【ザックを】なぜDCEUにこの男が必要だったのか【讃えよ】

※本記事はザック・スナイダーをひたすら褒め称えるものとなります。「彼の作品はちょっと……」という方はブラウザバックを、DCEUにも興味のある方などはこのまま読み進めていくことをお勧めします( ゚Д゚)y-~~

DCエクステンデッド・ユニバースDC Extended Universe (DCEU))は、アメコミDCコミックスに登場するキャラクターを主人公としたスーパーヒーロー映画の一群が共有する架空の世界、及びその作品群である。日本では「DCフィルムズ・ユニバース[1]」という呼称も用いられている。

2013年実写映画『マン・オブ・スティール』から始まり、2016年から2020年まで毎年2作公開の製作予定が発表されている[2]

 

概要[編集]

様々な「DCコミックス」の実写映画化作品を、同一の世界観のクロスオーバー作品として扱う作品群である。映画雑誌エンパイア』の2015年9月号の中で、この架空世界の名前が「DCエクステンデッド・ユニバース」であると明かされた[3]DCコミックスのスーパーヒーローたちが作品の枠を超えてチームを結成する『ジャスティス・リーグ』(コミックでは1960年初出)の映画化を目指して企画された。

出典:DCエクステンデッド・ユニバース

 

DCコミックスアメリカン・コミックスの元祖ともいえる出版社であり、スーパーマンバットマンといった誰もが知るようなキャラクターはここから生まれています。マーベル・スタジオはDCコミックスの後輩であり、2社はライバル的な関係にあります、2008年にマーベル・スタジオがパラマウント配給で公開した『アイアンマン』を皮切りにスタートしたマーベル・シネマティック・ユニバース、計画を発表した当初は「うまくいくわけがない」「無謀」と評されるような代物でしたが、繰り出される作品の数々はどれも人気を博し、今やMCUは大成功を喫しています。その人気ぶりは世界的に知られるスター・ウォーズに肩を並べるほどであるといっても過言ではないと思います。一見別物に見える作品の数々が実はつながっており、一つの大きな世界が構成されていく手法は「シェアード・ユニバース」と以前から言われてきました。MCUはそのシェアード・ユニバースを、金と時間がかかる一発一発がでかい映画の単位で成功させました。それに目をつけた数々の映画製作会社、今や様々なユニバースが生まれています。

映画製作の原作となるコミックスではDCの方が歴史は長いですが、実写化においてはMCUの後を追うような形でDCEUは成立しています。今やインターネット上のメディアによって、映画の製作期間中から監督へのインタビューや撮影現場の盗撮画像、リーク情報に至るまで様々な情報が知れ渡るようになりました。MCUは基本的に順調な知らせばかりですが、DCEUは不穏な知らせも相次ぐような現状です。ユニバース商法では、どの作品をつくり、いつ公開するかというスケジュールを綿密に検討した予定表が命です。MCUは大きな変更はあまりないまま計画通りに製作が進んでおり、評価も上々です。DCEUは現在5作品が公開されていますが、製作は波乱万丈であり評価も割れています。また、後からポッと新しい作品の企画が浮上しては何の音さたも無くなる……という事も珍しくありません。

そんなDCEUの礎といえる人物がザック・スナイダーザック・スナイダーが監督した『マン・オブ・スティール』『バットマンvsスーパーマン』『ジャスティス・リーグ』はそのどれもがDCEUにおいて重要な役割を担っており、この3作によって描かれたヒーローたちがDCEUにおける主要キャラクターであることから、彼らを撮ったザック・スナイダーはDCEUの創造主ともいえる立場です。

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BvSで顕著に表れたのが、彼の作風に対する風当たりです。そもそもこの作品自体、DCEUの2作目にして世界観の拡大に向けて様々な要素が詰め込まれた挑戦的な一本です。興行的にはヒットを記録し、それどころか5作品が公開されているDCEUでは(2018年3月現在)トップの興行収入ですが、問題は作品に対する評価です。特に批評家たちからの意見がよろしくありません。「スーパーマンが出ているのに暗すぎる」「詰め込み過ぎて作品として成り立っていない」……などといったレビューが、BvSの批判的なレビューの代表的なものでしょうか。

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JLの記事で書きましたが、僕はMoS,BvSの2作を共に問題なく楽しんでおり、ザック・スナイダーが敷いたレールに沿って形成されていくDCEUの大ファンです。基本的に好評なMCUに比べ、意見が割れるDCEU。人によってはザック・スナイダーを戦犯と形容することもあるでしょうが、そんな強いクセを持つ彼はDCEUにとってどんな人物だったのか。僕はザック・スナイダーこそDCEUに必要な人物だと思っています。僕には原作であるDCコミックスについてはさっぱりわかりません。原作と比較してどうこうなどとは語れない故、あくまで映画的な視点からとはなりますが。なぜ彼こそがDCEUにいなければならなかったのか、僕なりに感じる彼の魅力をお話していこうと思います。

ワーナー・ブラザーズに言わせる「誰もが知るヒーロー」たるスーパーマン。彼がエイリアンであるという設定は知られていなくとも、全身青タイツに赤マント、胸に輝くSのシンボル、空を自由自在に飛び回るマッチョメンといった特徴は、まさしく誰もが知るものです。彼はMoS,BvSでは主人公を務め、JLでは一種のマクガフィンとして機能。MoS,BvS,JLのスーパーマン・トリロジーがDCEUの根幹をなしていることを考えると、彼はDCEUの中心的な人物と言えます。

f:id:the-Writer:20180320083546j:plain彼の誕生と、ヒーロー「スーパーマン」としての駆け出しを描いたMoSは、過去作の雰囲気とは明らかに異なります。色あせたような色調、陰影がくっきりとついた映像、深いセリフの数々、壮大な音楽、現実世界に即したリアルな展開、絵画のようにキマったカット、全編にわたってシリアスな雰囲気など、現代のスーパーマンとして彼はスクリーンに蘇りました。

正直これらは「トーンが暗い」「しみったれた雰囲気」と言われても仕方がないかな、と思います。そしてこの雰囲気は続編のBvSにそのまま受け継がれ、20年もゴッサム・シティの自警活動を続けて疲れ切り、乾いた憎しみを抱えて希望を失っていたバットマンが参戦したことで、批判はさらに大きくなりました。最終的にそれに業を煮やしたワーナー・ブラザーズによる「明るい」政策に基づく改革がJLに入り、本来の作品の路線からは大きくそれたことはJLの記事で書いた通りです。

上記に挙げた特徴の数々は全てザック・スナイダーが意欲的にDCコミックス実写化作品に取り入れたものです。以前、ザック・スナイダーMCUについて言及したインタビューでMCUで続々と実写化されていく「○○マン」といったヒーローたちを批判しつつ、「僕らは神話を作っているんだ」と語りました。MCUについての発言はMCUファンや俳優から反発を買いつつも、彼の志に関する発言こそが彼のDCEUに抱いているヴィジョンであると思われます(正直あの発言に関しては「ザック余計な事言うなや……」と閉口しましたが)。カラフルさに欠け、基本的にシリアスな雰囲気、キマっているカット。これらの要素が絡み合う事で、一連の物語は非常に密度が濃いドラマとなりますが、便宜上これをまとめて「神話っぽさ」と呼びましょう。

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僕はこの「神話っぽさ」は、少なくともDCEUの序盤には必要なものであり、ザック・スナイダーにしかできないことだと思いました。彼の「神話っぽさ」は彼にしかできない。僕はその「神話っぽさ」がDCEUというユニバース、ワーナー・ブラザーズのドル箱に必要な要素だと思います。今やMCUに続いて、ダーク・ユニバース(ユニバーサル),モンスター・ユニバース(レジェンダリー)といったユニバース物が立ち上がっています。さらに激化していくハリウッドで、DCEUには何かこれだ!という決め手、強い武器が必要です。僕はそれが、「神話っぽさ」だと思うのです。

 

 

「シリアスさ」の正体は、観客とキャラをつなぐ橋である

尤も、これだとDC=ダーク・シリアスという認識を生み出しかねません。というより、既に出来上がってしまっていると思います。批判が示す通り、この雰囲気はとても万人受けするものではありません。しかし、そのいわゆるダークさにもしっかりと理由があると思います。

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ダークと称される個所は、色あせた色調以上に、恐らく登場人物たちの葛藤する個所かと思われます。なぜ現代のヒーローたちは葛藤するようになったのか?それは葛藤する登場人物には観客が感情移入しやすくなるからだと思います。葛藤を描くという事は、登場人物の心理的な動き・迷いをじっくりと描くという事です。その思考のプロセスを丁寧に追って描くことは、観客がその登場人物の思考及び行動を追い、理解することで感情移入することを可能とします。それは、観客の心に残りやすくなる。

IMAXという壁一面がスクリーンになった劇場、VRで見る映画、そして『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が示した「これからは誰にでも主人公になれる」というメッセージ。今や映画はただ見て楽しむことから、(徐々にではありますが)観客が映画と一体となって楽しむ方向性への変化を感じます。また、今の時代はスマホの普及などのデジタル化によりあらゆる情報や思想が飛び交う社会となりました。特に、その中で育つ子供たちが生きる世界とは、彼らの親の世代からすら、様相がかなり異なるはずです。DCEUがおそらくターゲットとする思春期の子供たちに、心の支えとなる存在を。身近に感じてもらうために、あの様な仕上がりとなったのではないでしょうか。

スーパーマンを例にとって考えてみましょう。ザック・スナイダーMoSで描き出したスーパーマンを筆頭とするクリプトン人の力は絶大なものです。彼らは超スピードでの移動、音速を突破した速度での飛行、どんな衝撃もほとんど受け付けない頑丈さ、挙句の果てに両目から打ち出すヒートヴィジョン。コミックの強さをそのまま現実世界に反映させた結果、都市のビル群が次々に破壊されてがれきと化していく映像はとても印象的です。言ってしまえばチートですよね。

そんなパワーを持つ人物が、最初からあまり苦悩せず、順調に恋をし、人助けをする笑顔が素敵なナイスガイだったら?そのような明るい雰囲気は、確かに誰でも楽しめるでしょうが、映画を楽しむ深みが損なわれると思うのです。この非現実的な強さを大真面目に実写化する代わりに、その人物は観客と何ら変わりない葛藤する人間であるというギャップ。ある意味カウンターウェイトであり、実在しそうなリアルな人物としてのバランスがとれます。これによってスーパーマンというコミックのキャラクターはただのフィクションのキャラクターではなく、実際に悩み、傷つきながらもヒーローに成長していく一人の人間として、観客の心に残るのです。

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クリプトンの息子、クラーク・ケントは人間らしい泥臭い葛藤を乗り越えていく事で、往年のコミックで描かれたような笑顔がまぶしいみんなのヒーロー、スーパーマンへと成長していきます。このじっくりと描かれる過程は、その変化こそが美しいのではないでしょうか。こうしたリアルな心理描写をなされたキャラクターと、VFXを駆使したいかにもコミックらしいダイナミックな映像の組み合わせが、DCEUをDCEU足らしめていると思います。アイデンティティーと言っても過言ではないでしょう。

 

 

映像が美しいザック

次に、ザック・スナイダーは非常に画づくりにこだわる監督です。職人といっても良い。2人の人物が会話するシーン、映画ではよくある状況であり、通常2人の顔を映して交互に切り替えていく方式だと思います。また、照明も背景に当たってフラットな印象を与えることもあります。しかし彼は、会話シーンですらこだわります。

f:id:the-Writer:20180320131334p:plain表情はいわずもがな、人物の配置や照明で付けた陰影により、人物の置かれている状況や心境を現しつつ、それだけを切り取ってもこだわりのあるカットになっています。個人的に、彼が撮った映画は全編にわたってどのカットも余すことなく、構成的に美しいなあと感じますね。先に書いた、「ダークさ」「シリアスさ」に輪をかけているのが陰影をくっきり付け、色あせたような色調です。しかし僕は彼は何でもかんでもむやみに色調を落としたり暗めに撮っているわけではなく、しっかりした理由があるからこそそのような撮影を行っていると思います。MoSは色あせていると言われても仕方がないような映像ですが、BvSでは撮影監督のラリー・フォンの働きもあって暖色系のベージュ的な色調が印象的です。そして、JLでは僕が「彼はむやみにダークな映像を撮らない」と述べた根拠となる考えを抱いていたことがわかります。

「ザックはとても優しく話しやすい人でした。彼は原作のコミック本とキャラクターたちの大ファンで、その世界について深い知識を持っています。プロダクションに対する彼の全体的なアイデアを1時間ほど聞き、その映像の実現に向けて進めていきました。一連の他の作品のような、様式化して彩度を落とし、コントラストを強くした映像は避けたいとザックは考えていました。僕は自然な照明を好むタイプなので、その考えは僕の作品の価値観にぴったりでした。『ジャスティス・リーグ』を35mmフィルムで撮影するのはすでに決まっていたことで、僕は何年もフィルムでの撮影をしていませんでしたが、期待に胸がふくらみました」とワグナーは続けました。

出典:映画『ジャスティス・リーグ』の自然派のルック、及びVFXやCG制作を支えたコダックの35mmフィルム

ダークと称するのは簡単ですが、僕はこれによって作品に決定的な印象付けを行うことができる上に、非常に見ごたえのある映像に仕上がっている、と思います。照明と陰影にこだわった映像は、人物の顔の表面の凹凸から背景となる舞台まで、どこに目をやっても飽きないような仕上がりです。平たく言うなら、奥行きのある映像となり、一回見たらそれで終わりといった映画ではなく、何度観ても満足度が高い仕上がりとなっていると思うのです。

そうした仕上がりによって後押しされるのが、僕が何度も述べている「キマッている」カットの数々。他作品では見られない、「うぉーーーっっあぁぁ!!」と盛り上がり度合いが群を抜くのが彼の特色であると思います。今までじっくりキャラクター達の思考と行動、それによって生じる物語の流れをカメラで追ってきた後に、いざコミックをそのままトレースしたかのようなかっこいいカットが映るのは彼の醍醐味と言ってもいい。アツい場面ではコミックのようなカッコよさを、悲しい場面では絵画のような美ししさを。アニメや漫画でしかできないような構図を、まさかの実写でそのまま再現する辺りに彼の監督としての見事な腕前と確固たる意志を感じますし、彼はそれをどのタイミングでぶつけるのがベストかもよくわかっているのではないかと思います。

\うおおおおおおおおおおおお‼‼/

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また、彼の持ち味としてアクションシーンも外せない。この点に関しては彼は天性のアーティストでしょう。積極的に戦いの舞台となる場所の特徴を利用することで、コミックのキャラクター達のパワーを示す。自由自在にフィールドを駆け巡るカメラでキャラ達の印象的な動きを捕らえる。アニメやゲームの映像を、VFXを駆使してそのまま実写化したようなダイナミックな映像は見事の一言に尽きます。普通はやらないようなこうした映像づくりを大胆に映像化に持っていく彼の決断と手腕はいやはや舌を巻きます。ザック・スナイダーが撮る映像は、照明によって陰影がくっきりとついて深みが出て、こだわりの色調調整によって美しく雰囲気を醸し出され、フィルム撮影による顆粒感ある仕上がりとなっています。僕は特に西欧の建築や絵画といった美術に興味は特にないですが、このように重厚感溢れる映像で紡ぎ出されるDCEUのヒーローたちの物語には惚れ惚れとしてしまいます。

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ストーリーテラーとしてのザック

画づくりに加え、もう一つ外せない点があります。ザック・スナイダーは何もただ任せられたから映画を撮る仕事人ではありません。特にBvSの舞台裏映像である、彼へのインタビューをみるとわかりますが、ザック・スナイダー自身がDCコミックスの大ファンです。彼のDCコミックスに対する造詣は深く、唯一無二のヴィジョンを築き上げています。そんな彼が指揮を執ってスクリーンに映し出す世界観は非常にユニークです。僕は彼が優秀なストーリー・テラーでもあると思うのです。MoS, BvS, JL……急速に拡大していく世界観と唐突な衝撃展開は、MCUに比べると非常に駆け足で無茶な展開であると思います。しかし、そんな無茶の中にこそ、ザック・スナイダーはストーリーを見出し、大まじめに取り組みました。

f:id:the-Writer:20180320084324j:plain希望の象徴であるスーパーマンは、充実したトリロジーを通してスーパーヒーローへと成長していきます。MoSでは誕生とはじまり、BvSでは挫折と死、JLでは復活と完成というように。その中でもこれまで5つも作られてきた実写化作品ではやらなかったような、スーパーマンの新しい一面が開拓され、彼一人で非常な密度を誇るキャラクターです。人間らしい葛藤を抱えつつも飛び回るスーパーマンは、煮詰まった怒りと絶望を抱えて老いバットマンへの転換期となりました。

f:id:the-Writer:20180320140937p:plainブルースにとって、スーパーマンとは初めはそのやり場のない鬱々とした感情の掃き溜め・永らく見失っていた生きて戦う目的になりました(少なくとも僕はそう思っています)。しかし、執念でスーパーマンに対してほぼ勝利をおさめかけたところ、スーパーマンの発した一言が彼のバットマンとしての起源の記憶を呼び覚まし、それをきっかけに様々なものを再び得ます。彼の人間性、自分の責任、そして人類を守る使命など……そうして彼は長かった日陰からようやく日の元へ踏み出すこととなりました。

f:id:the-Writer:20180320141106j:plainそして、ダイアナも何も知らなかったセミスキラの少女時代から、大勢の人間たちの想いが渦巻く人間界へと飛び出して現実を知り、「暗黒の100年」で自分の正体と本当の自分を周りから閉ざしながら生きてきました。しかし、ドゥームズデイという絶対的な脅威との戦いに身を投じたことから、彼女もまた日向へ踏み出すこととなり、徐々に仲間を得る喜びと世界を守る希望を再び手にすることとなったのです。

まだ詳細は不明ながらそれぞれの試練にぶつかった過去を持つバリー,アーサー,ビクターもジャスティス・リーグの結成によって、今後たどる道筋は孤独でいるはずだった時から、よりよい方向へと大きく変わったことでしょう。

BvSはリーグの中心人物たちの邂逅の出来事であり、明るい明日への、正義の夜明けを迎えた瞬間の物語でした。そしてJLでは、それぞれの能力を備えた6人の超人が、逆境・谷・闇から這い上がり、出会い、影響を及ぼし合い、団結し、彼らの旅路が永遠に変わる事となりました。

これでもかなり大雑把な語り口になってしまいましたが、ザック・スナイダーが意図したスーパーマン・トリロジーはこのような感じであると思います。これはもはやワーナー・ブラザーズが焦って立ち上げたMCUの後追い企画ではありません。スーパーヒーローたちの辿る壮大で興味深い物語≒神話、といってもいいでしょう。

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実際、それを体現する数々のキャラクター達は知名度云々ではなく、豪華なキャスト達によって構成されています。ヘンリー・カヴィルベン・アフレックガル・ガドットエズラ・ミラージェイソン・モモアレイ・フィッシャーなど……この6人だけをとっても外見と演技に特徴がありながら、非常に役柄にハマったキャスティングだと思います。もはや本人そのものであり、特にカヴィルやガドットの顔は西洋の彫刻を思い起こさせるような美しさであり、ザック・スナイダーの目指す「神話っぽさ」を体現する顔だと思います。そして彼ら一人一人のコスチュームも素晴らしい。MCUのヒーローたちはコミックのデザインを「もしも現実に合ったら」という方針でリアルに落とし込んでいますが、DCEUはリアルに落とし込んでいるものの、どちらかというとその特異な意匠は残しつつ、それを極限までリアルにかっこよくアレンジしているように思えます。一見原作コミックとはかなり違うような実写化デザインでも、細部までこだわりぬいた複雑でかっこいいコスチュームは、そのゴージャスさによって「神話っぽさ」を更に後押しします。

 

漫画や小説の実写化作品について、「何が正しいのか・どうするべきなのか」という実写化作品の哲学に関して僕はまだ答えは出せてはいないですが、DCEUは非常にユニークです。よって、このいわゆる「ダークさ」を「こんなのDCコミックスじゃない」と批判する方もいるでしょう。僕は原作のDCコミックスにはさっぱり知識が無いので、原作と違うといった批判にはどうにも何も反論できないというのが現状でしたが……「僕が精通している作品が映画化され、一見原作とはまるでかけ離れているようなものの、映画はしっかりと原作から独立した魅力を備えており、一本の作品として面白い」……そんな例が実は僕にもありました。東映スーパー戦隊です。

2017年公開のディーン・イズラライト監督による『パワーレンジャー』は、同じくシリアスっぽい雰囲気であり、更に基本中の基本というかスーパー戦隊のお約束というべき「変身!」といった掛け声や必殺技すら存在しません。それでもこの作品が面白いのは、パワーレンジャーとなる5人の高校生たちに寄り添い、彼らの掛け合いを徹底的に描いたことによると思います。メインと目されたスーパー戦隊らしい描写が意外と少なくても、一本の魅力的な作品として確立しました。

