たとえば物理学では、アイザック・ニュートンをはじめとした物理学者たちによって、自然界の運動法則が様々な公式としてまとめらました。そのおかげで、高層ビルにいても、窓から落としたボールが地表につくまでの時間を知るだけで、自分が今いるおおよその高さがわかるのです。MCUでは文明の始まりと共に、アガモットという人物が異次元からエネルギーを引き出す方法を発見し、魔術として確立したようです。従って、ワンダと違う直線的なエネルギー、魔法陣といった表現は、引き出したエネルギーを最大限効率的に使う方法が確立・マニュアル化された事を表しているのだと思います。残念ながら、どうやったら異次元からエネルギーが引き出せるのか、という方法は観客には明かされませんが……(´・ω・`)

また、ストレンジが初めてカマー・タージを訪れた際、彼はエンシェント・ワンに向かって「信念の力、などというものは信じない」「我々は全部物質からできている」と典型的な、西洋的な思想をぶちまけています。確かに、歴史を参照すると医学などに関しては東洋より西洋の方が発展していました。医療に関しては、西洋は肉体に根差した直接的な方法を見つけ、東洋は精神を主とする(一見)間接的な方法です。言い換えれば、ストレンジがエンシェント・ワンに向かって文句をまくしたてる場面は、「西洋vs東洋」=「物質vs精神」という争いの比喩でもあった、ととれますね。

現実でも、僕らは生まれた時から「地球は丸く、太陽の周りをまわっている」「人間は脳で考え、心臓が体を動かす」といった、科学に基づいた(西洋的な)知識を与えられて育ちます。その一方で、(東洋的な)精神に関する話は、宗教にでも入らない限り「魂は存在する」などという教えは受けません。なぜならそれらは目には見えない世界であり、現在の科学では十分な立証が得られていないからです(それでも最近は、「平行世界」や「意思が体に与える影響」といった目に見えない世界の研究が盛んで、様々な成果が上がりつつあります)。

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(↑このシーンは、エンシェント・ワンがストレンジに留まらずに、観客にも向かって「目ざめよ」と説くメタ的なシーンともとれます)

したがって、あの場面のストレンジはこの世界で育った僕ら現代人の代表ともいえるでしょう。その後、彼はまずアストラル次元へとたたき出され、その後様々な次元を巡るツアーや、魔術の数々を学んでいきます。実際に目には見えない摩訶不思議な世界や概念の数々を見せられ、それを受け入れて学んでいくストレンジの姿は、僕らが魔法の世界へ入っていく案内人の役も務めているのです。

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外科医=理系(そして僕らと同じ一般人)だったストレンジが、自分の理解を超えた世界を学び、修行して魔術を少しずつ身に着けていく一連の修行のシーンは、『ドクター・ストレンジ』でも特にお気に入りシーンの一つです。

 

 

 

さて、ここで『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』を参照してみましょう。

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ここで紹介したシーンは、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の特徴が特によく表れている場面です。特に真ん中のシーンがそうですが、手持ちカメラによる臨場感あふれるカメラワーク、紺色や灰色が中心のモノトーンな色調、現代社会をキャラクターが動き回るリアルさ、それらを理解したヘンリー・ジャックマンによる音楽 などの要素が合わさり、非常にリアルで緊張が張り詰めるような雰囲気を醸し出しています(実際に本編を少しでも観てみるとわかりやすいと思います)。

一級品のサスペンスのようで、現代社会を動き回る『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』。

 

 

それを観た後に、『ドクター・ストレンジ』を観てみましょう。

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キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』で描かれた、僕らが今生きている現代社会の向こう側には、こんなに不思議で壮大過ぎる世界が広がっている……この対照性や拡張性が楽しめるのも、MCUならではなのです。 

 

 

 

その他色々

 本作『ドクター・ストレンジ』の監督を務めたスコット・デリクソン氏は、ドクター・ストレンジというコミックの大ファンだったそうです。マーベル・スタジオにおいて、『ドクター・ストレンジ』製作の話が持ち上がった時に、何としてでも本作を監督したかった彼は、下記のような苦労をしたそうです↓

この熱意には、いやはや息を漏らすしかありません。彼がそこまでして実現したかった世界が本作である、ということを知ると今度観るときにまた違った楽しみがあります。

 

ドクター・ストレンジ』は大好きですが、決して100点満点の映画ではないと思います。空間を万華鏡のごとくガラガラ好き放題に変形させる映像を使う本作は、確かに個人の好みがわかれるところではあります。そんな中で、本作に対する批評をいくつかとりあげたいと思います。

「アクションがいまいち」……これは僕もそうだと思います。パッと浮かんだのが、NYのサンクタムのvsカエシリウス戦で、ドタドタと壁を走り回る様子にどんくささを感じ、アクションの動きには目覚ましいものはないと思います。ここは、次回作ではアクション担当の監督を増やし、スコット・デリクソンが盛り込みたい要素について話し合いつつ、まだまだ改善の余地はあるなと思いました。

ドルマムゥのデザインが期待外れ」……予告編では存在が伏せられていたため、実際に本編を観た方にとってはサプライズのラスボスだったことでしょう。強大な力と底なしの欲望を秘めた凶悪な存在であり、その姿は異次元に浮かぶ巨大な顔……しかし、目が大きく、ストレンジの術中にまんまとはまる、といった強いわりにどこか抜けている感じが何ともマスコットキャラクター的です。ここで、ドルマムゥのコンセプト・アートをご紹介しておきますね。