実際、JLスナイダー・カットを求める署名運動の発起人であるRoberto Mata氏も、幼いころよりDCコミックスの漫画やアニメにどっぷりと浸かった日々を過ごしており、原作によく精通している人物であると思われます。しかし彼はDCEUをとても楽しんでおり、「明るい」政策の下大きく作り直され、一見すると原作に忠実な仕上がりとなった劇場版JLに満足いかずに、上記の署名運動まで起こすほどでした。あくまで一個人の感性ではありますが、原作のDCコミックスを熟知している人物が起こした運動は、既に17万人以上の人物の心に訴えかけるほどです。

そこまでさせるほどの映画を撮るザック・スナイダーは原作となるDCコミックスを深く理解した上で、ただの実写化に留まらない、唯一無二の魅力を持った作品を創り出してきました。改めてMoSをみてみると、思わぬところでBvSやJLにつながる個所があったりして、彼が確固たるヴィジョンを持って製作に取り組んでいたことがわかります。ただスタジオが定めた計画に沿うのではなく、非常に深い本質的な部分でつながった壮大な三部作。こうして書いているだけでワクワクしてしまいますね。

 

以上に挙げたのがザック・スナイダーによって築かれた物語であり、僕はそれが非常に好きです。特に数々の挑戦的な展開を詰めに詰め込んだ充実の問題作BvSは僕の心の一本の一つと言ってもいい。スーパーヒーローの物語は基本的にフィクションであり、楽しい勧善懲悪の物語です。よってスーパーヒーローの物語現代の民話と言えます。

そんな人知を超えた力による、一見爽快な活劇の根底・核に大切なメッセージが込められているのなら、それを神話として描こうとするアプローチは間違ってはいないと思います。しかし、DCEUがいつまでもこの方針でいくことはできないし、僕も実際そうなるべきではないと思います。やはり長期間存続し、人々の興味に訴えかけていくには何らかの変化が必要であり、ザック・スナイダーが敷いたレールはいつかは終わりを迎えるときが来ると思っています。もしかすると、それがJLスナイダー・カットなのかもしれない。

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ザック・スナイダーが築き上げた世界は、一見伝統的な原作コミックのそれとは異なり、原作はあくまでインスピレーション元として、その本質をくみ取りつつ唯一無二のDCEUとして出来上がりました。JLで一旦完結を迎えたDCEUは、今度から今までよりも原作を取り入れていく方針に向かっていく気がします。一見原作から異なるような複雑でリアルなデザインが、徐々に原作のコミック調のそれに近づいていくように、JLでDCEUはやっと日の光を浴びる時期に到達しました。これからはDCコミックスが元から掲げていた楽観・希望といったテーマをよりストレートに表すことができるでしょう。

神話を目指して濃厚な画を撮るザック・スナイダーの起用は、DCEUの一風変わったキックスタートでした。JLまでで、DCEUは基本的に押さえておきたいところは構築が完了しました。そしてより多くの原作ファンが満足できるような希望が詰まったDCEUは、ここから始まるザック・スナイダーは一見すると超人的なパワーを持つキャラクター達をじっくりと描くことで、その存在と彼らの下す決断に十分なリアリティを与えてくれました。そうしてじっくりとヒーローまでの道のりを描くことで、これからはよりコミック然とした明るく楽しい冒険も可能となります。とはいえ、それも唐突に明るくし過ぎると、MCUとの区別がつかなくなり、DCEUはその意義やアイデンティティーを見失い、競争において自らの首を絞めることとなりかねません。ザック・スナイダーの築いた「神話っぽさ」をどれだけ作品に盛り込んで、DCコミックスとして、DCEUとしてのバランスをとって成立させるかは個々の監督にかかっています。

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非常に個性的な作風を誇る彼ですが、彼を迎え入れるという決断も、そして彼が批判にとらわれ過ぎずに彼なりに全力を尽くしてくれたことは非常に喜ばしいです。スーパーマンイエス・キリストになぞらえて描いたり、どんなシーンであっても撮影をテキトーに済ませずに美しい映像として仕上げるなど、彼の職人魂や語り手としての才能には舌を巻いてしまいます。あれだけの「カッコつけ」を全力でやり切ってくれるクリエイターは他に居ないでしょうし、実際彼が大きな役割を担ったDCEUは追及のし甲斐がある非常に濃い世界になりました。だからこそ、僕のようなファンの心を魅了してくるのです。ザック・スナイダーの名のもとに精力的に映画製作に携わってくれた数々のクルーの方々にも感謝が絶えません。これだけ夢中になれるシリーズを創り上げ、提供してくれてありがとう、ありがとう……そんな感じです。

 

 

 

 

 

DCEUにおけるザック・スナイダーの魅力でした。彼が映画製作において発揮する個性は強烈なものですが、それがDCEUに符合し、この競争が激化する業界で生き残るための方向性を示してくれたと思ってます。ワーナー・ブラザーズが一度JLでやろうとした「明るい」方向性なら万人受けはするでしょうが、それを行うタイミングや方法を誤っってしまったのではないか、と思います。実際、JLは興行収入はシリーズ中最下位という不本意な結果に終わっています。

先に書いた通り、ザック・スナイダー自身がDCコミックスのファンなので、彼は独自のスタイルに従って映画を作りつつ、ファンをしっかりと大切にしていると思っています。この「神話っぽさ」は「明るい」方針よりもウケる人数が少なくなりますが、非常に特徴的で密度が濃い分、それだけファンの心に残り、また新しいファンの芽を育てるでしょう。実際にこの記事を読んでくれた方が、MoSやBvSを少しでももっと好きになってくれれば本望です。僕は何もザック・スナイダーの信者、つまり彼の作品をすべて鵜呑みにするほどの大ファンかと言えばそうでもありません。実際まだ『300』は観ていないですし、以前『ウォッチメン』を見た時には途中で挫折しました(;´・ω・)

もう何度も同じことを言っていますが、彼は自分のスタイルを自覚したうえで、DCコミックスのヒーロー達をスクリーンに蘇らせる際に自分のやるべきことをわかっており、それを実行する力があります。そんな彼が思い切り手腕を振るった世界観は僕を虜にし、心の支えともなるほどです。僕は、ザック・スナイダーが作り上げてくれた、DCEUのヒーローたちが大好きなのです。

削除シーンがメガ盛りMAX!!『ジャスティス・リーグ』のザック版は3時間あってもおかしくない

今この記事を読んでいる方は、大なり小なりオリジナルの『ジャスティス・リーグ』を求めている方だと思います。その前提のもと、今回は例の「スナイダー・カット」について更に話を進めていこうと思いますね。

(まだ前回の記事を読んでいない方は、↓を読んでから今回の記事を読み進めることをお勧めします)

前回の記事で、スナイダー・カットが存在することが証明されました。その証明を書くのに大いに参考にさせてもらった「JLのザック・スナイダー・カットはあなたが思う以上に出来上がっていた」という記事は、某人物からの情報提供によってその情報を知るに至りました。また、その方による情報提供はいくつかありましたが、その二つ目とは「ワーナー・ブラザーズの内通者がオリジナルのJL(=スナイダー・カット)のラフカットを見た」という記事です。その記事をよく調査したところ、その情報のソースはSuperhero Talk SiteというファンメディアのHaroon Shareef氏によって書かれたものでした。

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このShareef氏、それ以外にもかなり興味深い記事をいくつか書いています。今回の記事では「ラフカットを見た」含め、計3つの記事を訳しつつ、その内容をお伝えしようと思います。かなり長くなる上、前回と違ってソースがソースゆえに100%本当とは限りません。それを了承できる方のみ、貴重な情報が大量に詰まった記事として受け止め、読み進めていただければと思います。

 

 

削除シーン一覧:ワーナー・ブラザーズ内通者がShareef氏に伝えた内容

第1にお伝えするのは劇場版にはなかったシーンの数々。2017年11月19日に投稿されたその記事は劇場版を基準に、削除されたシーン・長かったシーン・異なるシーンの3種類に箇条書きにして記していました。製作関係者の証言ではなく、「内部に居る人間によれば」という類の話なので、絶対に正しいという事は保証はできません。しかし今や少なくともスナイダー・カットは事実上存在することが判明しているので、こうして書き進めていく次第です。

ソース:ザック・スナイダーの『ジャスティス・リーグ』から削除されたシーン

ワーナー・ブラザーズの幹部に向けて、オリジナルのJLのラフカットの試写会が行われたそうです。以下そのスナイダー・カットから劇場版に至るまでに変更されたシーンを書いていきますが、劇場版から削除されたシーンを「削除」・長かったシーンを「延長」・そもそも展開が変更されたシーンを「変更」と記します。また、補足としてイメージしやすいように、記述と符合するザックが撮ったと思われるシーンの写真も添えますね。

 

f:id:the-Writer:20180228150433p:plain延長:映画はブルースがアクアマンをリクルートするところから始まる。劇場版とは基本的に同じシーン。セリフのいくつかがウェドンによって加えられ、ザックのが少しカットされた。アクアマンはブルースに対し、劇場版よりも反発気味で己を閉ざしていた

削除:バリー・アレンはアイリス・ウェストがいると知って図書館を訪れる。彼女に話しかけようとするも、どもって赤面する。「今日の所はもう父さんに会いに行く」と言う。アイリスは彼のそんなおどおどしたところが好きだが、彼がそこまで特別だとは思っていない。バリーがアイリスにかっこいいところをみせようとして指で窓ガラスを割る(観客は初めてバリーが能力を使うのを目撃する)。アイリスとその他大勢がその破壊に驚くと、バリーはただ「ガラスが弱かった」と言って立ち去る

f:id:the-Writer:20180228152141p:plain延長:ダイアナによる歴史の授業。ワーナー・ブラザーズは劇場版からグリーンランタン、ゼウス、そしてアレスまでもがセリフをカットし、内通者は劇場版を観て驚いた。彼ら一人一人には数行分のセリフが当てられていた。あとアンティオペとヒッポリタも。どうやらアクションだけに集中するため、劇場版はセリフは全カットのようだ。

f:id:the-Writer:20180228142844p:plain削除:セミッシラからマザーボックスを奪還した後、ステッペンウルフはボックスに実際に「語り掛ける」。ステッペンウルフの母「マザー」であるヘッグラの本質は3つのマザーボックスの中で生き続けている。それらすべてを集め合わせれば、彼女の力は開放される。その力はステッペンウルフのボスであり、甥であるダークサイドを超えるほどのものである。それを得る事こそが彼の元々の計画だった。ヘッグラに語り掛けるシーンのセリフが予告編に使われていたから、ワーナー・ブラザーズはこのシーンは残しておくだろうと思っていた。「守るものはもういない。ランタン共も。クリプトン人も。この世界は陥落する。マザー、あなたは自由になる」

f:id:the-Writer:20180228142810p:plain削除:サイボーグの生前の暮らし。彼はフットボールの試合で活躍し、母(彼女もキャスティングされていた)がそれを観戦している。その後、車で帰路に着く。ヴィクターは父が最後まで姿を見せなかったことに対して怒っており、母がそれをなだめようとしている。ヴィクターは更に怒り続けて母に食って掛かり、車のコントロールを失い、事故を起こす

f:id:the-Writer:20180228150314p:plain延長:ゴードンのシーンは、劇場版にはなかったちょっとしたシーンがあった。ゴードンは薬物中毒者を開放して軽く声をかけてやり、その後警官がパラデーモンを描いた絵を持ってくる。彼とリーグの会話ももっと長かった。まず、ワンダーウーマンに「彼女がロンドンでの報告で何度も登場する女性なのか」と聞く。その後、サイボーグに「どうやって物を食べるのか?そもそも食べる必要があるのか?」とも

f:id:the-Writer:20180228150350p:plain削除:ステッペンウルフによるアトランティス襲撃後、アクアマンは彼が次に何をすべきかをメラや相談役のヴァルコ(注釈:ウィレム・デフォーが演じる)と相談する。メラとしては「Ormが信用できない」との理由から、彼に王になってほしい。ヴァルコは彼の心の声に従ってほしいと言う。アクアマンは、地球の人々の助けるべきという責任を感じていると告白する。

f:id:the-Writer:20180228142930p:plain削除:ステッペンウルフとゴッサム地下で交戦した後、リーグがバットケイブを訪れる。アルフレッドはリーグのメンバーに対してそれぞれユーモラスなリアクションを見せる(注釈:アルフレッドのリアクション映像がリークされた。僕も見た事があるのでその内容を書くと、ワンウー→励ますようにポンと腕を触られたので微笑む・サイボーグ→一瞬ポカーンとなってフーと息を吐きだして彼なりの驚きを示す・バリー→めっちゃ手を振ってくるからニッコリ笑いながら手を振り返す・アクアマン→丁度映像が途切れたため不明)。ブルースは以前見た悪夢“Knightmare”(注釈:BvSでブルースが見た意味深なアレ)について、リーグに向けてその内容を語る。そこから考えて、ブルースはステッペンウルフがスーパーマンの力を求めて蘇生させると踏んでいる。「邪悪なクリプトン人と戦いたくなければ、奴より先にやるしかない」

変更:スーパーマンの復活が可能だった理由はただ一つ、サイボーグがスーパーマンの肉体に異星由来の遺伝子物質、コデックスを感知したから。これがスーパーマンを呼び戻すことが可能となる最後の決め手となる。その後の蘇生の流れはほとんど同じ。

削除:デスストロークがレックスを脱獄させる。警察の追跡があるので「予め話し合った地点」で合流すると決めた後、その場は一旦分かれる。

f:id:the-Writer:20180228143017p:plain削除:ケント農場。復活したクラークはリーグ相手に暴れまわった後、ロイスをここに連れてくる。しかし彼は何が起こっているのか理解できず、ひどく混乱している。傍観者たちが彼を見て写真を撮っている。彼は更に混乱し、実際にヒートヴィジョンでその市民たちを攻撃しようとしてしまうが、ロイスは何とか彼を落ち着かせることに成功する。クラークが「声が黙らないんだ」とロイスに言う。その後、既に家にいるクラークとロイスのところにマーサが来る。クラークはさっきよりは落ち着いたが、まだとても混乱している__彼の能力の制御が付かず、感覚が高まりすぎている。マーサは「世界を海だと思って。私の声を追って、戻ってくるの」とアドバイスを与える(MoSで幼いクラークに与えたアドバイスのリプライズ)。それによってクラークはようやく落ち着いた。その後、クラークはシャツを着て平原でジョナサン(MoS,BvSから引き続きケビン・コスナー)を目撃する。クラークは会いに行く。ジョナサンは「本当の自分を受け入れる」ことについて語る。彼はクラークに「自分が何者か、それに折り合いをつけるんだ。お前がどんな人物であれ、世界を変える力を持っている。正義の人物としても、悪としても」ロイスも出てきたとき、クラークは自分の一部としてスーパーマンを受け入れる。クラークは婚約を確かめ、ロイスはついに「自分が十分に強くなかった」と感情があふれ出す。その時、マーサも出てくる。クラークはリーグを助けることを決意し、その場を飛び立つ。内通者の観たバージョンではこうであり、いくつかのセリフは多少は補ったかもしれないが、基本的にはこんな感じだったそうだ。

f:id:the-Writer:20180228145932j:plain削除:クラークがアルフレッドに会いに行き、スーツを獲得する(注釈:この映像はVFXや音楽まで映像として完成した状態で、円盤に特典映像として付属している)

削除:ステッペンウルフとヘッグラの二度目の会話。彼はついにすべてのマザーボックスをそろえ、三位一体によるヘッグラの復活が始まる

変更:スーパーマン復活後のブルースとダイアナの会話。ダイアナが来てブルースの脱臼を治す。ブルースは世界を救うため、自らは死のうとしていることを明かす。「自分がこれまでしてきた事を考えるなら、自分は死ぬべきだ。何も、たとえスーパーマンへの憎しみですら自分が行ってきた殺人行為を正当化することはできない」ダイアナは「彼はもう変わった」と言うが、ブルースの自分の命を犠牲にすることで、やっと罪を償えるという意志は固い(注釈:ダイアナの「彼」がブルースなのかクラークなのかわからない。原文における鍵カッコに相当するクオテーションマークが記載ミスか?)

f:id:the-Writer:20180228143801p:plain変更:最終決戦においてブルースのバットモービルは死への一直線を突き進むが、そこにワンダーウーマンとアクアマンが介入して助ける。彼らは戦死は何にもならず、生きて戦い続けることこそが必要だという。

変更:スーパーマンもついに戦闘に参加し、リーグと連携。しかし、ここでステッペンウルフがスーパーマンを自分たちの軍勢と手を組むよう誘惑しようとし、スーパーマンにヴィジョンを見せる。悪夢”Knightmare”の映像がいくつか入っており、そこで(観客は初めて)ダークサイドの姿を目撃することとなる。しかし、スーパーマンはそれをはねつけ、ステッペンウルフに最後の一撃を食らわせ、倒す。

削除:惑星アポコリプスでステッペンウルフはダークサイドによって処刑される。ダークサイドは「クリプトン人に合う」ため、地球へ向かう決意をする(ただし、このシーンはザックがいる段階で早々にカットされた)

f:id:the-Writer:20180228144104j:plain削除:村の沿岸で、アクアマンはメラと合い、アトランティスへと戻ることにする。バリーは図書館に行き、アイリスは彼にかわいらしく微笑む。

f:id:the-Writer:20180228145752p:plainもう一つのエンディング(1):サイボーグが3つのマザーボックスを引き離そうとし、ヘッグラはやめさせるために説き伏せようとしている。怒り狂ったステッペンウルフは彼をつかむと引き裂く。サイボーグはこれによって死ぬ

もう一つのエンディング(2):ブルースとバリーはビクターの「遺体」をバットケイブに横たえる。ブルースは彼の「彼の有機組織部は死んでいるが、彼の機械部を再起動させることができるかもしれない」という。バリーはどんな方法を使ってでも助けると約束する。

削除:ロイスはデイリー・プラネット編集長のペリー・ホワイトに「クラーク・ケント、またの名をスーパーマン」と紹介する(ペリー役のローレンス・フィッシュバーンは撮影のスケジュールが合わなかったため、姿は映されない)。

f:id:the-Writer:20180301141807p:plain削除:主要撮影で撮られたオリジナルのアフター・クレジット・シーンは、夜の湖畔の家で眠っていたブルースが緑色の光に起こされるというもの。グリーン・ランタン・コーズのトマ・レーとキロウォグの来訪である。ポスト・プロダクションの早い段階でカットされた

※もうひとつのエンディングは、試写を観た観客によるネタバレ防止用に挿入された

(注釈:サイボーグが最終決戦中に死んでしまったら、ラストのリーグ6人が並ぶシーンが撮れなくなってしまうじゃないか!と思いましたが、読み進めていくと「もう一つのエンディング」の説明がありました(; ・ω・) また、そのシーンでスローモーションでフラッシュとサイボーグが握り拳を突き合わせていましたが、それは「ザックが撮った」そうなので、それに従ってあのシーン全体もザックによるものとなりますね。実際、恐らくそのシーンの撮影の合間に取ったであろう写真も公開されています)

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 いや~、2時間にまとめられた劇場版と比べるとファンが大満足しそうな充実っぷりですね。特にその立ち位置を理解しているかのように、BvSの直系の続編要素にとどまらず、改めてMoSのメッセージをクラークを真の意味でよみがえらせるために持ってくるのがニクい。確かに、この内容なら3時間に達しそうな勢いですし、それでも僕は喜んで観ると思います!

 

削除シーン一覧:ultracal31さんが伝えた内容 

第2にお伝えする内容は、ResetEraという掲示板のultracal31さんの投稿。同じくラフカットを観るに至った経緯をultracal31さんは述べていないものの、恐らく上記の内通者と同じくラフカットをどうにかして観られる立場の人物であると推測されます。

これはザックが撮ったジョスが加えたと細かく記述していますが、ここではあくまで劇場版からカットされたシーンのみに絞って書いていきます。

 

f:id:the-Writer:20180228144236p:plain削除:アパート内でロイスとマーサが話すシーン(注釈:ロイスのアパートか)

f:id:the-Writer:20180228150524p:plain削除:ステッペンウルフのセミッシラ襲撃時、パラデーモンの攻撃を食らったアマゾンの1人がパラデーモン化していく。彼女は変身が終わる前に自決した。その一連のシーンはVFXまで完了していた

f:id:the-Writer:20180301142313p:plain削除:自宅のアパート内でのヴィクターと父サイラスの会話はもっと長かった。ヴィクターは道行く人々を窓から眺めながら、彼らが送っている人生を羨ましく思っている

f:id:the-Writer:20180228144326p:plain削除:バットマンの”My turn”。予告編でも印象的な使われ方

f:id:the-Writer:20180228144400p:plain削除:ステッペンウルフの壁に叩きつけたワンダーウーマンに向けた攻撃がかわされて壁に当たり、建物の崩壊が始まる。外にいたS.T.A.Rラボの研究員たちにがれきが降り注ぎ、フラッシュが高速でそれらを退けるが、一つだけ取り逃がしてしまう。そのがれきが研究員に激突する寸前、サイボーグの狙撃で事なきを得た。

f:id:the-Writer:20180228152420p:plain削除:スーパーマン復活のためにクリプトン船に侵入するリーグ。サイラスがフェイクのコードレッドを発令して内部にいた人間を全員避難させることで、スムーズに侵入可能となる。また、アクアマンとフラッシュの会話があった

f:id:the-Writer:20180228152635p:plain削除:いよいよマザーボックスとフラッシュから生じる電撃でスーパーマンを復活させるとき。サイボーグがカウントダウンを行うが、BvSのブルースと同じくヴィジョンを見る。カウントダウンが1を切った瞬間に見えたそのヴィジョンは、可能性の未来として荒廃した未来、リーグの終焉、そして一瞬ながらダークサイドの姿も目撃する

f:id:the-Writer:20180228150840p:plain削除:復活したクラークが暴走してリーグと交戦するが、その時フラッシュがクラークに蹴りを入れようとする

f:id:the-Writer:20180228150915p:plain削除:3つのマザーボックスの融合=三位一体が始まり、赤く染まる空と生じる雷という異変に反応する世界各地の人々。マーサ、ロイス、サイラス、ゴードン、アクアマンが居た村の人々、ロンドンの市民など

f:id:the-Writer:20180228144457p:plain削除:中心にワンダーウーマンが着地、”Shall we?”

削除:最初はワンダーウーマンがステッペンウルフの首を切り落として戦いは終わるはずだったが、後に変更された。ステッペンウルフの死に方は何回か書き直されている

削除:……といっていいのか微妙。そもそも撮影されたのかどうかすらわからないが、ワンダーウーマン、スーパーマンバットマンのトリニティがブームチューブの向こう側にいるダークサイドの姿を目撃する

 

 

実はサイボーグも"Knighmare"をみていた

さて、本日第3にお伝えする内容。それはあるシーンの詳細な供述なのですが、その中心人物はサイボーグです。上記のultracal31さんの

削除:いよいよマザーボックスとフラッシュから生じる電撃でスーパーマンを復活させるとき。サイボーグがカウントダウンを行うが、BvSのブルースと同じくヴィジョンを見る。カウントダウンが一になった時に見えたそのヴィジョンは、可能性の未来として荒廃した未来、リーグの終焉、そして一瞬ながらダークサイドの姿も目撃する。

の個所ですが、それはいったい何を意味するシーンなのか。

BvSでブルースはルーサーの暗号を解読中に不意にみた不可解なものを見ました。バットマンである自分がレジスタンスのような組織のリーダーであり、荒廃した世界、あちこちから立ち上る文字通りの火柱、そして地面には巨大なΩのマーク……

f:id:the-Writer:20180228152521j:plainバットマンの異名であるダークナイト"Dark Knight"と悪夢"Nightmare"をかけて、この一連のシーンは"Knightmare"と呼ばれています。

ところで、Screenrantよりある削除シーンの絵コンテが公開されました。左から右へ、下向きに読み進めていくとわかりますが……

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今作のヴィランであるステッペンウルフの甥・惑星アポコリプスの支配者・いずれリーグと戦う最強の敵、ダークサイドが描かれています。これを見ると、3つのマザーボックスが三位一体を達成した場合、そのあまりにも膨大な力によって地球は一瞬のうちに滅亡に追い込まれるようです。それもBvSのKnightmareをより詳しく描いたようであり、JUSTICE LEAGUEと文字が刻まれた門?が埋もれ、リーグが壊滅している事もうかがえます。それがサイボーグのみたヴィジョンと符合する、という考察です。

f:id:the-Writer:20180228153243j:plainブルースがKnightmareをみた原因は不明ですが、「起こりうる可能性の未来」として、ダークサイドの侵攻を食い止められなかった・スーパーマンは悪に堕ちた・地球は支配されたという最悪の未来で、自分の最後の瞬間を追体験している事が推測されます。

ならば、JLでサイボーグがみるKnightmareも未来の自分の最後の瞬間と考えられます。だからダークサイドの姿を一瞬だけ目撃し、最後は悪のスーパーマンによって殺される……という流れが見えてきます。ちなみにKnightmare時の姿は通常時のそれと異なる事が、BvSで示されています。バットマンは通常スーツの上からコートとゴーグルなどを着込んでいました。後に公式に公開された画像により、フラッシュとBvS劇中には登場しなかったサイボーグのKnightmare時の姿まで判明しました。

f:id:the-Writer:20180228153222p:plain劇場版からはカットされましたが、サイボーグが丸く片目が開いた滑らかなフルマスクを装着するシーンがあります。それとKnightmare時の姿が似通っていることもあり、既にKnightmareへとつながる可能性が示唆されているのですね。

f:id:the-Writer:20180228153339p:plainそれが、マザーボックスを落とすカウントダウンが1を切ったわずかな瞬間に起こった出来事です。その時、スーツに搭載された補助用AIも同じものを見ていました。よって、AIは復活したクラークを分析し、将来の脅威になりうる存在としてヴィクターの意志を無視してまで排除しようとしたのではないでしょうか。

劇場版だと、クラークはまだあくまで何が起こっているのかわかっていないだけで、敵対しているわけではありません。それが、サイボーグの唐突な攻撃によってリーグ相手に戦うこととなりました。これなら劇場版よりかなり自然な流れとなるのですが……

しかし、このKnightmareシーンはブルースやヴィクターにその後の重要な行動の契機となっているものの、その発生原因が一切不明のままです。説明が期待されるのが、JL後に予定されているフラッシュの映画『フラッシュ・ポイント(原題)』です。製作が一進一退を繰り返していますが、最近3度目の新監督「たち」がこのプロジェクトに参加したばかりです。

同名の原作コミックではフラッシュが何らかの原因で元の世界線とはかなり違う展開を迎えた世界線に迷い込み、その解決に奔走する___といったあらすじです。いつごろ公開になるのかすらわかりませんが、2016年に広げた風呂敷にようやく決着がつくことが期待されてます……なんて少し脱線してしまいましたが(;´・ω・)

 

 

 

ステッペンウルフのリデザイン疑惑

完全に個人的な推測になってしまうのですが……ジョス・ウェドンによって大幅に作り直されたシーンがいくつか存在しますが、いまいち確証が持てないものの「やっぱり手入ってないかコレ?」というものもあります。

f:id:the-Writer:20180301143310p:plainステッペンウルフです。恐らくシーンのカットにすまされず、(スーパーマンの口髭と同じように)CGを駆使した大規模な変更がされたのではないかと思います。

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キーラン・ハインズのキャスティングが2016年11月に発表され、彼はこのキャラクターをモーション・キャプチャーを使って演じました。なお、ヒーロー側のキャストとは誰一人共演していないそうです。その姿が初めて映像中に登場したのは、2017年7月の予告編から。劇場公開までに顔が明確に映るものはほとんどありませんでした。

さて、なぜリデザインがあったのではないかという疑問がわいたのか?

根拠1としてBvSとデザインが違いすぎることです。僕も劇場で観ていてもほとんど気にならず、あとからじっくりJLの映像を観て気付いたのですが……BvS時の姿と比較してみました。

f:id:the-Writer:20180228145144j:plain確かに大柄で、二本角というおおまかなシルエットは守っているのですが、よく見るといろいろな点が違います。

BvS→角と一体化したような怪物然とした顔、全身に金属の破片が付いたような刺々しい体、人間離れしたマッチョな体形

JL→角はあくまで兜、顔は人間然としている、普通に鎧を着こんだような体、体形も普通

それに作中で説明された流れを考えてみるとおかしいです。太古の昔、ダークサイドに遣わされたステッペンウルフの軍勢が地球侵略に来た時の姿と、現代のスーパーマンがいなくなった地球に再来してきたときの姿が同じなんですよね。つまり劇場版のままだと、ステッペンウルフの姿は人間→怪物→人間というような変化をしてしまっていることになります。まあ、BvSと姿が違うことに対する反論として、あれはカットシーンだから正史には含まれないだとか、あれは通信用の姿(SNSでのアイコンみたいなもの)というのもあるにはありますが……

根拠2として「CGが雑ではないか」という感想。正直これは観た人の感性に依存するので、事実を立証するための根拠としては弱いですが……一部にはセリフに対して口が動いていないと指摘している方もいます。個人的には最終決戦時の背景含めて、2017年の映画にしてはCGが何とも残念なクオリティではないかと感じていました。

根拠3としてコンセプトアートとプレビズが公開されたことです。

f:id:the-Writer:20180228145309j:plainコンセプトアートはいかにもBvSのデザインを多少アップグレードさせたといった感じで、カラーが付くことでエイリアンとしての生っぽさも出ていますね。これだけなら、「あくまで製作の初期段階はそうだった」で済みます。しかし、2018年1月末になってVFXアーティストからプレビズ映像が公開されました。ご存じない方のために軽く説明いたしますと、プレビズとは簡易的なCGを使って撮りたいシーンをおおまかに再現したものであり、予め可視化することから、PRE-VISualizationと言われます。アニメ制作で言うと絵コンテみたいなものでしょうか。映画だとそれを視覚的にキャストやクルーに伝えてから、撮影および視覚効果を加えて映像を作っていきます。

f:id:the-Writer:20180228145453p:plainJLの製作に携わったVFXアーティストが突如公開した1分余りのプレビズ映像はステッペンウルフのセミッシラ襲撃・スーパーマンの暴走直前を合わせたもの。そこに映っているステッペンウルフは、まさしくBvSで見せた姿が命を吹き込まれたものでした。現在、その映像は削除されてしまっていますが僕もその映像を観ました。所々カットされているものの、一連の流れは劇場版と全く同じでした。

参考までにBvSの映像・JLのプレビズ・JLのコンセプトアート・JLの劇場版のステッペンウルフの比較画像を置いておきますね。

f:id:the-Writer:20180228145620j:plain根拠4として、演じたキーラン・ハインズが不満を漏らしていることです。『スーサイド・スクワッド』でもトリックスターとなる(はずだった)ジョーカーを演じたジャレッド・レトは、自分のシーンを大量にカットされたことに遺憾の意を度々示していましたが……

ソース:ステッペンウルフのキーラン・ハインズがディレクターズ・カットは劇場版よりも良いと語る
2017年12月に開催されたエース・コミコンに出席したハインズ氏にインタビューを敢行したところ、「私があれだけ一生懸命取り組んだのは、あの映画じゃない。ディレクターズ・カットを出してほしい、劇場で公開されたものよりも良いから」。また、その時の様子も「目に見えて不満そうだった」そうです。

 

では、ここまで読んだ方なら既に何となくお分かりかとは思いますが、僕の推測を書いていこうと思います。JLはザック・スナイダーが監督として続投しているので、BvSからそのまま繋がっているかのような作品となり、ステッペンウルフもその一環でした。キーラン・ハインズキャスティング発表時には「外見は少しアップグレードされる」と報道され、BvSのデザインは多少凶悪化する方針で映像化が進んだはずです。そして2016年12月、ワーナー・ブラザーズの幹部たちに向けてこのスナイダー・カットの試写が行われます。この時、幹部たちは「暗すぎる」「長い」などと感じ、それがステッペンウルフにまで及んだのではないでしょうか。

f:id:the-Writer:20180228165249p:plain(↑なんか怖いですね)

映画の縮小に伴ってステッペンウルフの目的は当初のものとはズレ、怪物然としたデザインは一から作り直しです。キーラン・ハインズが2017年6月からの再撮影に参加したかは不明ですが、彼自身の労力以上に大変な苦労を強いられたのが、視覚効果担当だったはずです。今まで2017年11月に間に合う予定に沿って複雑で筋骨隆々の体や表情を作っていればよかったものの、急な変更によって実質すべてパーになり、作業をすべてやり直しになったわけですから。実際の作業はどうなったのかと言えば、当然彼が映るシーンは全て作り直しですし、実は最終決戦は背景含めてほぼ一から作り直しという羽目になったのではないかとすら思います。

f:id:the-Writer:20180301144438p:plainf:id:the-Writer:20180301152601p:plainこの最終決戦なのですが、スナイダー・カットではブルーを基調とした色合いが、ジョス・ウェドンの指示によってレッドを基調とした場面に大きく変更されたのではないか、と踏んでいます。

(ザック・スナイダーの降板が正式に発表されたのが5月なので、それまでに出た2つの予告映像は100%スナイダー・カットの映像であり、貴重なアーカイブ集だと思っています)よって2017年5月以降に公開された映像は、多かれ少なかれジョス・ウェドンによる加工が入った映像が入り混じっていると考えられますね。

f:id:the-Writer:20180301145911p:plainf:id:the-Writer:20180301152452p:plain最終決戦に焦点を当てますと、3月の映像では青かった場面が、7月の映像を境に赤く変更されていっていることがわかると思います。また、地面にはエイリアンの浸食ぶりを表す触手も付け加えられました。

ステッペンウルフのデザインが大きく変更されたのなら、当然ヒーローのパンチや斬撃がステッペンウルフに当たる最終決戦シーンは8割方は作り直しになりそうです。また、ジョス・ウェドンによってカラーリングも大きく変更されたのなら、主にCG撮影用のグリーンバックで撮影したヒーローたちの映像はそのままに、背景まで実質のやり直しになりそうですね。

f:id:the-Writer:20180301152635p:plainf:id:the-Writer:20180301145859p:plain個人的にJLの最終決戦は、MoS,BvSのそれよりもどことなくテンポが悪く、CGが浮いており、ヒーローたちのアクションのつながりがイマイチ不自然な流れに感じていましたが、上記の経緯がそれを説明してくれそうです。よってスナイダー・カットではブルーを基調としたシーンになると思われますが……しかし、一つ矛盾点があります。それはultracal31さんによるリークの

削除:3つのマザーボックスの融合=三位一体が始まり、赤く染まる空と生じる雷という異変に反応する人々。マーサ、ロイス、サイラス、ゴードン、アクアマンが居た村の人々、ロンドンなど

この個所です。まだジョス・ウェドンも参加していない2016年12月にスナイダー・カットのラフカットを見たはずなのに、空が「赤く」なっているんですよね……ごめんなさい、流石にこれに対する上手い説明が浮かんでこないです(思いつく方が居たらコメントで教えてください……)。ultracal31さんの説明は話半分で聞くのが良いと思われます。

f:id:the-Writer:20180301153215p:plainステッペンウルフの姿が初めて出たのは2017年7月の予告編からですから、最初の彼の姿は一般に一切知られることなく、ワーナー・ブラザーズが「明るく」する方針のもと、人間に近く最初よりは怖くないデザインでの製作が進められたのだと思います。なお、前回の記事で書いた通り、スナイダー・カットはVFXもかなり進んだ状態であると考えられています。よってBvSでわずかな間のみその姿を見せた怪物が、自分が覇権を握ろうと画策してスクリーンで動く映像が既に存在し、MoS,BvSのようなハイスピードで3次元空間を縦横無尽に移動するカメラワークで映された充実の最終決戦の映像も、構成は出来上がっているはずなのです。

 

 

 

 

 

最後に、スナイダー・カットは……?

以上、スナイダー・カットは本来こうなるはずだった沢山の点でした。文章化されるだけでかなり盛り上がるので、実際完成した映画として観たらどうなってしまうのでしょうか。上記の情報が全て真実ならば、それらの映像は全て一本の映画として編集が完了した状態で存在しているという事になりますね。一本の映画として既に存在はする……僕としてはかなり嬉しいです。

では最後にスナイダー・カットに関する興味深い情報を一つ。

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先ほど、キーラン・ハインズにインタビューを敢行した2017年末のエース・コミコンなのですが、ファンメディアのCINEMA CUREのカメラマンがキャスト達に質問したそうです。「そういえばスナイダー・カットってどうなってるんですか?」

サイボーグことヴィクター・ストーンを演じるレイ・フィッシャーは目を見開いて満面の笑みを見せた後、「何も言えないんだ」というジェスチャーを、他のキャスト達は「すみません、それについて話してはいけないんです」と答えたそうです。そのカメラマンに言わせると、レイ・フィッシャーが見せた笑顔は愛想笑いではなく、「僕からも何か話したいけど、ルールが厳しいせいで何も言えないんだ、ごめん!」という感じの笑みだったとか。これはもしや……?

希望は、生きている。『ジャスティス・リーグ』ザック・スナイダー・カットの存在と進捗状況

『マン・オブ・スティール』『バットマンvsスーパーマン』に連なる続編にして、数々のヒーローが結集し外宇宙からの脅威に立ち向かう超大作『ジャスティス・リーグ』が去年11/23に公開されました(以下、MoS,BvS,JLと書きます)。

この3作を連続して監督したのはザック・スナイダー。そのじっくりとしたストーリーテリングや、いちいちキマッているカット、彼にしか取れない神話のような重厚な雰囲気には定評があります。なお、残念なことに数々の事情が重なり、ザック・スナイダーはJLより降板し、代わりに参入したジョス・ウェドン(『アベンジャーズ』『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で監督・脚本を兼任)によってJLは一旦の完成を迎えました。

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しかしJLはウェドンによる大規模な再撮影・作曲家の交代・2時間以内に収められた上映時間、主にこの3つによりMoS,BvSからの連続性は薄まったものの、コンパクトで明るい作風の映画に仕上がりました。これに対して「オリジナルのザック版を見せてくれ」という声が相次ぐ事となりました。ついには署名運動まで発足し、現在17万人を集めています。今でも大勢のファンがいわゆる「スナイダー・カット」を求めている異例の事態です。

かく言う僕も前2作の大ファン。本来ならザック・スナイダーが3作連続して撮るはずだったMoS,BvS,JLはスーパーマンが中心に据えられていることから、一部ではザック・スナイダー・スーパーマン・トリロジーなんて呼ばれることもあります。

詳しく感想を書くのはまた別の機会にしますが、MoS,BvSと経て迎えたJLは気付けば終わっていた、そんな印象でした。作風は明るくなり、楽しい映画に仕上がっていたのは確かですが、少なくとも僕が求めていたものではありませんでした。JLは明らかに、製作・配給にあたっていたワーナー・ブラザーズが指示したてこ入れの影響が目に見えており、てこ入れ=上記3つの要因はJLを恐ろしくコンパクトなものにしました。ワーナー・ブラザーズによって手が加えられる前の純粋なザック・スナイダーによるJLが観たい。この思いは劇場で観た日からずっと持ち続けています。

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とはいえ「スナイダー・カット」という代物はそもそも存在するのか?という疑問があります。

ザック・スナイダーが2017年5月、家族の悲劇を理由に公式に降板を発表した時点で、純粋に彼によって作り上げられていたJLはどの段階にあったのか。公開後、ワーナー・ブラザーズからはスナイダー・カットに関する公式発表は一切ないものの、非公式ながらカットされた映像がぽつぽつリークされたり、内部に通じていると主張する人間がネット掲示板でスナイダー・カットは存在すると言ったり、VFXスタッフと主張する人間が存在しないと言ったり、情報は混迷を極めています。

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仮に映画として完成したスナイダー・カットがリリースされないでも、2時間以内に収める過程で大量に生じたであろうカットされた未公開シーン。せめてこれさえ映像特典として含まれればよかったのですが、現在発売されようとしている劇場版JLの映像ソフトに含まれるのはおよそ2分ほどのスーパーマンのシーンのみ。ザック・スナイダーによるトリロジー完結編を望むファンとしては生殺しと言わざるを得ません。スナイダー・カットを巡る情報は基本的にほとんどがワーナー・ブラザーズではない、非公式の匿名の情報なのですべてが全て真実とは限りません。この求めるものがすぐ目の前にあるようで手が届かない膠着状況。

 

そんな中、スナイダー・カットを観たいという熱心なとある人物からタレこみ、もといいくつかの貴重な情報提供をいただきました。一つは海外の映画関連を扱うニュースサイトScreenRantによる記事です。

「JLのザック・スナイダー・カットはあなたが思う以上に出来上がっていた」という題名が付けられたこの記事。1/28に投稿されたものであり、既に映画製作に携わったクルーによるSNSへの投稿などの確固たる証拠を基に、JLのスナイダー・カットが存在することを導き出していますが、それだけにとどまっていません。そのスナイダー・カットは製作段階における終盤まで来ていた、と述べています。スナイダー・カットを望む身としては、相当ありがたい情報です。そんなわけで、今回はここにその内容をかいつまんで記述しておこうと思います。

 

 

 

スナイダー・カットは既にピクチャー・ロックがなされている

まず、Veroの2017年2月17日、ザック・スナイダーによる投稿です。映画のポスト・プロダクションを請け負うCompany 3でステファン・ソネンフェルドとバットマンの戦闘シーンに取り組んでいることがわかります。このシーンは今見るとゴッサム・シティでのステッペンウルフの軍団との戦闘のようですね。