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神秘性と重圧を兼ね備えた人ならざる存在……といった不気味なデザインばかりです(それでいて芸術作品のごとく美しい)。

ここで、僕はドルマムゥはあれだけ強大な力を持っているのだから姿を変えるくらい容易いだろう、という解釈をしました。

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恐らく、時代を超えて(ドルマムゥは時間には支配されないものの)あるいは気分によってコンセプト・アートのような姿をとることもあったものの、いよいよ本腰を据えて地球侵略に乗り出した際は、劇中で観ることができたあの巨大な顔の姿をとった、ということです。ちなみに、ドルマムゥの顔の動きとセリフの一部は、ストレンジを演じるベネディクト・カンバーバッチモーション・キャプチャーなどを使って演じていたそうですが……また考察が膨らみそうな、興味深い情報です。

 

今回は作品の構成として、非常にまとまっているといいますか、「お手本」とも言うべきキレイさです。これこれこんな主人公が事情あって挫折して、そんな中で偶然から不思議な世界へ行き、次第にヒーローとして目覚めていく……という、言い方によっては「順調にヒーローになっていく」ストーリーなんですね。たしかにキレイなまとまり方をしているので、もっとこんなシーンを入れてほしかったという意見が出るのも不思議ではありません。

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しかし、僕はその構成含めて本作『ドクター・ストレンジ』の魅力だと思います。先に書いたように、スティーブン・ストレンジは現実の向こう側へ行く際の、僕らの案内人です。ならばこの作品自体が、今まで知り得なかったMCUの奇妙(ストレンジ)な世界への入門書、と言えるでしょう。また、摩訶不思議な描写や圧倒的な映像を実現できることは証明できたので、更にそれを発展……もしくはまた別の側面を見せてもらいたいです(漠然としていますね……)。原作コミックにはまだまだ映像化すべき面白いアイディアやストーリーが詰まっているはずですから。まさに優等生というか映画のお手本のような構成含めて、僕は本作が入門書もしくは教科書だなぁと思うのです。

 

最後に、お時間ある方は↓の感想も読んでみてはいかがでしょう?

ドクター・ストレンジ』を「合法ドラッグ」「四次元」と表現する文才溢れる(羨ましい)レビュー記事です。まだ『ドクター・ストレンジ』を一度しか見ていない、または未だそこまで好きではない、という方は上記のレビューを読んでみてはいかがでしょうか?まるでグルメ記事のようであり、作中の虹色の世界のごとく様々な言葉を使った上記のレビューは、また『ドクター・ストレンジ』が観たくなると思います。それで観直しているうちに本作のことがより好きになっていただければ幸いです(*´ω`*)

 

 

『ドクターストレンジ』が切り開いた可能性とは

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ドクター・ストレンジ』では恐らくMCU史上初の「異次元」という概念がもたらされました。今まで『マイティ・ソー』シリーズや『アベンジャーズ』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などで、地球から遠く離れた宇宙についてが描かれてきました。しかし、そのどれもは「一つの宇宙=世界」にとどまっています。よって、「異次元=異なる世界」という概念は、これまでの宇宙の概念をも超える大きいものなのです

MCUでは、「アース」という概念が取り入れられています。原作コミック、MCU以外のマーベル実写映画、ドラマ、そしてこのMCUも、それぞれ一つの平行世界という体がとられています。

ドクター・ストレンジ』では、無限の平行世界が存在するということを「マルチ・バース(多元宇宙)」と呼び、ミラー次元、アストラル次元、暗黒次元などが描かれました。ここで、MCUはマーベル・シネマティック・ユニバースと、一つの次元という名前です。よって、このマルチ・バースという多(次)元宇宙に、MCUも含まれるでしょう。

敢えて再度記述しますと、マーベルが創り出す多元宇宙の中には、原作コミック・MCU以外のマーベル実写映画・ドラマ・MCU・ミラー次元・アストラル次元・暗黒次元……とまさしく「無数の」平行世界が存在していることになります。ドクター・ストレンジ』は、MCUが異次元の存在に初めて踏み込んだ、ともいえる作品なのです。

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作中の描写を観る限り、スリングリングというどこでもドアによって、どんな場所にもすぐに行け、異次元への出入りすらも可能なようです。

今は不可能ですが、例えばX-MENといった権利上クロスオーバーがまだできないマーベル・ヒーローたちとも、製作会社間に何か大きく変化があれば。ドクター・ストレンジX-MEN達を連れてくる、という展開があるかも……?

 

 

 

 

以上、『ドクター・ストレンジ』の感想でした。

初見の際は「まぁ、映像はすごかったよね」という素っ気ない感想だったものの、MCUにおけるドクター・ストレンジの能力や立ち位置、その意味を後から冷静に考えてみると、非常に重要であることがわかりました。確かに単品映画の完成度としてはぶっちぎりで優秀……とまではいかずとも、ヒーローのオリジンとして十分楽しめました(個人的には『アイアンマン』と同じくらい)。

しかし、映画としての完成度とどれくらい好きか、というのは別物であり、僕は今作が大好きですし、だからとても楽しむことができます。『ドクター・ストレンジ』は教科書であり、僕はこれから何度でも読み返していきたい、と思うのです。

 

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