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さて、このステファン氏はJLにおいてデジタル・インターミディエイト・カラリストを務めた人物。映像の色調調整の担当にあたります。この作業はデジタル・インターミディエイトあるいはカラーグレーディングと呼ばれるのですが、なぜ重要なのかというと、この作業は普通ピクチャー・ロックの後に行われるからです。

ピクチャー・ロックとは、撮影された映像をとりあえずつなぎ合わせたものが、編集による整理・調整を経たもの。まだ視覚効果や音響効果はついていないですが、更なる追加シーンや編集される個所は無く、映像の編集自体は最終版である状態を指しているのです。よってこの状態なら恐らく、上映時間も決定していると言えます。映像学校時代からの旧知の間柄であり、ザック・スナイダーが監督する『ウォッチメン』『バットマンvsスーパーマン』で撮影監督を務めたラリー・フォンは、映像編集→色調調整というこの手順をTwitterで認めています。

その最終編集版は、オープニングの一コマ目からエンドクレジットの最後まですべて決まっていることになるそうです。

では、今回はその手順を踏まずに撮影した映像をすぐに色調調整に回した、つまり映像自体はきれいにつながった最終編集版は存在しないというケースはあり得るのでしょうか?ピクチャー・ロックよりも前に色調調整を行ったケースとしては、ベン・アフレックが監督・製作・脚本・主演を務めた映画『夜に生きる』があります。これは映画完成に先駆けて「こんな風にする」というヴィジョンを具現化するためのものでした。しかし、『夜に生きる』はALEXA 65(ちなみに6K)によってデジタル撮影されており、その日その日で色調調整が可能になります。一方、JLは35mmフィルムによって撮影されていたことが、今作で撮影監督を務めたファビアン・ワグナーによって確認されています

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これは『夜に生きる』のようにその都度その都度で、撮影した映像を先に色調調整しておくのではなく、撮影→編集(→ピクチャー・ロック)→色調調整、という手順をJLは踏んでおり、2017年の2月17日にはJLはピクチャー・ロックされていたことが導き出されます。この色調調整の作業は、2時間の映画ならおよそ10日ほどかかるとされており、ワーナー・ブラザーズの公式発表通り5月にザックがプロジェクトを離脱したのなら、それよりもずっと前に、ある段階まで製作が済んでおり、その次の段階の作業に移っていたことも考えられます。ちなみにソネンフェルド氏はJLの二度目の色調調整にも参加しており、彼自身がインスタグラムで10月に報告したところには劇場版の色調調整が終わったそうです(投稿されたシーン自体は、ザックが撮ったものであり劇場版からはカットされている)。

この色調調整が終われば、完成・公開まで残る作業は視覚・音響効果を加える作業ですが、ザックの監督下でそれもかなり進んでいたことが、ソーシャル・メディアへの投稿が裏付けています。

 

 

沢山のシーンでVFXはかなり進んでいた

記事の序盤に書いた通り、映画公開後にいくつかのシーンがリークされましたが、それらほとんどのシーンはVFXが未完成でした。ここから一部のファンが推測したのは、ジョス・ウェドンは6月に始まった再撮影よりも前からプロジェクトに参加しており、ザックにはVFXを完成させるほどの十分な時間が無かった、という事でした。しかし、今度はTwitterへのザック・スナイダーの投稿が相当な量のVFXが既に完成されていたことを示唆しています。

その投稿は、ジェイソン・モモア演じるアクアマンが水中を遊泳しているシーン。

しかし問題は映像中のスクリーンに映るアクアマンの映像ではありません。映像の最初、わずか1秒にも満たない時間一瞬映る文字列が、シーンの詳細を示しています。まず日付は2017/2/27。映画全体の色調調整が終わっていると十分考えられます。次に下の方に“DPX for final per request. Original submission not [見えない] –rious internal [見えない] review as proposed final.”文頭のDPXとは、デジタル・ピクチャー・エクスチェンジ・ファイルの頭文字であり、視覚効果とその色調調整(←やはりピクチャー・ロックが終わっている事を示す)に使われるもの。そして分の末尾にある”review as proposed final”、直訳すると「最終的に提案されたもののレビュー」となりますが、つまりザックがこのシーンの最終チェックを行っていることがわかります。

f:id:the-Writer:20180225193620p:plainf:id:the-Writer:20180225193633p:plainここから推測されるのは、このアクアマンがアトランティスを訪れるシーンのVFXだけを完成させた、というのも不自然なので、アクアマンのシーンが完成している=他のシーンもVFXが完成(あるいは完成が近い状態で存在)している事でしょう。

さて、リークされたいくつかのシーンはほとんどがVFXが未完成のものでした。よってスナイダー・カットは存在しても、VFXはほとんど完成されていないのではないか、という指摘の根拠になっています。しかし、これも恐らく覆されます。

f:id:the-Writer:20180225202942p:plainリークされたシーンの一つに、バリーが店内のような場所でスーツなしでスピードフォースにアクセスし、指一本でガラスを突き破り、目の前でスローモーションで起こっている交通事故に巻き込まれている、片思い相手のアイリス・ウェストを助ける、というシーンがあります。特にこの指でガラスに触れると、あたかも柔らかい素材であるかのようにガラスがグニュゥッと変形し、砕け散る……という印象的な個所なのですが、この個所はリークされたシーンではVFXは未完成でしたが、7月に公開された予告編にVFXが完成した状態で挿入されていました(劇場版からはカットされた)。f:id:the-Writer:20180225190512p:plain更に、サイボーグが雲を突き抜けて飛行するシーンも同様の流れであり、こちらは3月時点の予告編にVFXが完成した状態で挿入されていました。この事から、リークされた映像は視覚効果を加える初期段階のものであった事がわかります。

とはいえ、一連のシーンの一部だけがVFXも終わった完成状態で、予告編に挿入されるのもよくあることなので、その他の視覚効果を要する数々のシーンも全て完成している、とは限りません。しかし、相当な量のシーンが既に視覚効果を加える作業の真っ最中だった……というのは間違いないかと思われます。

 

ここまで、JLはピクチャー・ロックと色調調整まで済んでおり、視覚効果の作業も思っていたよりかなり進んでいたことがわかっています。では、音響効果はどうなのでしょうか?

ザック・スナイダーのVeroへの投稿によれば、1/27にワンダー・ウーマンを演じるガル・ガドットがADRを行っていることがわかります。ADRとはAutomatice Dialogue Replacement、訳すると自動台詞変換、要はアフレコです。

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1/27時点でガドットがアフレコを行っているのならば、残りのフォーリー(人物の足音やドアを開ける音などの環境音の事)の収録は既に終わっている事になります。アフレコはやはりピクチャー・ロックの後に行われる作業ですが、ここで日付にご注目ください。先ほど、2/17時点でピクチャー・ロックは終わっていると書きましたが、アフレコが1/27に行われていることを考えると、ピクチャー・ロックが終わっている時期は1/27以前まで早まりますね。

 

さて、このポスト・プロダクションでVFXの進行状況よりもはっきりしないのが、音楽。オリジナルの作曲家であるトム・ホルケンバーグ、またの名をジャンキーXLによるサウンド・トラックです。ジャンキーXLは、前二作の音楽を担当したハンス・ジマーとは師弟の関係にあり、2016年7月のインタビューでは、

「JLの作曲は大変です。BvSでは仕事を共にしたジマーと共に同じ問題に直面しました。キャラクターにはそれぞれ専用のテーマ曲があるものの、場面によってはその場面をサポートする音楽を流さなければならない。BvSでは専用のテーマ曲を流すのはワンダー・ウーマンのみにしました。もしスクリーン上に6人もいて誰か一人と戦ったりしてたくさんの出来事が同時に起こっているのだとしたら、その中から選び出すという作業が必要です。あなたがどう考えるかは自由ですが、音楽は常に映画をサポートする立場です。音楽はそれ単独ではなく、スクリーンで起こっていることをサポートする役回りなのです」

とジャンキーXLは答えています。

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そんな彼が、5月にジョス・ウェドンがプロジェクトに参入してきてその3週間後に解雇されるまで、JLの音楽の作曲や収録にどこまでこぎつけたのかは不明なままです。彼はゲイリー・クラーク・ジュニアと共に映画の主題歌であり、予告編でも流れたカム・トゥゲザーのカバーにも取り組んでいましたが、2017年4月にYoutubeの彼のチャンネルに投稿された動画によれば、同年の6月もしくは7月までは音楽の収録を行う予定はなかった事がわかっています。

その収録を行う予定だった6月(か7月)には、ジャンキーXLはザック・スナイダー共々プロジェクトを離脱しており、「予告編とかにジャンキーXLの音楽が一部使われているんじゃないか」といった予想も彼のTwitterで「インターネット上に出回っている『リークされた』音楽は私が作ったものじゃないですよ トムより」と公式に否定されています。

 よくある事として監督が映像の編集段階で、完成版がどんな感じになるのか確認するために、一時的に音楽をのせたうえでチェックする、というのがあります。つまりスナイダー・カットには部分的にでもジャンキーXLの既存曲、特に過去のDC映画からの流用が使われていることが推測されます。ジャンキーXLが曲を収録していない以上、彼自身が作曲もしくは収録に戻ってこない事には、ジャンキーXLが目指したものが必ず復元されるとも限らない、と念頭に置くことが重要です。

 

 

なぜザック・スナイダーはそこまで急いでいたのか

言うまでもないかもしれませんが、ここまで書いてきたことは全てワーナー・ブラザーズが表向きに発表してきたこととは対照的に違っており、最終的になぜあそこまでオリジナルからの大規模な変更の数々が加えられたのか。

今まではSNS上への投稿でしたが、これは噂になる事を念頭に置いてください。BATMAN-ON-FILM.comのビル・レイミー氏が言うところによれば、オリジナルのJLのラフ・カットは「見られたものではない」と、少なくとも一人の人物によって判断を下されたそうです。なお、彼が情報のソースを明かしていない事や、ラフ・カットのどの点が「見られたものではない」と判断されたのか不明なので、100%本当とは限らない事を改めてご了承ください。

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これが本当なら、それに伴って一定以上の脚本のリライト及び再撮影が決定されますが、なぜザックはピクチャー・ロックをあれほど早く済ませたのでしょうか?これに対する回答は、いつかそのバージョンが日の目を見ることに備えて、と考えられます。

ザック・スナイダーの撮る映画は常にクセがあります。「見られたものではない」は具体的にどの点を指しているのかは不明です。なお、ワーナー・ブラザーズCEOのケビン辻原氏の指示によって上映時間が2時間以内に収められましたし、ザック・スナイダーとクリス・テリオが書き、ジェフ・ジョンズが手を加えた脚本に、更にジョス・ウェドンが作風を明るくするために呼び込ました。そんなウェドンの元で行われた再撮影の映像もふんだんに盛り込まれる事となり、完成した劇場版のJLは(何度も書いていますが)明らかに全2作と比べて映像の色調が色鮮やかで明るく、2時間というコンパクトな長さです。これらの結果から逆算するなら、オリジナルのスナイダー・カットは劇場版よりも映像や展開のトーンが暗く(恐らく少なくとも序盤の雰囲気はBvSから直結している)、そして長かったと考えられます。

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そしてスナイダー・カットはいつかリリースされるという考えを強く後押しするのが、これまでの事例です。『ドーン・オブ・ザ・デッド』『エンジェル・ウォーズ』『ウォッチメン』『バットマンvsスーパーマン』これらは全てザック・スナイダー監督作品であり、公開後にいわゆる「エクステンディッド・エディション」がリリースされていますが、そのどれもが劇場版より高い評価を受けています。ザック・スナイダーが超特急でJLの製作を進めていたとしたら、後にこういったエクステンディッド・エディションのリリースを見越しての事だったのかもしれません。

 

 

 

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 以上、JLスナイダー・カットについて総括すると

確実な事 →ピクチャー・ロック、および色調調整、音響効果までは終わっている

不明瞭な事VFXと音楽の進行度合い

つまり、VFXと音楽が加われば、ザック・スナイダーが構想していた本来のジャスティス・リーグは完成することとなります。以上で、この記事を書くのに大いに参考にさせてもらった記事の内容は終わりますが、まだほんの少しだけ重要な続きがあります。

TwitterFacebook、LINEと比べればまだまだ知名度が低いSNSのVeroですが、最近のザック・スナイダーはこっちで活動していることが多いです。そのVeroで、スナイダー・カットのリリースへ向けて積極的な活動を行っているフィオナ・ゼーンさんが例の記事をurlを添付して投稿したところ、なんとザック・スナイダー本人がいいねしたそうです。普通、自分が途中で降板したプロジェクトで、降板までに舞台裏で起こっていた出来事についての推測記事にいいねを贈るでしょうか?監督であるザック・スナイダーが反応を、それも肯定的な反応を示している時点で、JLスナイダー・カットは確実にワーナー・ブラザーズのフィルム倉庫に存在し、それも製作は相当進んでいる状態で眠っているのです。

 

 

最後に

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さて、以下から完全に個人的な意見になりますが……

過去にワーナー・ブラザーズ製作作品において、当初の構想通り製作がかなり進む→諸事情により当初の構想からかなり違う形で完成・劇場公開→のちに当初の構想通りの作品を完成、ソフト化という作品があります。1980年に公開された『スーパーマンⅡ/冒険編』です(奇しくもスーパーマンが重要な役割を担う作品ですね)。詳しくは以下の記事をご覧ください。

スーサイド・スクワッド』でもワーナー・ブラザーズによる大幅な介入が噂されましたが、JLでは署名運動に参加しているだけでも17万人のファンがオリジナルのスナイダー・カットを望んでおり、実際にはもっと大勢の人間が同じ願いを持っているはずです。それだけ大勢が望むのなら、劇場公開でコケてしまったJLを後のソフトリリースで挽回とまではいかずとも、金のなる木をもう一本増やしておくのも悪くない話だと思います。劇場版とスナイダー・カットの2種類が存在すれば、JLを楽しむ幅が広がり、より大勢のファンがDCEUを楽しめるようになりますし。

現在のワーナー・ブラザーズでDC映画を担当する部門はメンバーが入れ替わりましたが、ソフト化及び再製作にどれほどの権限を持つのかは不明です。一度事実上の凍結まがいを行った作品を再起動させるのは当然ながら多額の金と人員が必要となります。それにJLは、興行収入においてDCEU作品群の中で最下位を記録することとなりました。ワーナー・ブラザーズがJLは完全に終わったものとして放棄するのか、それともスナイダー・カットのリリースで挽回を狙うのかは目下全く不明です。

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しかし、一般に向けて発売されるJL映像ソフトに、未公開映像を少しだけ含めているあたり、スナイダー・カットを願う身としては何かを感じます。監督主導で製作→スタジオがラフカットを見る→スタジオ「アカン」→スタジオ主導で再撮影、音楽含めて大幅に作り直し→公開という流れ、実はルーカス・フィルム製作の『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』がほとんど同じ経過をたどっています。そんなルーカス・フィルムは秘密主義でも知られますが、『ローグ・ワン』には未公開シーンを映像特典として全く含めませんでした。

一方のJLは未公開シーンReturn of the Supermanを含めました。じっくりとしたテンポ・MoSでジマーが作曲したスーパーマンのテーマ・MoSを踏まえた展開・スーパーマンとしての復活・最終予告にあったものの本編にはなかったシーン……合計2分程度ながら、特にMoS,BvSと追ってきた方には様々な重要な意味合いがくみ取れるものとなっています。

更に、これは明らかにスタジオが排除したがっていたザック・スナイダー成分100%のシーンです。ワーナー・ブラザーズが一連のDCコミック実写映画化計画において、JLはもう終わったものとしてみなしているのなら、ルーカス・フィルムがしたように、一切の未公開シーンを含めずに「そんなものはなかった」とシラを切ればいいだけの話です。もしくは『バットマンvsスーパーマン』や『スーサイド・スクワッド』がやったように、10~30分程度の未公開シーンを含めたものを「エクステンディッド・エディション」として出すのもアリでしょう。それを、それもわざわざザック・スナイダーによるシーンをティーザー的にちょびっと含めるあたり何か思惑があるのでは、というのは考えすぎでしょうか。

ジョス・ウェドンが大いに手を加えたJLの劇場版のBlu-ray&DVD(通称:円盤)は米国では3/13発売、日本では3/21発売です。スタジオが仮にスナイダー・カットをリリースするつもりでいても、さすがに劇場版の円盤が売り出される前に大勢のファンが待ち望むスナイダー・カットを「リリースするよ!」なんて言うとは思えません。そんなこと言った日には「じゃあ3月の円盤は買わない!」なんてなって売り上げがた落ちですからね。「スナイダー・カット観たかったけど、これでもいいかぁ」なんて妥協して買ってくれるファンも見込みつつ、スナイダー・カットに関しては一切発表をせず、劇場版を販売。ある程度売れたら、その後にスナイダー・カットをリリース……というのがワーナー・ブラザーズが秘密裏に計画しているのではないでしょうか?

現に、このDCEU(DCFU?)で劇場版にカットされたシーンを追加した延長版を販売したケースは4件中2件、『バットマンvsスーパーマン』と『スーサイド・スクワッド』です。ただし、BvSは劇場公開からわずか5日後、カットされたJLに繋がる重要な伏線シーンをYouTubeに公開しており、非常に積極的な動きを見せていました。

また、BvSとSSは延長版が販売されたのは共に、劇場公開からおよそ4か月後、通常の劇場版と同日発売です。JLスナイダー・カットが一般向けにリリースされるのはいつになるのか……

似たようなケースとして先に挙げた『スーパーマンⅡ』ですが、これは途中で降板したオリジナルの監督であるリチャード・ドナーが戻り、監修を務めています。ならば、ファンが望むオリジナルのスナイダー・カットを一番よく理解しているのはザック・スナイダー本人に他ならず、彼の帰還は不可欠です。しかし、彼は愛娘が自殺で亡くなるという悲劇に見舞われており、残された家族とともに療養の時間は必要です。僕はスナイダー・カットは一刻でも早く見たいことは確かですが、家族との時間を捨てさせてまでザック・スナイダーにJLを続けてほしくありません。また、去年2017年10月時点でのザック・スナイダーの活動予定は、

予定としては、次回作の映画のポストプロダクションに入るころになると彼は語っている。その次回作は、元々は『300 <スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜』の公開直後に制作を開始した『The Last Photograph』というドラマになる見込みだ。また彼は、依然として近日公開される多くのDC映画の製作責任者であるが、当面は脚本の執筆や『The Last Photograph』の制作準備が仕事の大部分を占めるだろうと語っている。

しかし、『ジャスティス・リーグ』についてはどうだろうか? ウェドンが引き継いだ際に、スナイダーはスーパーヒーローの団結を有能な人材に委ねたが、彼自身はまだ関わっているのだろうか? 少なくとも目をかけているのだろうか?

そういうわけでもないようだ。映画制作から長らく離れたあとにまた彼が関わることは、「あらゆる点で不公平になります」とスナイダーは語る。「わたしは『ジャスティス・リーグ』にワクワクする立場にありますし、仲間と一緒に喜んでいます。制作に取り組んでいる人々が大好きです。彼らはわたしの家族であり素晴らしい仕事をしてくれていると思います」とスナイダーは語る。「わたしはただ、製作陣には自分の仕事に集中してもらいたいんです」

出典:なぜ映画監督のザック・スナイダーは「iPhoneだけで撮影した」短編作品をつくったのか?

となっています。願わくばジャンキーXLにも戻ってきてもらいたいですが……例えJLのスナイダー・カットを復活させる動きがワーナー・ブラザーズ内にあったとしても、それを目にする日が来るのはまだまだ先のように思えます。

詳しくはまた別の記事に書きますが、僕は劇場版も嫌いではないです。むしろ「ジョス、めっちゃいいシーン撮ってくれたな(*゚∀゚*)=3ムハー!!」というシーンもいくつかあります。しかし、オリジナルのJLは3時間近くもあったとされ、劇場版に色々なものが欠如していると感じた方には十分といえるレベルでしょう。作中で描かれたイベントを適切な規模で楽しむなら、スナイダー・カットがベストであると思います。まずは、3/13まで待って。そこを第一通過点として、とにかく希望を持って待とうと思います。

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色々書きましたがかなりの部分が推測で成り立っており、「そんなわけないじゃん」と思う方もいるかもしれません。なお、その推測は確かなソースなどの証拠から成り立っており、製作に携わった関係者もそれを認めています。ザック・スナイダーや、DCEUに深く携わっており、ザックとは親友の写真家クレイ・イーノスは”Never Compromise”と投稿していました。僕は信じます。

また、ここまで読んでくださった方々の多くは僕と同じくスナイダー・カットを望む方々であると思います、ありがとうございました。そして最後に一つ、お願いがあります。特にSNSをやっている方、是非ともこの記事を、JLのスナイダー・カットの存在を広めてもらいたいのです。署名運動が行われるなど、姿勢が非常に積極的な海外に対して、日本のファンの方々にはこういった「本来こうなるはずだった」JLに関する情報があまり知られていないように思えます。スーパーマン・トリロジーの正当な完結編であるスナイダー・カットを観たいと願う日本のファンの方々にも、この情報は知られる必要があります。

また現在そのスナイダー・カットは具体的にどんなもので、どんなシーンが存在するのか?という記事を鋭意執筆中です。近日中に公開いたしますのでそちらも併せて読んでいただければと思います。

追記:書けました!よろしければどうぞ~f:id:the-Writer:20180225191351p:plain現時点ではリリースされるかはわかりませんが、少なくともオリジナルのJLは確かに、製作がかなり進んだ状態で存在します。ワーナー・ブラザーズからは一切の発表がない中、心細い状況ではありましたが、それだけでもかなりの希望が持てるのではないでしょうか。JLは、スーパーマンと同じくきっと元の姿を取り戻して復活します。あきらめるのは未だ早いです。希望は、生きています。

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SWキャラの顔が変わり過ぎ問題について

こんにちは、最近はSWにどっぷりと浸かっているthe-Writerです。

日本だと米国に先駆けてMCU10年目の集大成『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が4/29に控えており、ファンなら期待だけで正気を失うレベルの化け物作品なのですが……今は何とかSWに集中することで『インフィニティ・ウォー』までの時間を長く感じずに済んでいます(-ω-)

『エピソード8』の感想記事を3本も書いた後なので、今回は比較的軽めな調子でいこうかと思います。ライアン・ジョンソン監督が全力で作り上げたものに全力で挑んだ後というのは心地よい疲れがありますが、疲れは疲れですからねw息抜きは必要です。

 

えー、映画でよくあることと言えば、登場人物の子供時代と大人時代をそれぞれ異なる俳優が演じる……これは当たり前ですよね。とはいえ2人で1人の同一人物を演じる以上は説得力を持たせるため、メインとなる大人の俳優にどれくらい似た子役をキャスティングするかは、作品によって異なります。

そんな現象が頻繁に起こり、更にデリケートな問題と化すのがスター・ウォーズというシリーズです。先ほど挙げた例の如く子供時代と大人時代ならまだいいのですが、たった数年しか間隔があいていない設定なのに演じる俳優、つまり同じキャラクターの顔が微妙に違う……というのもSWではよくあるケースです。更に、前回の記事で述べたようにある程度SWに慣れ親しんだファンとなると、「拘り」というものができてしまうので、自分が良く見知ったキャラクターが新たに違う俳優に演じられるとなると、それに抵抗を示すというケースはよくあること。

ファンの方なら一度は経験したあるあるではないかと思います。ライトなファンや一般客の方ならほとんど気にしないのかもしれませんが、ウォーザーであり、そういう細かいことが気になってしまう性格の僕としてはある程度はケリをつけておきたい問題です。 SWは様々な時代をとびとびに語るので、こういったケースは往々にして起こるんですよねぇ。

 

なぜ今わざわざこれを持ち出したのかというと、これです。

いやあ僕は前からずっと楽しみにしていた一本なのですが、「A Star Wars Story」と銘打たれたアンソロジー・シリーズ第2弾の主人公はハン・ソロ。特に昔からのファンの間では、ルークやレイアと並んで伝説級のキャラクターであります。そんなハンの若かりし頃に起用されたのが、オールデン・エアエンライク(表記は公式サイトに倣いました)。

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そんな彼の顔はファンの間で物議をかもしました。ルーカス・フィルムが行ってきたこういったキャスティングは、もはやSWのお家芸となっている気がしますが、「顔が違う問題」について僕の考えを書いていこうと思います。

 

 

顔が変わってきたキャラクター達

……そもそもこの「顔が違う問題」はそれこそ観客の感性が関わるので、なかなかデリケートな問題ですよね。ここでは僕が思いつく限りで、SWで複数の俳優が同じキャラクターを演じている事例を挙げて観ようかと思います。幼少期~青年期なら、「まあ、こういう成長もありえるかな?」と納得は可能ではあると思うので、あまり顔が変化しないはずの大人の時期で、演じる俳優が異なるケースに絞っていこうと思います。

アナキン・スカイウォーカー, オビ=ワン・ケノービ, ウィルハフ・ターキン, ラーズ夫妻, モン・モスマ, (例外:ヨーダ)……

 これはあくまで実写化作品に限ったものであり、同じ正史(カノン)に属する『クローン・ウォーズ』,『反乱者たち』,『フォース・オブ・デスティニー』といったアニメ・シリーズまで加えると、真面目に考えるのは更に大変になります。設定上は同時期であっても演者が違う・声が一旦変わってまた元に戻る(実写→アニメ→実写と経るので)、なんてケースもあり得ます。

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なぜ顔が違う=役者が違うのか?それは製作上の都合の他なりませんね(身も蓋もない)。

新たに描くのが既存キャラクターの若かりし頃にしろ老いた後にしろ、そのキャラクターを演じた俳優に続投してもらうのがベストです。しかし、SWの場合何十年も前につくられた映画のキャラクターの、それも若いころの姿になるので当然続投はほぼ不可能となるので新たにキャストを雇う必要があります。……とまあ当然のことをつらつらと書きましたが。

そして、その新キャストとはどうやって、なぜ選ばれるのか?これは完全に僕の推測になってしまうのですが……

顔はオリジナルの俳優に似ているか、というのはもちろん重要な点なのですがルーカス・フィルムがそれ以上に重視している点があるように思えます。それは、新しいキャストが演じてもらいたいキャラクターの「本質」を備えているかどうか、という事です。格好良く言えば「魂」を感じさせる演技ができるか、俗っぽく言えば演技がそのキャラクターっぽいか。

たとえば、オリジナルの後に製作されたプリクエルの主人公であるアナキン。オリジナルの悪役であるベイダーとは、恐怖の象徴・威圧的・それでいてどことなく哀愁と葛藤を感じさせるキャラクターでした。そんな彼の若かりし頃の姿にキャスティングされたのは、ヘイデン・クリステンセンというあからさまな美形です。オリジナルから忠実に追ってきたファンが唯一知っていたベイダーの素顔はセバスチャン・ショウでした。

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言ってしまえば、似ていないです。更に、そんなヘイデンの演技は『エピソード2』『エピソード3』を通して、まだ未熟な響きを持つ演技でした。「あのベイダーのかつての姿なんだから、きっとこうに違いない」と「拘り」を持っていたファンの中に、拒否感を持つ方も少なからずいたのではないでしょうか。ファンの反応はともかく、創造主のルーカスにとってのアナキンとは「そういうもの」でした。ヘイデンをキャスティングしたのは、「彼がダークな雰囲気を持っていた」からだそうです。傍に居る観客から見たら顔が違っていても、ベイダーというキャラクターを作ったルーカスは、ヘイデンの中にこそ、のちのベイダーに繋がる暗黒を抱えた若者を見出したのではないでしょうか。ヘイデンはアナキン及びベイダーの「本質」を体現できる俳優だったという事です。

ならば、オビ=ワンに関してもそうです。

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そして、ハン・ソロも。

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ルーカス・フィルムのキャスティングで重視されているのは、本質≧顔という気がします。とはいえ、キャスティング係は作品によって違うでしょうし、常に僕の思った法則通りというわけでもないでしょうが……。顔はそりゃ似ていた方が良い。けど、演技がそのキャラクターそのものなら、顔は大体似ていればいい。

『ローグ・ワン』のターキンとレイアについてですが、製作時にはルーカス・フィルムには「絶対に『エピソード4』につなげる」という固い意志がありました。それは必然的に『エピソード4』の描写に忠実なものになり、ターキンとレイアは最新の映像技術によってほぼ本人という形で再現が可能となりました。

 

一通り例を検証し終えたところで、SWの重要な性質を確かめたいと思います。

SWとは、おとぎ話です。おとぎ話とは史実というよりも伝説に質が近い。つまり、同じ事柄でもそれを伝える口によって異なってしまうことがあり得る……と僕は解釈をしています。SWとは伝えようとしている物語の根底にある本質さえ間違えたりしなければ、作品間の矛盾は存在したとしても、それはおとぎ話として許容される範囲のものであると。

僕がその解釈の裏付けとして挙げたいのが、「SWはバージョンによる違いがある」という例です。たとえばファンの間では有名な『エピソード4』のHan shot firstや、『エピソード6』の霊体アナキンの顔があります。こうした違いはまず、当時オリジナルの劇場版が公開され、後にジョージ・ルーカスが映像をプリクエルに近づけるため、VFXを付け加えるなどして改修した特別篇が製作されたといった経緯によるもの。

2018年2月の現在時点、ルーカス・フィルムは「のちにルーカスの改修を受けた『特別篇』こそがオリジナル」(≒「劇場版は存在しない」)という見解を崩していません。しかし、カノンとされ、SWの大本である『エピソード4』ですらバージョンによる違いがあるという事。

よって、遠い昔、はるかかなたの銀河系で何かしらの物語あるいは史実があった。しかし、それは語り口によって微妙に差が生じてしまう……と捉えることができます。MCUや『シン・ゴジラ』は「虚構のものが、もしこの現実世界に出現したら……」というように、コミックや特撮といった架空の存在をこの現実世界に落とし込むため、その背景となる社会・地理・時間経過なども綿密な設定を行い、極限まで現実世界に近づけ、リアルに見せる必要があります。しかし、SWはそうではありません。

 

また、SWの宇宙は最初からおとぎ話といいますか、フィクションのあそび場として設定された宇宙です。このジョージ・ルーカスが作った宇宙では、真空中で音が鳴り、ミレニアム・ファルコンは光速の1.5倍で飛び、フォースという魔法の力が存在します。SFはSFでも、サイエンス・フィクションではなく、スペース・ファンタジーなのです。ならば、ヘイデン・クリステンセン→セバスチャン・ショウ、ユアン・マクレガーアレック・ギネス、ウェイン・パイグラム→ピーター・カッシング、オールデン・エアレンライク→ハリソン・フォードも起こりえます(断言)。それに、SWは作品間どころか個々の作品内にも数々の細かい矛盾やおかしい点が存在します。ここではこれを読んでいる方の楽しみを阻害しないために、敢えて書きませんが……なので、そういった性質を持つSWは場合によってはキャラクターの顔が違うというケースも起こってしまうし、それは通常路線といっても過言ではないかもしれません(とはいえ、似ていれば似ているほど嬉しいことは確かです)。

 

f:id:the-Writer:20180223231201p:plain正直、オールデン・エアレンライクについて「無理はあるな」とは思いつつ、「まあいいじゃん」と普通に受け入れてます。というか既に好き。結局は個々の好き嫌いによるところです。まだ本編は公開されていないので「いいやこれは○○じゃない」というのは実際に映画を見てからでもいいと思います。それに、作品がどの層をターゲットに向けて作られたのかのもあると思いますし……(それについて語るのは別の機会に)。『エピソード7』以来、「ハン・ソロといえばハリソン・フォードでしょ」と条件反射的に考えるウォーザーとしての地盤が築かれていた僕ですが、『エピソード8』を経てもっと柔軟に行こうと思いました。

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既に、僕の中ではハンというキャラクター像が拡大しつつあります。惑星コレリアに生まれた少年はベケットが父代わり、幼馴染のキーラと過酷な環境を生き抜いてきた。その後、一度帝国に身を置きながらもランドと悪友になり、チューイと唯一無二の信頼関係を築いていき、賞金稼ぎとなってジャバの元で働き、ひょんなことから銀河帝国を倒す戦争にまきこまれる……そういう新しい地盤ができつつあります。まだまだ若く、エネルギッシュなハンが繰り広げる冒険をスクリーンで見たいですね。

 

SWのキャラクターたちにとって顔とは何なのか

まとめると、SWのキャラクター達の顔が違う理由は、

キャスティングの事情(大本の理由)

→①新キャストが旧キャストの演じた「本質」を持っている

→②SWの宇宙では顔つきが変わるような成長が起こりうる

という2通りになります。

どちらかと言えば、①は僕ら観客の現実世界に根差した理屈であり、②は架空のSWの作中世界に根差した理屈であると思います。①,②はあくまで「なぜ顔が違うのか」という疑問に対する答えですので、どうせなのでもう一歩踏み込んだことも少し書こうかと思います。

顔は、キャラクターの内面=「本質」(の一部)を表しているという説を提唱したいと思います。SWにおけるキャラクターは、まず描きたい性格を持ったキャラクターがあり、キャスティングされる俳優の顔や声というのも、その描きたいものを描くための手段となります。言い方を変えるならば、顔があっての内面ではなく、内面あっての顔という事です。顔が、そのキャラクターの内面を表しています。これはフィクション、特にSWというおとぎ話ならではの芸当です。ハンで例えるなら、オールデン=若く無鉄砲な男から、ハリソン=海千山千の不敵な男になっていく、という道のりです。

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初めて『ハン・ソロ』の特報で若いハンの声を聞いた時、「まだ未熟な若者っぽいな」というのが第一印象でした。『エピソード4』に登場した数々の修羅場を潜り抜けてきた既にベテランの密輸業者の声は、低くて余裕も感じさせます。それに対して『ハン・ソロ』で描かれる駆け出しの孤児の声は、夢に向かって溢れんばかりのエネルギー、まだ腰が落ち着いていない若者らしい感じでした。

 

またこの説なんですが、あくまで僕なりの独自解釈のつもりでしたが、考えてみると思わぬ有力な根拠があることに気付きました。先ほども言及した『エピソード6』ラストの霊体アナキンの顔です。劇場版ではセバスチャン・ショウでしたが、特別篇ではヘイデン・クリステンセンになっています。その変更を下した件について、ジョージ・ルーカスは「彼が善人であった最期の瞬間、アナキンは(ヘイデン・クリステンセン演じる)若き頃の姿だったから」という見解です。

↑の映像は、『エピソード7』からのキャラクター・レイのキャスティングについて。監督が述べるところには、重視したのは演技とのことですが。デイジー・リドリーについて、僕は個人的にかなりの適役だと思っていまして。彼女が見せる表情は状況に応じて男らしさと女らしさ、優しさと激しさ、喜びと孤独といった様々な要素が見えるすごいバランスの顔だと思います。まだ2015年当時はその素性が謎に包まれており、彼女自身自分が誰かわかっていないというキャラクター・レイ。その特徴を端的に表した顔を見つけ出したキャスティングは素晴らしい仕事をしたと思います。

 

 

 

以上、SWで同じキャラクターが時代によって顔が違う問題について僕の考えを書きました。確かに人によってはとても気になる個所であると思いますが、僕はそれはそれで面白いかなあと思いますし、楽しみの幅が広がるように思えます。同じキャラクターを異なる俳優がそれぞれ異なる時代の姿を演じることで、面白い相互的な影響が生まれます。アナキンに関していえば、ジェダイのアナキンに後のベイダーに繋がる影を見たり、ベイダーの中にふとアナキンの面影を感じたり……といった具合に。今は『エピソード8』の円盤発売と、未だ”kid”と言われていた若いハンが蘇る6月の『ハン・ソロ』が楽しみで仕方がない日々です。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、SWは

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『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』上映しているうちに書いた感想

なんと『エピソード8』について語る記事が3本目になってしまいました。いつの間にか出来上がってしまった『エピソード8』感想トリロジーはこれにて一旦完結です。ディズニーが『エピソード7』『エピソード8』『エピソード9』のシークエル・トリロジーや、ライアン・ジョンソンが舵を取る全く新しいSWトリロジーについて発表した時、興奮と共に「わざわざ3本も作って利益もガッポガッポか」なんて考えを持っていました(問題発言)(日本の伝統的思想)。しかし、ライアン・ジョンソンが新しいトリロジーについて述べていましたが、「三部作を通して一つのストーリーを語る」。自分でやってみてわかったのですが、ある物語を描くのに必要な規模や話数というのはあるのですね……それを実感いたしました。第1にあたるルークの記事で書きましたが、『エピソード8』感想について元々一本の記事を3幕に分けて書いていたはずでした。

 

しかし、あまりにも長くなりすぎたのでこうしてそれぞれ独立した記事として書いている、というわけです。各記事の文字数をチェックしてみるとおよそ1万字であり、自分でもびっくりしております∑(・ω・ノ)ノ

ここまで僕に感想を書かせるに至るとは、面白いか面白くないかは別として、『エピソード8』は並みならぬものが込められた映画、という証明になるでしょう。では、まず今まで実は述べていなかった僕の個人的な印象や感想を書いていこうと思います。ただ今回は僕の思考や感情が中心ゆえ、まとまっておらずに読みづらいかもしれません……ご了承いただいた上で読み進めてくださいませ

 

 

『エピソード8』感想

f:id:the-Writer:20180212214304p:plain記録として残すために、そして自分に嘘をつかずに正直であるために、これは言わねばなりません。『エピソード8』に関して、正直観る前から期待していたものではありませんでした。これは認めざるをえません。デザイン面ではTウィングとスノースピーダー以外は特に目新しいものはなく、エイリアン種族やカントバイトのカジノ描写もしかり。ファーストオーダーからの敗走劇という全体のプロット、キャラクター達の成長、どれも予想の範疇におさまるものであり、ガツンと殴りつけられるような衝撃は無かったです。前回「一度目の観賞時は『革新』のSWだなと思った」と書きましたが、実は言葉が足りていなかったです。所々に革新的な個所は見受けられるものの、全体としては結局「保守」に落ち着いていた、というのが正確な所です。期待していたアナキンとオビ=ワンやフォースの新たなる側面といったものはなく、スノークとルークは命を落とすという衝撃展開。そういった相対するものが相殺し合い、観終わった後は、例えるなら虚無というような心境でした。それから様々な方の意見や考察を読んでいった結果、作品のどういった特徴が独自で優れているかは、ルークの記事や『エピソード8』が果たす役割といった記事に書いた通りです。

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2度目以降の観賞で、一つ言える事。今作に対する印象を一言でいうなら、「物足りない」。なお、これはあくまで僕が今作に対して抱く数々の想いの一つでしかない事に注意してもらいたいです。また「物足りない」は決して「つまらない」ではない。変な方向に振り切ってそれこそ作品自体を台無しにするよりは全然いいと思います。この「物足りない」という感覚こそ、どことなく保守的なSWだと感じた大きな要因でした。そして「物足りない」からこそ、何度も観たくなるというのもまた事実です。

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プリクエルほど前衛的な、いわゆる攻めたデザインはあまり見受けられないものの、それはあくまで映画の表層的な個所にとどまります。スクリーンに映る舞台は相変わらず隅々までみっちり作りこまれており、スキがありません。今作は前作に引き続き、実物重視で撮ったため、ぎっしりとディテールが詰まっている映像は没入感を約束してくれます。また人物を映し出すカットもこれまでにはなかった新しい角度からだったのも印象的です。

さて、表層的な所から潜って作品の更に深いところ、その根底にあるもの。それは作品自体の構造、込められたメッセージといった類のものです(デザインやカット割りというのはそれを面白く見せるための仕上げなわけですね)。『エピソード8』のそれらがどれほど深いもので、観客の心に訴えかけてくるかは前2本の記事で書きました。

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とはいえ、一つのエンタメ作品として成立しているかどうかはどうでしょう、明言はできないです。『フォースの覚醒』はおおまかな流れは『新たなる希望』を参考にしたうえ、監督がJ.J.エイブラムスだったからこそ一つの起承転結、純粋な冒険映画として成立していました。一度目の観賞は、後述のいわゆるフィルターを抜きにしても、期待していたものがほとんど出なかったからこそ、静かな心境で観ることができた=スクリーンに映るものはとにかくありのままに頭に入ってきました。それによって生じる感情に、エンタメ作品を観た時の純粋な高揚はあまり感じられなかったですね。そもそも、その更に奥というか下の方に、ウォーザーとして築き上げた地盤があり、それが「これはナンバリングサーガとしてどうなの」と訴えかけていたから、あまり楽しいと感じられなかったのかもしれませんが。

2回目は、様々なキャラクター達が試練に直面していくストーリーが何本も並行に展開していきつつ、全ての展開がつながっているというのが印象的だったので、かなり楽しめるようにはなりました。

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そういう風にして作品の根底にある論理を理解したうえでまた映画館に足を運びました。その時には公開前に抱いていた予想や期待、それを裏切られたという気持ちはほとんど消え失せており、割とフラットな気持ち(=一般客の方とほとんど同じ心境)で観る事が出来たと思います。とにかく美しい。『エピソード3』を超えてくるほどの勢いで沢山詰め込まれている印象的な美しいカットの数々。

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スリリングな戦闘シーン。困難に直面しながらもキャラクター達が懸命に前に進み、変化していく様。「失敗こそが最良の師」という教えや、過ちを犯して憔悴しきっていたルークが伝説のジェダイとして復活する展開など、心にしみる作り。ラダス,スプレマシー艦内や、カントバイト、クレイトなど隙なく作りこまれたSWの世界を巡る「エキゾチックな」体験。目には見えないものの、希望を感じさせる結末。僕は『エピソード8』がすっかり気に入ってしまいました。今や『エピソード8』に対する否定的な感情がほとんどないからこそ、スクリーンに映し出されるものを抵抗なく受け入れ、楽しむことができているのだと思います。実際、4回目は心の底から楽しめました。こんなに面白く、素晴らしい映画を撮ってくれたライアン・ジョンソン監督および製作チームには感謝と尊敬の念しかありません。

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プロットの大きな穴として僕が気になっていたのは、「ホルドーがなぜラダス放棄作戦を特にポーに伝えていないのか」という事でしょうか。これは僕の脳内捕捉によるものですが、ホルドーは今や銀河に希望をともすレジスタンスという最後の砦の長です。今までハイパースペースに入れば敵はほぼ間違いなく追手は来れないという絶対領域が侵されたことで、敵がハイパー・スペース・トラッキングという技術を持つ可能性のほかに、レジスタンス内部にファースト・オーダーのスパイがおり、いちいちラダスの座標をリークさせていたという可能性も考える必要があったことでしょう。必要最低限のクルーや、自分が絶対に信頼できる部下にのみ、その作戦を伝えていた……という事で僕は納得しました。とはいえポーに対する態度が必要以上にキツいというのはありますが。また、「主人公であるはずのレイが薄味」という声があります。これは僕もそうだな、と思ったのですが逆手に取りました。「SWは人間たちの群像劇だよ」「これからは誰でも主人公になれるんだよ」と宣言したのが『エピソード8』、と僕は思っています(詳しくは前回の記事をご参照ください)。ならばそれをを宣言した立場上、作品の作り自体がそうなってもおかしくないという事です。つまりレイを主人公として彼女ばかりが強く、おいしい展開ばかりを迎えるのではなく、登場人物全員に必要な尺が与えられ、それぞれが乗り越えるべき試練に立ち向かっていく様子をできるだけシームレスに描いた……それが『エピソード8』であると。平たく言うなら、『アベンジャーズ』のような感じですね。

(↓IMAXポスターをチョイスしたのは単純に僕の趣味です)

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やはり前後編というのは面白いですね。余裕があった時に『エピソード7』を最後まで見てから映画館に足を運んだのですが、『エピソード7』と『エピソード8』はナンバリングサーガでは異例の直結した2作です。お互いに影響を及ぼし合う興味深い2部作であり、とても楽しかったです。まさしくどっぷりとSW漬けの幸せな時間でした(*´ω`*)

ただやはりタイムラグというものができてしまうので、はやくディズニー・ジャパンによる『エピソード8』円盤の発売告知がほしいですね~。物語はシームレスに直結しているものの、同じキャラクターの成長や作品間の描写の変化も面白い。J.Jは非常にオードソックスな印象の映像を撮り、ライアンはより濃く、見事な味わいの映像を撮りました。自宅でこの贅沢な2部作を連続して観られる日が待ちきれません!

 

考えさせられた「好き」の哲学

中国では公開1週目で90パーセント以上の劇場が『最後のジェダイ』の公開を終えてしまったそうです。『ローグ・ワン』との扱いの差が顕著です(全世界興行収入では『最後のジェダイ』は既に『ローグ・ワン』は超えている)。

とはいえ、僕の近辺で『最後のジェダイ』を見に行った7人に直接聞いてみたところ、例外なく「面白かった」と言っていました。彼らの共通点は新規ファン、いわゆるこれまでのSWを一切知らない、あるいはライトなファンであったということ。まだ僕のように確固たる地盤(こだわりや望み)がなかった、ということです。

ここで湧いてくる疑問が「SWは、そもそも映画館にあまり行かないような人が楽しめたらそれでオーケーなのか?」という事です。映画館というのは自宅と違って、巨大なスクリーン、響き渡る音響、ゆったりとしたシート、照明を切った空間、漂うポップコーンの匂い……など、上映される映画に集中できる環境です。これをまとめて「劇場効果」と呼ぶとして、仮に観たのが駄作であってもそれを「面白い」と感じたら、その映画は本当に駄作なのか?という事です。劇場効果によって駄作が傑作という矛盾が生じてしまう可能性があります。

 

 

 

とはいえ、そもそも映画に「これは傑作、これは駄作」と決められるような、絶対的な面白さの尺度なんてあるのでしょうか?映画も広い視点で観れば、芸術に属します。10人いれば感じ方も10通りある、それが人の感性です。そんな人の感性が製作側と観賞側両方に関わってくる映画というものには、絶対的な正解は存在しないという事です(いわゆる絶対主義ではなく、相対主義)。強いて何かしら評価の基準をもうけるなら、どれだけ多くの人を満足させられたか、ではないかと。

そもそも傑作、駄作というのは誤解や衝突を招きかねない言い方です。世間で傑作と絶賛されるものが自分にはつまらないかもしれないし、駄作とボコボコに言われている一本がツボにはまる大好物かもしれない。傑作、駄作という表現を使う分には問題ないとしても、本来はそのまえに「個人的には」という文言が入るのでしょうね。

「SWのように多くのファンが存在するような作品はファンと一般客、どの層をターゲットにして製作すべきなのか」。これに関しては議論がなられるべき議題ですが……前回の記事にも書いた通り、ライアン・ジョンソン監督は彼なりに丁寧に過去の作品(およびそれが好きなファン)と向き合ってくれ、満足度の高い物語を創り出してくれたと思います。慣れるのに時間はかかりましたが、ウォーザーである僕は今作が好きです(とはいえ、僕のようにうんうん考えた上で「やはりだめだ」という方もいると思いますし、むしろそっちの方の方が多いかもしれません)。という事で、映画に関して絶対の正解や見方などあり得ない、と言った後にこう言うのもなんですが、今作はSWの伝統や常識を壊したことでファンを蔑ろにしたように見えながら、実はファンの事も非常に大切にして作られたSWだと思うのです。

そして、どうしてもだめな作品は恐らくファンと一般人、両方からはっきりNOを突き付けられ、それが興行収入というわかりやすい形に数値化されて現れる(ハズ)でしょう。僕としては、一度目はプロット上の穴として気になった点も、二度目は自分なりの解釈を持ってその穴を埋め、滑らかな一本の娯楽映画として楽しめました。もうそれで良い。僕の中で『エピソード8』は傑作、好きな映画、思い出の一本という位置づけにしっかりと収まったのです。そしてウォーザーとしても、これはナンバリングサーガに連なるれっきとした一章として胸を張って言えます。

(あくまで僕の主観で話している事を念頭に置きつつ)僕はどんな面白い映画も、つまらない映画もなんでも受け入れて楽しめる雑食系ではありません。大金を投じて作られ、大いに期待していって「つまらない」と明確に感じるものはいくつかあります。幸い、『エピソード8』はそれには入ることはありませんでした。なぜなら、優れたものが映画の根底にある(と感じる)からでした。ライアン・ジョンソン監督および製作チームが全力でぶつけてきたものに、僕は全力で挑みました。図らずとも、それはファンとしての僕を根幹から揺るがし、結果的により強固な、そしてある程度は柔軟な考えを持たせるに至ったと信じています。

それとも、僕は『エピソード8』が期待に沿う出来ではなかったからと言って、自分自身を無理矢理納得させ、「あれは最高のSWだった」「面白かったんだ」と洗脳しているのでしょうか?例え傍から見たらそう見えても。(結局は僕の主観による話ですが)ぼくは違うと思っています。改めて冷静になったうえで2度目の観賞で、オープニングの高速な宇宙戦で感じたスリル、レジスタンスの兵士の犠牲の悲しみ、スノーク謁見室の緊張感あふれる決戦、ルーク関連の感情に訴えてくるシーンの数々など……これらの感情は作り出せるものではなく、ましてやウソではないはずです。レイアとルークはそれぞれフォースを使って「空を駆ける者」=スカイウォーカーを最後に体現してくれました。

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オクトーの自然は素晴らしく、クレイトのスピーダーによる滑空はのびのびとした感じが良い。純粋に素晴らしいからこそ、心から自然とそういう感情が湧き出てくるのだと思います。

 

 

 スター・ウォーズに対する理想的な姿勢とは

『最後のジェダイ』はファンほど振り回され、ライトな人ほど楽しんでいる……そんな印象があります。この差はいったい何なのでしょうか?SWの特徴として、その世界はとても広大な上に解釈の余地が深い、というのがあります。ファンを続けていると、知識と解釈、それによって出来上がるSW像というのが形成されていくの気がします。「SWといえばコレ!」「SWとはこうあるべきだ」と、これらを「拘り」と書いていきますね。SWについて詳しくなっていくのは結構なことですが、それは時としてしがらみにもなると思います。今回のケースがまさにそれではないでしょうか?ファンの期待とはどこか違う、「拘り」に真っ向から挑むような作りだったからこそ、多くのファンが困惑しました。しかし、逆に「拘り」というのものが一切ライトなファン、あるいは完全な一般人客は普通に楽しむことができたと。

↑引用させていただいたこのツイートに、SWに対する理想的な姿勢の(一つの)答えがあると思います。

ある作品が好きでファンになり、もっと好きになる。そのうち「拘り」ができていく。それ自体は何ら悪いことではないですし、個人の自由です。しかし、SWとなってくると、その世界があまりにも広く、深すぎるのです。万に一つ、もしくはそれ未満の確率で製作側と自分の好みが一致しない限りは、SWに対する過度な期待などはかえって自分を苦しめる可能性があります。それが表れたのが、今回の『エピソード8』でした。今まで積み上げてきた期待を裏切られたからこそある人は衝撃を受けたり、嫌いになったり、そもそもその作品とは何でなぜ好きになるのか哲学を始めたり……。厄介なことに、特に僕のような人間はあれこれ考えてしまうので、作品との適切な距離というのはこれからおいおい見つけ出していくしかありませんが……

SWは何が来ても受け入れる、そんな心意気で観に行くのが良いのかな、とすら今は思います。思えば、SWは根底にあるものは普遍的・人間的なものであっても、表層となる映画としての作風ですら、作品毎にずいぶん違うと思います。というかもう、バラバラです。『エピソード1』から『エピソード6』までのルーカス6部作は、どれもルーカスが深くかかわっていますが、同じようなものはどれ一つとしてないと僕は思います。それはあたかも、三次元空間に様々な方向を向いたベクトルが存在しているといった具合です。太さも長さも方向も、それぞれが全く違う多種多様な矢印が、そのSWという空間に存在しています。

 

 僕がまだSWにハマりたてのころ、実は『エピソード1』のナブーや、『エピソード6』のエンドアなど、正直SWとして好きになれないものはいくつかありました(時間が経って、今ではすっかり慣れて「これもSW」として受け入れています)。今は『エピソード1』から『エピソード6』まで、「はい、これがSWですよ」と言わんばかりに全てバーンと揃っています。多少は「ん?」と思うところはあれど、6作を連続して家のテレビなどで楽しめるようになっているので、その一見してまるで規則性が見いだせない膨大な世界をSWとして、ありのままに受け入れることができます。SWとは、常に受け入れの連続の歴史だったのではないでしょうか?

SWは楽しめればそれで良いと僕は思います。大金を投じ、映画を何作も撮ることで時間をかけて一つの大きな物語を形成していく……それがルーカス・フィルムがとっているスタイルです。その間にできていくSWファンの総数というのは恐ろしく大きく、時間が経つうちに「オリジナル世代」「プリクエル世代」「シークエル世代」というように、世代が形成されていくほどです。そうやって時間をかけつつ、つくられた作品群は世代ごとに作風が違い、更にそれを観て育ったファンたちの好き嫌いは世代によって多少の差異ができます。よって全員を満足させるのはまず不可能なシリーズと言えるでしょう。

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製作側でさえ試行錯誤してSWサーガに新しいものを少しずつ積みあげていっているわけです。この考えが良い、この姿勢が正しい、というつもりは全くないですが、僕はこれからは「これもSWなんだな」と受け入れるような気持ちで臨もうと思います。ただどうしても好き嫌いというのはあるので、そこは無理して変える必要はないですし、個人個人の感性としてむしろ保ち続けるべきです。好きも嫌いも、SWとして受け入れる。「そういうものだ」と。それが、『エピソード8』を経て僕が得た新しい見地でした。 

少々話はそれますが…

…『エピソード8』という前作以上に賛否両論な作品をリアルタイムで観て、大勢の観客の方々の感想を見て思ったことがあります。「肯定派・否定派はそもそも関わらないで良いのではないか」と。両方の意見を熟知するのは余程の熟練のファンか制作側で十分だと思います。僕は今作が好きです。好きだからもっと好きになりたい。感性に間違いというものはありません。好きでも嫌いでも良い。しかし、感性という根本的なものが違うからこそ、基本的に好きな人と嫌いな人とは分かり合えないと思うのですよ。突き詰めてしまえば、同じものをどう感じるかですから。感じる方向が根本的に違うのです。僕は今ひたすらこの『エピソード8』が好きになっています。そして、せっかく好きになっているのだから他の方の否定的な意見にはできるだけ流されず、この感情はずっと保ち続けたいと思います。なぜかというと僕は周りの意見に影響されやすいので、「あのシーンだめだったよな」という声を聞いた後だと、せっかく自分が好きなシーンでも素直に楽しめなくなったり、以前ほど高揚が湧いてこないんですね。それはまるでガラスが曇ってしまうように。 好きな人は好きな人で、嫌いな人は嫌いな人で、それぞれがやりたいようにして自分の感情を深めていけばいいと思います。

気をつけたいのは、(特に作品に否定的な評価を持つ場合に)あくまでその感情は作品に対して向けるべきであって、他人(特に意見が異なるような人)に向けてしまわないようにする事です。自分と正反対の正義を持つ人との議論というものに慣れていないと、不毛な争いになりかねません。作品に対してなら何を思っても良い。しかしそれを頭の中に留めず、誰かに見られる形で残すなら。更に異なる意見を持つような他の人たちに言及するならば、細心の注意を払うべきだなと思いました。好きになる人、嫌いになる人、好きになろうとしてる人……一人一人がそう感じ、それぞれ独立した思考をする人間なのだから作品に対してどう感じるかなどは自由です。だからこそ、そんな個人の自由を侵害しないように気をつけたいですね。 

 

 

 

 

 

最後に、SWはあーだこーだアレコレ語りましたが。結局は「楽しむ」、これに尽きることだと思います。前回の記事に引用したジョージ・ルーカスの発言より、とにかく彼は自分が楽しいと思うものを詰め込むことで、観客が楽しいと思えるような映画を撮りました。SWは元々は楽しむためにつくられました。娯楽です。だから、『エピソード8』や『ハン・ソロ』といったウォーザー達の間に激震が走るような作品が公開されていく今、SWにはまっていく人たちが羨ましく、幸福に思えます。なぜなら事前の先入観といったものが無いまっさらな状態で、純粋な視点でド迫力のSWを映画館で体感し、その世界に入り込めるからです。今やウォーザーとしてたくさんの知識を身に着けた僕ですが、やはり深く考えずに楽しめるのがベストだなぁと思います。SWに関して様々な知識を身に着けたことで、僕は一般客の方のように純粋に無垢な状態でSWを観ることはかなわなくなってしまいました。あれこれ考えてしまいます。もう後戻りはかなわないのです。

だからといって、後悔はしていません。2015年の『エピソード7』を起点とする、ウォーザーとしての濃密な数年は後からでは絶対に手に入らず、唯一無二の楽しい時間だったと確信しているからです。『エピソード8』はSWに対する姿勢を見直し、より「強くなる」ための試練の時でもありました。これからも僕は色々と予想や考察を立てて、作品を見た後は自分なりに何かを見出し、論理を紡ぎ出していきます。僕はそうして僕なりにSWを楽しみ、それはいつか思い出になっていくと思います。

人間は主観的な生き物です。かの著名な哲学者ニーチェは「世の中に事実は存在しない、あるのはただ解釈のみである」と言いました。何かが人の口を通して語られる時、その時点で(言葉を介する時点で)その人のなんかしらの解釈などが入る、という事が考えられます。SWに対して抱く思いが肯定的か否定的かにしろ、語るその人は何かしらのフィルターを通してSWを見、語っていると言えます。そのフィルターを変えられる可能性がより高いのは、フィルターを形作る感情や印象ではなく、論理である、と僕は思います。幸運な事に、最初は否定的な評価をしていた『ローグ・ワン』と『エピソード8』を最終的に受け入れ、好きになりました。これは様々な方の考察を読んだり、自分なりにそれらの作品と時間をかけてじっくり向き合った結果です。

僕は今、自分の考えをここに書きました。僕にとってはただの記録、あるいは備忘録でしかありません。しかし、インターネットに公開している以上それは誰かの目に留まり、その時僕の書いた記事はただの記録以上の何かとなります。できれば、まだ好きではないがどこか諦めきれない、SWのある作品にそんな割り切れない思いを抱いている方を少しでも手助けできれば。視点の幅を広げてもっと楽しむ事につながれば、僕はとてもうれしいです。ファンとして。オタクとして。先に書いた通り、作品や他のファンの方との適切な距離を保ちながら。純粋に「楽しむ」という気持ちは、ずっと持ち続けたいと思います。

 

 

 

 

 

 

Next……?

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スター・ウォーズという物語に、『最後のジェダイ』が新しく続けた1ページとは

僕は、スター・ウォーズが好きです。

 

僕にとって初めてのスターウォーズは、『エピソード3/シスの復讐』。オープニングのコルサント上空戦・ジェダイ・マスターたちが歩き回るコルサントの映像の雰囲気や、アナキンがムスタファーの川辺で火に焼かれるショッキングな映像など……話はさっぱりわかっていなかったにも関わらず、そこで感じた印象や雰囲気などは僕の奥深くにしみこんでいる思い出深い一本なのです。

それからは特にスターウォーズに触れることもなかったのですが、確か2015年初頭だったかYoutubeで偶然『エピソード7/フォースの覚醒』のティーザー映像を見つけました。そこから徐々にスターウォーズに触れていくことになり、ディズニーが再び始めた祭りに乗って、今はこうして僕なりに全力で楽しんでいます。

今ではすっかり胸を張って「SWオタクです!」と言えるようになりましたが(一部ではウォーザーというそうですね)、恐らくファンともなればある程度はシリーズの知識を身に着け、次回作に向けて予想や期待を持つ方もいらっしゃると思います。そういった予想や期待を持ったウォーザーの方々が映画館に足を運ぶと、「( ゚Д゚;)……?!」となるのがシークエル・トリロジーの第2章を担う『エピソード8/最後のジェダイ』ではないでしょうか?実際、僕の方はどうだったかというと映画館から出てくる頃には、打ちのめされて疲れたような感じがしました。それはさながら「どうして言ってくれなかった、ベン……」と打ちのめされた『エピソード5』終盤のルークのように。それからは冷静に『エピソード8』の分析、そして「スター・ウォーズとは何なのか?SWとして何が正しくて、何が違うのか?」といった壮大な疑問まで、時間を見つけては自問自答、一人哲学の日々です。『エピソード8』の監督・脚本を務めたのはライアン・ジョンソン。監督と脚本を一人で務めるのはジョージ・ルーカス以来。彼が撮った一本は、全世界のウォーザーに大きな衝撃を与えたことでしょう。僕にとってはまさしく試練でした。自分が期待していたものが悉く裏切られたことで、僕のSWに対する姿勢、すなわち自分のウォーザーとしての地盤を見直す事になりましたから。結果的に、僕は『エピソード8/最後のジェダイ』を好きになり、SWは変わらず好きですが、SWに対する見地が以前より拡大・確立されることとなりました。

ジョージ・ルーカス、そしてライアン・ジョンソンがいわゆる個人的なモノをSWに込めて撮ったように、ここに書いていくのは解説ではなく、個人的な意見です(前回書いた『エピソード8』のルークの記事も「一つの視点」なのであくまで僕の意見ですね)。今回は『エピソード8』のナンバリングサーガ全体に与えた余波を語っていこうと思います。

 

ライアン・ジョンソンはいかに神話を僕らに近づけてきたのか

ライアン・ジョンソンが『エピソード7/フォースの覚醒』から繋げて語る物語、特にルーク・スカイウォーカーについてのストーリーは多くの観客の予想を裏切るものでした。とある事情から戦いに嫌気がさし、誰にも見つからないような絶海の孤島で粛々と生活を送る世捨て人。その描写の一端から「なぜルークはこうなってしまったのか?」という疑問に対して、僕が出した答えが、前回のルークの記事です。一見突拍子もない意見でも、根拠があって論理的に組み立てられていれば問題ありません。ならば、なぜわざわざルークの負の側面を掘り下げるようなストーリーを組み立てたのか?「オクトーに隠居している理由を導き出すため」「ルークがなにか障害に面していないと、レイたちのストーリーが薄れるから」というのが、僕がその記事で出した答えでした。

しかし僕は、第3の理由が存在するのではないかと思いました。その第3の理由は、『エピソード8』の要所要所から感じ取れるので決して事実無根ではないと思います。それは「ルークを一人の人間として描くこと」、です。

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人間というのは複雑な存在です。善か悪か割り切れるものではないし、身勝手な所も献身的な所もあります。矛盾を大量に抱え込むのが人間ではないか、と僕は思うのです。そんな人間は間違いを犯します。ルークの場合は、自分が犯した間違いの余波があまりにも大きすぎた事、それに伴う自責の念からひっそりと行方をくらましました。

ルークに罪を背負わせたこのストーリーは、『エピソード8』まで続くナンバリングサーガの意味合いを大きく変えます。ライアン・ジョンソンがここまで意図していたのかはわかりませんが、この副作用は偶然にも観客がSWをより楽しめるようにするものでした。どういう事かと言いますと……

オリジナル・トリロジーではルーク・スカイウォーカーという農家の青年が、故郷を飛び出し、仲間との冒険と戦いを通じて成長していく様子を描いていきました。

のちに製作されたプリクエル・トリロジーは、ルークの父アナキン・スカイウォーカーがなぜベイダーという恐ろしい敵として君臨するようになったかを描く、いわば答え合わせ的な作りです。

このSWの創造において始点となったルークはルーカスの自己投影でしたが、『エピソード5』ではその弱さや欠点が示唆され、『エピソード6』からジェダイとして成長し、ひたむきに父を救おうと奮闘する様子から、「キャラクターの一人歩き」が起こっていたと推測されます。アナキンの場合、『エピソード1』では奴隷からの解放、『エピソード2』ではアミダラ議員との禁断の恋とジェダイとしての未熟さ、『エピソード3』ではついに暗黒面への転向が描かれました。この一連の流れ、見方によっては神話的な印象を受け、特に『エピソード3』の暗黒面への転向があまりにも極端な描写だったことから、非現実的=神話的という見方が生まれます。よって、ルーカスが手掛けた6部作は神話という見方ができました。神話だから、物事はたいてい結果的にうまくいく。作品間の多少の矛盾は許される。登場人物たちの心情の極端な変化も許される。

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しかし、『エピソード8』がそれを終わらせたのではないか、と感じます。ルーク・スカイウォーカーはいつでも明るくまっすぐで、下す判断が間違うなんてことはない……と、無意識のうちに作り上げられるような認識を壊したのです。その弱さを徹底して描くことでルーク・スカイウォーカーも、結局は過ちを犯す僕ら観客と何ら変わりない人間の1人であることを宣言した、と僕は感じました。従って、続く他のキャラクター達も全員同じ人間なのです。ルーク・レイア・ハン・チューイ・C-3POR2-D2や、アナキン・オビ=ワン・パドメ・ヨーダそしてパルパティーンでさえも。

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以前の記事で僕は、「ナンバリングサーガはSW作中の銀河の歴史で重大な転換点を切り取ったものである」と述べましたが、更に踏み込んだ言い方ができます。スターウォーズとは遠い昔、はるかかなたの銀河系で様々な人間たちが出会い、別れ、前に進み、一生懸命生きて歴史を作っていく様を描いた物語、という捉え方が可能になるのです。

決して手が届かない神話の人物ではなく、自分たちと同じ観客だからこそより感情移入ができる。より感情移入ができるから、作品がもっと好きになる。

更に、シークエル・トリロジーのキャラクター達は(『エピソード8』でハッキリと定義されましたが)、これまでのルーカス6部作のキャラクターとは違う方向を向いた弱さを持った人間たちです。

どう違うのかというと、6部作はまず物語の「記号」としてのキャラクターです。たとえば、ルーク=主人公,ハン=荒くれもの,レイア=ヒロイン、というように。「弱さ」はキャラクターの味付けでしかありませんでした。

一方、シークエルは「弱さ」が中心になっているキャラクターです(※正確には『エピソード7』で登場したキャラクター達に『エピソード8』が後から「弱さ」を付け加えているので、本来は正しくない言い方なのですが、『エピソード7』の時点でそれとなく示されてはいるので良しとします)。

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レイ=家族がいない孤独,フィン=目の前の困難から逃げる,ポー=状況や仲間を顧みない身勝手さ、そしてカイロは両親からまともに愛を受けられずに育ってしまった人間です。どれも人間だれしもが持つであろう「弱さ」です。また、現時点で過去がさっぱりわからずじまいのスノークでさえ「弱さ」はあるそうで(スノークを演じるアンディ・サーキスライアン・ジョンソンから彼の過去をすべて聞かされているため)。レイは主人公、カイロは裏の主人公というように、そんな彼らが物語の「記号」に割り振られています。このキャラクターたちが主人公になることで、スターウォーズは様々な人間たちが懸命に生きていく物語、という性質を色濃くしているのです。

特にカイロに設定されている弱さとは、意外にも多くの人々に大なり小なりあてはまるものではないでしょうか。これはあくまでシークエルにとどまった例ですが、このようにして自分の持つ弱さを一見どうみてもフィクション=現実ではないSWのキャラクター達の中に見出すことで、より深い所で共感し、物語をもっと楽しむことができる……

シークエルは特にプリクエルやオリジナル以上に観客に近いキャラクター達が動き回る群像劇として描かれます。そのドラマをなるべく新世代である彼らのものにするために、フォースの両サイドの頂点であり、場合によっては両陣営のトップになり得、その強大な力ゆえに新世代の彼らの存在感を薄れさせてしまう恐れがあるルークとスノークは今回命を落とすことになった……ライアン・ジョンソンはそんな意図をもってあの衝撃展開を書き上げたのだと思います。

 『エピソード8』はスターウォーズのナンバリングサーガを神話から人間たちの物語へと引き戻したのではないでしょうか?

 

「これはただの映画だ。観て、ただ楽しむものなんだ。夕日みたいなものさ。そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい。”素晴らしい”って言うだけで充分なんだ」──創造主ジョージ・ルーカスによる、1981年のインタビューの言葉である(※)。『最後のジェダイ』のルーク・スカイウォーカーは、映画の過剰な神格化に疲れ切っていたかつてのジョージ・ルーカスそのものだった。ジェダイや自分に対する幻想を重荷に感じていたルークが「ジェダイは終りを迎えるべき」としたように、ルーカスフィルム/ディズニーは『最後のジェダイ』を以ってこれまでのスター・ウォーズを終わらせたのだ。

※「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」クリス・テイラー(著)、児島修(翻訳)、パブラボ、2015年

出典:【レビュー】『最後のジェダイ』はいかにしてスター・ウォーズの伝説をリセットしたか ─ 「古いものは滅びるべき」

 

上に引用したのは、THE RIVERという主に映画について取り扱うファンメディアの編集長さんによるレビューです。特にルーカスの言葉はいくつかの解釈ができそうですね。神話というのはその名の通り、人を超えた神の荘厳なお話であり、基本的に人の手が届くものではありません。スターウォーズのファン(と人気)が増えるにつれ、神格化つまりSWを神話としてみる視点が成長していきました。

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僕が思うに、SWとは神話である以前に観客と等身大の人間たちの群像劇です。そしてその根底には人間模様がある作品だと僕は思います。その作品を「すごい共感できる、これは人間同士のドラマだ」「とても壮大だ、これは神話に違いない」「メカがかっこいい、これはSFだ」など、どう解釈するのかは観客の自由です。しかし、娯楽作品としてもっと観客が楽しめるようにする大本の土台として。スクリーンに映るのは観客と同じ人間である事を、ルーカス・フィルムは改めて提示したのだと思いました。

 

矛盾こそが、大きな魅力

「衝撃の、スター・ウォーズ」という謳い文句の本作。展開はさることながら、ファンはこれまでのいくつかのお約束が破られていることから「これまでのSWは終わった」「革新的なSW」と評する方も少なくありません。しかし、僕はそこからまた一歩踏み込み、総括して「矛盾を抱えたSW」という意見に行きつきました。

"Let the past die. Kill it, if you have to."

 ↑予告編にも使われたカイロのこのセリフ。一度目の観賞時は過去のSWのお約束や伝統を破るところが印象的だったので「革新」をテーマにしたSWなのかな、と思いました。しかし、様々な方の考察や感想を読んだ上で、冷静にもう一度観た時には逆に過去のSWへの丁寧なオマージュがちりばめられている事に気付く。展開やキャラクターの成長具合も以外に予想の範疇内に収まるのでむしろ「保守」のSWだな、と感じたのです。感想が1回目と2回目でまるで逆ですね。これはいったい何なんだ?!となったところ、偶然見つけた感想でストーンと納得させられたものがあったので以下に引用いたします……

僕的に本作のテーマは「フォース=調和=バランス」だと思っていて。過去のジェダイたちを否定する台詞をルークに言わせて遺物を燃やすものの、この映画シリーズ自体が過去の恩恵にすがって成り立っているものだったり、ヒーロー的行為はダメで命が大事だと言いながらローラ・ダーンの自己犠牲をカッコ良く描いたり、伝説化を否定しながらもラストは伝説が受け継がれていったり、相反する要素をあえて盛り込んで、観客に「矛盾を抱えながらバランスを取ることが大事」と伝えている気がしたんですよね(それが上手くいっているとは言い難いんですが…)。とは言え、これをルークが聞いたら、「素晴らしい、すべて間違っている ( ゚д゚) カエレ!」なんて言われちゃうのカナー (´∀`;) ナンダコレ 

出典:スター・ウォーズ/最後のジェダイ(字幕版、吹替版)(ネタバレ)

 三角締めで捕まえてというブログを運営されているカミヤマさんによる感想ですが、「相反する二つ」を様々な形で盛り込んだのが本作なのだなぁ、と思いました。一応主人公のレイはフォースのライトサイドに属していますが、宿敵のカイロ・レンはダークサイドに属しながらレイ以上の複雑な背景や葛藤を秘めたキャラクターです(すなわちカイロは裏の主人公)。

僕は『エピソード8』はSW史上最高に観る人に優しい作りだな、と思っていまして。これはできるだけ多くの新旧ファンに受けが良い「最大公約数」的な作りだった『エピソード7』とは違う方向の優しさです。『エピソード7』は観客のSWファン的な部分に優しく、『エピソード8』は観客の人間的な部分に優しい作り、だと思います。前述の通り、人間というのは矛盾を抱え、不完全な生き物です。映画そのものを、矛盾を抱えたものとして作り上げてしまうこと自体、そんな矛盾を抱えながらも生きていく人間=観客たちの肯定のように思えるのです。他にも、弱みがある前提のキャラクターたち。英雄とされていた人物でさえ、あそこまで憔悴してしまうこともあるという事。そして何より、「失敗こそが最良の師」という指導者でも間違う事、人間が犯してしまう失敗すらも受け入れ、認める教え。ひたすら希望の素晴らしさも謳う映画もいいですが、このように挫折や絶望、失敗を認めてくれる上で、希望を持てるような結末に仕上げた『エピソード8』は、観客の人間的な部分に優しいということです。

また『エピソード8』が抱える大きな矛盾が、伝統と革新の兼ね合いです。新旧の対決と葛藤、製作側が大きく悩んだところでしょう。『エピソード7』はディズニーが再起動させた新しいSWの幕開けとして、可能な限り多くの観客が楽しめるように馴染み易く、懐の大きい一本でした。もろクリフハンガーな終わり方をした『エピソード7』に続く『エピソード8』は、新世代のキャラクター達にそれぞれ試練を課し、物語を大きく前進させる役割が予想されていました、が。奇しくも『エピソード8』はSW全ての始まりである『エピソード4』公開40周年記念節目の年である2017年に公開でもありました。『エピソード4』から始まったナンバリングサーガは、ルーカスフィルムによって「スカイウォーカーサーガ」と定義されています。『エピソード8』は、『エピソード4』に様々な形で敬意を払いつつ、スカイウォーカーサーガの終わりを暗示し、その枠を押し広げたのです。

『エピソード4』へのオマージュ点

 ・オープニングテーマ

SWはオープニングの説明文が終わった後に短い間奏があり、各作品毎に異なる印象の導入が楽しめます。しかし『エピソード8』は『エピソード4』のものを改めて使いました。どうせなら『エピソード8』独自の間奏を聞いてみたかったですが、これもオマージュの一環なのかもしれません。ポジティブに捉えるなら、『エピソード4』は41年前の作品なので音楽の音質も古く、管楽器の音もそろわずバラけている個所もありますw 『エピソード4』のオープニングの一連の音楽が、現代のキレイな音質でのリプライズで楽しめると思うと少しオトクです。

 

・「嫌な予感がする」

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これは『エピソード4』に限ったものではありませんが「あれ、今回あのセリフが無いじゃん!」と言う方がいらっしゃるので書いてみました。ポーがX-Wingでドレッドノートに向かい合うカットの直後、BB-8が何か言ってポーが「わかってる」、レイアが「私もそのドロイドに同意ですよ」と言います。初見では当然わからないですが、BB-8にこのセリフを当てはめるとしっくりきます。このお約束はしっかり守られていました。

 

・レイアのホログラム

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「いわずもがな」ですが、ジーンときました。R2が疲れ切ったルークを再び奮い立たせる言葉として、掘り出したものです。現在も敵から逃げているものの、まさに危機に陥っているレイア。そして今は隠れているジェダイ・マスターこそが最後の希望である事。彼の冒険の原点であるホログラムを見せ、純粋な心を呼び覚ましたのでしょうか。この粋な計らいにはいやはや参ったという他ありません。

 

・レッスン1

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かつてオビ=ワンにフォースの軽い手ほどきを受けたルークですが、その彼が今やジェダイ・マスターとしてフォースの手ほどきを授ける立場です。その時、座禅を組んだレイに説いたフォースの説明がオビ=ワンに教わったものを受け継いでいるのです(その後「万物の間にフォースは流れている」という説明はヨーダから教わったものですね)。

 

・アナキンのセーバーの光刃の出し入れ

レイがアナキンのセーバーを使って自主訓練を行い、岩を切り裂いてケアテイカー達を困らせるシーン。岩場からアッチャー……と感じにケアテイカー達を見ながら光刃を収納する時、『エピソード4』でルークが起動スイッチに触らずに光刃を出し入れしたのと同じ描写に見えました(まだ確証が無いです……)。どういう事かと言いますと、1977年はまだ設定が固まっておらず、2015年になって明確に描写されたのがアナキンのセーバーの起動スイッチです。

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セーバーの刃が出る口の付近に二枚板状の突起があり、その後ろに赤いスイッチがあります。それが起動スイッチです。タコダナやスターキラー基地でフィン、レイは共にこれを押して使いました。なお、オクトーでは敢えて『エピソード4』の黄色いモールドが入ったボックス付近に触れて刃を収納する方式が描かれていました。細かい演出です。

 

・カイロのTIEサイレンサースピン

カイロが専用機のTIEサイレンサーに乗り、レジスタンス旗艦ラダスに追撃をかけ、スピンをかけた攻撃時。中で操縦しているカイロもクルクル回るカットは、デススターで味方機にトレンチからはじき出され、なす術なくスクリーンでクルクル回るベイダーのオマージュです。

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また、攻撃時に機体をスピンさせるのは『エピソード3』のコルサント上空戦で彼の祖父にあたるアナキンが搭乗するイータ2をスピンさせた事を思い出させます。このシーンは『エピソード3』『エピソード4』で描かれたカイロの祖父のリプライズを一挙にやっているのですね。

 

・レイアのブラスターのスタンモード

『エピソード4』でレイアに使われた青いリング状のスタンモードですが、映画で登場するのは実はそれ以来だったそうです。

 

・クレイトでのファルコンチェイス

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ポーグがやかましいクレイト地下のファルコンチェイス、オープニングと同じく『エピソード4』の有名曲のリプライズでした。デススターから脱出したファルコンを4機のTIEファイターが追撃した際の音楽ですが、現代版らしく重低音を思う存分響かせるのがまた良い。自然が作った曲がりくねった立体迷路内を飛び回ることも併せて考えると、旧スターツアーズも思い出されますね。彗星に突っこむところと第3デススター攻略を合わせた感じですが、その旧スターツアーズの精神がナンバリングサーガに組み込まれていると思うと嬉しいです、楽しみが増えました。

 

・ルークのたどった結末

老いジェダイマスターが自分と決着をつけに来た暗黒面へ堕ちた元弟子と戦い、次世代に希望を託して自身はフォースと一体化する……こうして文字にすると、オビ=ワン対ベイダーにも、ルーク対カイロとも捉えられます。やはり展開自体は非常に似通っているのです。SWには過去作へのオマージュ含めた過去作の美学、というのがありますが『エピソード8』ではただの「繰り返し」に留まらない展開につなげました。

 

・双子の夕日

いわずもがな、ですね。SWは並べられてみると「あっ同じ構図だ」と気付かせられることが多いのですが、今回は初めて、何もせずともオリジナルのシーンが重なりました。このシーン設計はルーク・スカイウォーカーの完結を担うため細心の注意を持って行われたからでしょう。禅を組んでローブをはためかせ、オクトーの美しい双子の夕日に臨むジェダイ・マスターの背中に、僕は確かにタトゥイーンで広い銀河に思いをはせる19歳のタトゥイーンの農家の少年の姿を見ました。オビ=ワンが望んだようにはなれなかったかもしれない、オビ=ワンのようになれなかったかもしれない。それでも最後の彼は心安らかに、希望の火を受け継いでこの世に別れを告げたのだと思います。

 

サーガの流れを終わらせた点

・R2と3POの出番はカット

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感じ方は個人差あるとは思いますが、あまりスクリーンに登場しなかったように思います。次作の『エピソード9』でも今回以下の出番か……やはりルークと同じく新世代の物語に集中するためでしょうか。また、今回でこのコンビはまたしても主人に先立たれてしまうことになりました(´・ω・`) ドロイドの悲しき宿命ですね。

 

・アナキンのセーバーの破壊

親に捨てられた孤独を抱える似た者同士のレイとカイロでしたが、決別に終わります。その際ついに破壊されてしまったアナキンのセーバー。思えばクローン大戦の時代からアナキン・スカイウォーカーが使い、その後世代を超えてルーク、レイに受け継がれてきた重要な遺物でした。

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その「お下がり」の破壊は、レイの自立(後に新しいセーバーを作る?)、そしてスカイウォーカーサーガの終結を暗示します。そういえばその少し前のスターキラー基地での戦いでも似たような状況が発生し、セーバーはレイを選んだかのようにその手に収まりましたね。今回はセーバーがレイとカイロを選び切れなかったのか、真っ二つに割れました。

 

ライトセーバー戦が存在しない

一応終盤のクレイトでのルーク対カイロがありますが、あの時のルークは幻影です。一応ライトセーバーの使用者同士がセーバーから火花を散らして戦うもの、と定義すると今作は史上初それが存在しませんでした。

 

・アナキンとオビ=ワンの皆勤賞、ついえる

前作ではアナキンは一応遺骸という(不本意な)形で出演しており、オビ=ワンはレイが観たビジョンに「レイ?これが君の最初の一歩だ……」とささやきかけていました、が。今回はまさかの欠席……(´・ω・`) 導き誤った弟子が暗黒面に堕ち、ジェダイ・オーダーを破滅に導いたという点で、アナキンとオビ=ワン/ベンとルークは共通しているのでかつてクローン大戦の英雄でもあった師弟に来てほしかったですね……オビ=ワン、なぜあなたはタコダナのレイに向かってあんな意味深なセリフを囁いたのですか

 

・回想シーンが登場する

時系列的にはプリクエル→オリジナルなのですが、製作順はオリジナル→プリクエルです。オリジナルにプリクエルの回想シーンが挟み込まれることは勿論ないですが、オリジナル製作時点でプリクエルの時期を当時のキャストで撮った回想シーンすら撮られませんでした。そのルーカス6部作に続く『エピソード7』ではフォースによるヴィジョン、という形で「ナンバリングサーガでは回想シーンは使ってはいけない」という暗黙のルールは守ったことになります。『ローグ・ワン』では回想シーンが登場しましたが、あれはアンソロジーでした。

なお、『エピソード8』ではついに回想シーンが使われ、更に個人的に最も使ってほしくなかった形で使われてしまいました。

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それは、「ウソ」です。過去の出来事を語るとき、視点によって語り方が違うのは往々にしてあることですが、場合によっては事実と異なるウソだってありえます。更に、それを映像として見せられてしまうと観客にはもう疑いの余地がないんですね。しかし、『エピソード8』はただ過去を描きたいというだけで初の回想シーンをはさんできたのではなく。黒澤明監督による『羅生門』へのオマージュとして、語り手が交互に変わる計3回の回想シーンをはさんだそうです。『エピソード4』にように黒澤明監督への敬意をこめて撮られたのが、この回想シーンなのですね。

 

・レイはスカイウォーカーではない(現時点では)

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心の奥底でもう自分が待つ家族は戻ってこないことをわかっていたレイにとって一番つらい事。それは両親が名のある誰でもなく(=自分を確立するアイデンティティが無い)、その両親はもう戻ってこれない所に旅立ってしまった事でした。すなわち天涯の孤独。前作で強いフォースの素質を示してスカイウォーカー関連の血筋を匂わせた彼女でしたが…… ルーク「素晴らしい、全て間違っている」ファン「Noooooooooo」

スカイウォーカーではない者=一般人が今や主人公なのです。

 

・ラストシーン

初見の僕は、少なからず戸惑いを覚えていました。今までのラストカットはスクリーンのどこかに必ずスカイウォーカーが映っていたので、その伝統を何となく感じ取っていたファンの方々は「あらっ」と思われていても全く不思議ではありません。なお、最終的に納得した僕の考えを、流れを追いながら書いていきます。

ルーク・スカイウォーカーはついに銀河の表舞台から去ってしまいました。なお、自由を求めて戦うレジスタンスは人数を大幅に減らしたものの、今一度より強くより大きくなって復活することが示唆されます。密輸船だったファルコンはレジスタンスを乗せ、希望を胸により明るい未来へと突き進んでいく……という感じで主人公たちの出番は終わります。さて、画面が変わるとそこはカントバイトの厩で働かせられている少年たち。その言葉は観客にはさっぱりわかりませんが、どうやらジェダイ・マスターのルークの活躍についてお話している様子。今一度、改めて「伝説」という役割を引き受けた彼の行いは、確かに銀河各地に種をまいたようです。その後、その部屋から追い立てられたテミリ少年は寒々しそうな厩でさりげなくフォースを使って箒を手繰り寄せます。元々「フォース感応者というのは銀河各地に生まれる」という設定です。それがこれまでの映画で描かれたかどうかは少しあいまいなので、改めてそれが提示されたことになりました。そんな彼が星々がきらめく夜空を見上げると、一条の光の筋が走り抜けます(ファルコンでしょうか?)。先ほど2人のレジスタンスに指輪と共に、立ち上がる勇気と希望をもらったテミリ君のその顔には、明らかに希望と夢が宿っています。これからの道を切り開いていくかのように、小さな箒をジェダイライトセーバーを持つように構える彼。ルーク・スカイウォーカーは伝説として、希望として、そしてフォースとして人々の中に生き続けます。テミリ少年も例外ではありません。目には見えませんが、確かにテミリ少年の中にルークがいる。ルークが受け継いだ希望は新しい世代に受け継がれ、新しい物語を作っていく……そうして僕は、あのシーンは『エピソード8』のフィナーレに相応しいという事で納得しました。

 

 

『エピソード8』は過去を終わらせたのか?

上にようにわざわざ『エピソード4』へのオマージュと・過去の伝統を破った点をそれぞれ列挙しましたが、その前に書いた通り『エピソード8』が抱える数々の矛盾の一つです。よって僕が出した答えは、過去に敬意を持ってお別れの意を告げた……という事です。これは過去に固執するわけでもなく、切り捨てているわけでもないということを留意してください。

先ほど述べたラストシーンについて。「誰でもない」テミリ少年がこの映画のラストを締めくくるというのは、ナンバリングサーガ全体で見ると極めて異例の変化球です。そんなラストシーンがなぜ『エピソード8』にふさわしいのかは先ほど述べた通りですが、「誰でもない」少年に重要なラストを任せたのには理由があると思います。

『エピソード8』は登場人物たち全員を、「何かしらの弱点があり、何かしらの動機があって動く存在」=「観客と同じ人間」として描きました。ならば、今までオリジナルやプリクエルでは脇役だったスカイウォーカーでない一般人たちも、これからは主人公になれるのです。

アナキン・スカイウォーカーは「選ばれし者」として、「フォースにバランスをもたらす者」として強大なフォースの素質を秘めて誕生しました。それはジェダイ・シスの枠組みを超えた超然とした存在になるはずでした。ですが彼は人間として生まれ、愛を知りました。それゆえ、自分よりはるかに邪悪で狡猾な存在に付け込まれ、もてあそばれ、傀儡とされてしまいました。スカイウォーカー=強大なフォースの持ち主、という図式はそのままSWという物語を語るときに、何となくスカイウォーカー=主人公という認識や伝統を生み出すに至ります。

前作でレイの秘めるフォースの資質について様々な意味深な伏線が張られましたが、今作でそんな彼女は別にスカイウォーカーでもなく、特別な血筋に生まれたわけでもない。平凡……というのは流石に語弊がありますが。その生まれながらに持つアイデンティティは何ら特別なものではなかった、という事が描かれてしまいました。そのレイが主人公という事は、もうスカイウォーカー=フォースにバランスをもたらす者≒主人公、という役割はアナキンの時点で終わっていたという事です。続くルーク、レイア、ベンは血筋に付きまとう宿命に縛られずに自由に生きていても良かった。ルークは反乱軍の一員として、ジェダイとしてベイダーをライトサイドに呼び戻したり帝国の崩壊に大きく貢献しました。一見フォースの意志のように見えたのは、ただルークが自分なりの人生を自分の意志で「それが正しいんだ」と信じて、一生懸命歩んできた軌跡でした。

しかし、ベンに関しては生まれたその瞬間から、彼を囲む状況が自由に生きることを許さなかったのではないか……と思います。いずれベン・ソロについては記事を一本は書きたいのですがここでは割愛します(←重要な説明なのに?!)。銀河内戦終結後も忙しい「英雄」の両親のもとに生まれたことで、その両親からまともに構ってもらえず、更に「英雄」という肩書が重くのしかかってしまった……とにかく総括すると、彼の場合は、スカイウォーカーの血筋がマイナスに働いてしまったように思えるのです。

『エピソード8』はスカイウォーカーだからといって頑張らなくても良い、自分には何もないから何にもなれないわけじゃない……そんな対比が僕には読み取れました。それに加えて、前述の明確に弱さが設定された続三部作のキャラクター達、そして「失敗は最良の師」「師は、弟子が超えていくためにある」という教え。オリジナル、プリクエルと経てきたSWは、また違った方向に濃く、僕ら観客の心に訴えかけてきます。先ほど書いた通り、ナンバリングサーガとはスカイウォーカーサーガであり、スカイウォーカーの血をひくベン・ソロは裏の主人公として、『エピソード9』でも物語の中心にあり続けることでしょう。しかし、それに対する主人公側はスカイウォーカーましてやフォースを使えなくても良いのです。少し飛躍した言い方になりますが、SWの冒険に参加する敷居は低くなりました。これからは誰でもそこに飛び込み、主人公になる事だってできるのです。

 

僕はむしろ、『エピソード8』はできる限りの過去作への敬意を持って作られたと思います。しかし、一方でシークエルの第2章として新しい世界あるいは流れを打ち立てる必要がある。いつかは過去とはお別れをする時が来る……。その中での敬意です。

なぜ僕が「ライアン・ジョンソンは過去作への敬愛を持って『エピソード8』を撮った!」と言い切れるのかというと、ヨーダのシーンなのですよ。ファンの方ならピンとくると思いますが、霊体として戻ってきたヨーダは、プリクエルのVFXで生き生きと動く姿ではなく、オリジナルのパペットのぎごちなさと温かみを持って、改めてルークを導きました(時系列で見てもVFX→パペット→パペットなら流れがスムーズですね)。また、なぜアナキンとオビ=ワンは戻ってこなかったのか。追い詰められたルークの元に父が戻ってくるのは何らおかしくないですし、弟子が暗黒面に堕ちたという点ではオビ=ワンと通じるものがあります。しかし、ライアン・ジョンソンが(オビ=ワンについて)語ったところによれば、「ルークはユアン・マクレガーのオビ=ワンとの交流が無い」とのことでした。確かにそうです。ルークはあくまでアレック・ギネスの顔をした老いたオビ=ワンの弟子なので、ユアン・マクレガーのオビ=ワンに導いてもらうというのはどこか違和感があります(それでも僕はプリクエルとオリジナルの交差点として見たかったですが……)。よってアナキンとオビ=ワンではなく、オリジナルのヨーダをルークと引き合わせたシナリオは結果的に、見ていて何も違和感なくしっくりくる映像に仕上がりました。アナキンとオビ=ワンをわざわざ選ばなかった点や、前回の記事で説明したルークの人物像が過去作の延長線上にある点。それこそ、僕がライアン・ジョンソンが過去を葬ったりないがしろにしていることは無い、と感じる根拠です。

『エピソード4』へのオマージュと、これまでのナンバリングサーガの伝統を絶った点。決定事項としては物語全体は希望がある方向へ向かう事。そしていつかは過去とは決別をつけなければならなかった、という点でしょう。僕にはまるで、『エピソード4』(過去作)というインクで新たな物語を描き出したように思えます。

ファルコン内で、フィンが昏睡状態のローズにかぶせる毛布を引き出しから出すときに一瞬見覚えのある本の数々の背表紙が映ります。ヨーダが夜のオクトーの島で、フォースの木もろとも燃やしたと思われた聖典の数々は実は新世代のレイの手で持ち出されていました。よく数えてみるとその数は8冊あるそうです。非常にさりげなく、気の利いた形で『エピソード8』の過去に対する姿勢が表れたシーンでしょう。

 

 

 

これは完全に余談なのですが……先ほどエピソード1~9からなるナンバリングサーガは多層的な解釈ができる大河ドラマである、と僕は書きました。最近新たに気づいたのは、プリクエル=ジェダイの末期,オリジナル=シスの末期という見方です。ジェダイとシス、フォース信望者における象徴的な集団であり、対極の立場に居ながらどちらも1000年以上は続いています。ならば、シークエルに属する『エピソード8』でルークが述べた「ジェダイは私で最後にはならない」(←若干意訳しました)では、またしてもフォースのバランスが崩れ、再び(ジェダイとシスのイタチごっこ)歴史が繰り返されるのではないか、という懸念があります。実際、これを示唆するようなセリフが2015年9月に発売された小説『アフターマス』にあるのです。

しかし、同じく『えピソード8』で明かされた(裏)設定として、最初のジェダイ寺院であるオクトーの孤島には、あるレリーフがあります。それは最初期のジェダイたるプライムジェダイ。旧,新共和国時代に存在するジェダイ・オーダーのようにライトサイドのみを扱うのではなく、ライトサイドとダークサイドの両方に通じる存在だったそうです。前回の記事で、「ジェダイは今後ただライトサイドに傾倒した存在ではなくなるかもしれない」という予想をたてましたが、思わぬ形でこれが当たるかもななどと思っています。現時点のシークエルの展開自体は光と闇の戦いで、未だにルーカスが手掛けた6部作と構図は何ら変わっておらず 、悪く言えば二番煎じ止まりです。思わぬ形で『エピソード9』を手掛けることになったJ.J.エイブラムスですが、シークエルトリロジーが過去の二つのトリロジーとどう異なるから特別な意味合いを持つのか、9部作全体にどのような結末を迎えさせるのか。全ては彼の手にかかっているのです。

ちなみにR2-D2には今後個人的に興味深い役割(を果たす可能性)が残されています。

スター・ウォーズR2-D2の記録がウィル銀河史に収録されたものである

「ウィル銀河史」は、「草案や小説版の冒頭でちょっと触れられているだけの裏設定」ではありません。実はスター・ウォーズのストーリーを理解する上で、「ウィル銀河史」の上記の文章は重要な意味を持っているのです。
では、「ウィル銀河史」とは何でしょうか?
これは実は、長い間、わかりませんでした。何かよくわからないが、スター・ウォーズの話は「ウィル銀河史」に書かれているらしい。そんな位置付けでした。しかし、近年、少しずつその謎が明らかになりつつあります。
まず、ウィル銀河史とは、銀河で起こった重要な出来事を記録している歴史書のようなものらしいということ。そして、R2-D2が記録した情報が「ジェダイの帰還」からおよそ100年後にウィル銀河史に書き加えられたということがわかっています。
これらは「シスの復讐」のメイキング本におけるジョージ・ルーカスへのインタビュー等から明らかになったものです(今後設定が変更になる可能性はありますが、少なくともルーカスはそのように考えていました)。

出典:「ウィル銀河史」とは?

そう、R2-D2はナンバリングサーガで皆勤賞に加え、3POと違いこれまでの記憶をすべて持ったままなのですよ!いうなればスカイウォーカーサーガの生き証人。『エピソード8』の34ABY時点で67年は稼働している事に。また、上に引用したウィル銀河史についてもう少し知りたい方は引用元へ飛んでくださいませ。ウィル銀河史は原語だと"Journal of the whills"。実は『ローグ・ワン』でチアルートとベイズが「ウィルズの守護者」、ウィルズが何かはわからないもののウィルズ自体はカノンに組み込まれているのです。ウィルズというのはジェダイ以上にフォースと強いつながりと知識を持つ集団であり、銀河の歴史に関して半ば傍観的な達観的な立場をとっている……と推測できます。なお、銀河帝国ジェダイと共に粛清を受けたようですが。

ここでは説明は割愛しますが『エピソード9』でスカイウォーカーサーガ、すなわちナンバリングサーガは一旦完結を迎えるとされています。ここからは妄想ですが……『エピソード9』のラストシーンはR2-D2が寺院らしき薄暗い部屋で机に向かったフードをかぶった何者かにしきりに電子音を発している。その人物は「話は分かった、詳しくはまた後で聞かせてもらえないか」と言い、R2と共に部屋から立ち去る。机上の紙に書かれたオーラベッシュが示す題名と目次は「ウィルズ銀河史」「エピソード1/ファントムメナス、エピソード2/クローンの攻撃……」\Directed by J.J.Abrams/

とはいえ、以上に書いた『エピソード9』の予想は全くあてになりません。なぜなら、ライアン・ジョンソンが語るところによれば、ルーカス・フィルムはトリロジー全体の話の流れをあらかじめ決めているわけではなく、各作品を担当する監督にそのストーリーの方針を完全に委任する方針だそうです。『エピソード8』では『エピソード7』で思わせぶりに張られた伏線の数々が盛大にぶん投げられたことから(←言い方に問題あり)、次作の監督が今作の要素を丁寧に拾ってくれる保証は全くない。だからこそ予想がつかず、各監督によって仕上がりが違うSWを楽しめるという事でもありますね。

 

 

 

 

 

 

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(↑Earthdownfall72氏による作品です)

以上、僕が感じた『エピソード8』がナンバリングサーガにもたらした影響などに関する意見でした。自分では納得いっている考えなので、今は『エピソード8』はスムーズに楽しめるどころか、過去作もまた少し違った見方で楽しめるようにもなりました。一作また一作と撮り、気付けば壮大な規模に成長した現代のおとぎ話、スター・ウォーズ。新しく積み重ねられていく毎にサーガ全体に新しい意味合いを持たせたり、また違った解釈を可能にしたりと、見ていて非常に興味深い成長です。とても奥が深いこのシリーズはこれからもまだまだ深く、そして広くなっていくのでしょう。

最後のジェダイ、過ちと希望

 

お久しぶりです、the-Writerです。

気付けば2018年に入り、あれだけ待ち望んでいた『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』は公開され、日本では『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』が6月29日に公開決定いたしました。

ルーク・スカイウォーカーの如くふらっとブログから離れ、なぜ何の音さたも無かったのか?それはシンプルに「書きたい!」という情熱が湧いてこなかったからです。僕はあくまで楽しむためにブログに記事を投稿しているだけなので、読者が待っているんだ……!と、仕事のような気持ちで書くのはできるだけ避けています。「趣味を義務感でやるのなら、そこでやめた方が良い」どこかでこんな言葉を見た事があります。あくまで娯楽としてのブログ。これからもこれを心がけていこうと思います。

 

さて、今回はついに観てきました『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』の感想……の一部です。まだ手元にBlu-ray,DVDといった円盤が無い状態で不安はありますが、書いていこうと思います。その一部とは何か?

ルーク・スカイウォーカーについてです。

 

 

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『エピソード7』ラストでレイがかつて彼の、彼の父のものだったセーバーを差し出し、レイはルークを万感の思いで見つめ、ルークはやさしさと葛藤が要り混じった(『エピソード7』脚本より)瞳でレイを見ている。さあ、ここからどうなるんだ?というところで『エピソード7』 は幕を閉じ、次作へと続きました。

『エピソード8』序盤でオクトーの美しい島が映し出され、『エピソード7』 から引用した不思議な音楽が盛り上がったところで、まさかルークがぶっきらぼうにセーバーを後ろにポイ捨てするとは、まさか誰も夢には思わなかったはず。その姿は動乱の世に嫌気がさし、すべてを捨て、すべてから逃げだした世捨て人そのものであり、過去の若かりしころの栄光の姿とは対照的に落ちぶれ、すさんでいました。

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レイに修行を施すのはR2の奇策ともいえる機転から、レイに修行を施す事にはします。「レッスンは3つだ」という宣言から始まった修行ですが、その最中のちょっかいは意味不明で、どことなく雑な印象を受けます。

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(↑「そう、それだ、それがフォースだ!wwww」草ヒラヒラ)

 

 

『エピソード7』を観た観客の予想や期待の真逆を行く人物像に、恐らく多くのファンが混乱した事でしょう。僕が彼について立てていた予想は、

オクトーに引きこもったのは、恐らくフォースにかかわる重要な手がかりを求めて。『エピソード6』から30年、様々な経験を積み、知識と貫録を兼ね備えたジェダイ・マスターとして新世代のレイを指導してくれる……機は熟したとして、再び緑の光刃のセーバーをその手に握り、レンの騎士団、もしかしたらスノークと頂上決戦を演じてくれる……

と思っていました。中には「こんなのルークじゃない」と拒否した人も少なからずいたのではないでしょうか?何を隠そう、僕もその一人で、あの楽観と希望の象徴のようなキャラクターだったルークが全体的に哀愁漂わせ、しかもどこか嫌味ったらしいジェダイ・マスターであり、その印象を観客に与えたままその生涯を閉じてしまうというのは非常に抵抗がありました。

 

しかし、僕は一旦時間を置くことにしました。じっくりと徐々に彼のキャラクターを理解しようとしていき、様々な考察を読んだ結果、「あ、やっぱり彼はルークだったんだな」と、ようやく受け入れることができました。『エピソード7』を観た観客の「期待」したルーク。正直「期待」の方が、王道で観客の観たいものに寄り添っており、僕もそっちが見たかった。はるばる訪ねてきたレイに、老練の賢者ルークが「今までこうして籠っていたのはフォースの更なる訓練と探究のため……今こそ君を立派なジェダイにし、スノークを倒して銀河に平和をもたらそう!」と頼もしく言い切ってくれた方が良かったです。ですが!敢えてその真逆のアプローチでルークを描き切ってくれたライアン・ジョンソン監督の心意気には拍手を送りたいですね。

『エピソード8』を楽しみにして観に行き、「何か違う」「裏切られた」という感想を抱いた方がこれを読んでおり、何か新しい「ある視点」に気付く手助けにもなれば、と思います。

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なぜ最終的に今作で描かれたルークの人物像、そして彼がたどった物語の結末に納得させられてしまったのか。それは、ジョンソン監督の描き出した「その後のルーク」は、地盤(基礎)となったオリジナル・トリロジーのルークとつながっていたからです。ルーク視点で述べるなら、『エピソード8』は『エピソード6』の直系の続編です。

というわけで、『エピソード8』でようやく明かされたニュー・ジェダイ・オーダー崩壊の真実に焦点を置いて、僕なりの考えを書いていこうと思います。ライアン・ジョンソンが今作のストーリーを考える時、まず取り掛かったのが「なぜルークはただ一人、オクトーの孤島に隠れていたのか?」という謎に答えを出す事、だったそうです。よって今作の核ともいえるこの重要な転機をいかに解釈・紐解くかで、ルークの人物像と今作全体に対する印象や評価は大きく左右されると思います。

 

エンドアの戦い~ニュー・ジェダイ・オーダー崩壊のルークがどんな日々を送っていたのか、自分の考察(実質妄想)を描きたいのですが、あまりに長くなりそうなので泣く泣くカット(´;ω;`) ジェダイとして一人前になり、独り立ちしてジェダイの遺物や知識を求めて銀河中を奔走するルークについて考えるのは結構おいしいのですが……

その代わりとして、以下に STAR WARS/スター・ウォーズ 情報考察Blogさんの記事を2つばかり引用させていただきます。記事を書かないときはちょくちょくチェックさせてもらっては「ほえ~」と言っておりましたw

 

さて、本題のそれ以降のお話です。『エピソード8』劇中のルークの証言によれば、彼は自分と集めたフォース感応者の弟子たちしか知らない場所に新しいジェダイ寺院を作り、そこで訓練の日々を行っていました。そしてある日の夜、弟子たちが寝静まった時間帯にルークはベンの小屋を訪れ、フォースを通じてベンの心を読み取ります。その時に感じたのは、想像を絶する巨大な闇であり、彼の脳裏には「このままでは自身の愛するすべてが破壊される」という恐怖か、はたまた本能の声が浮かびます。ルークはその手に愛用のセーバーを握り、緑の光刃を起動させてしまう……

ここでルークの心情の分析に大きな手掛かりになりそうなのが、ベン視点の回想です。ふと夜中に眠りから覚めたベンに向けて、ルークが鬼気迫る表情でセーバーを構えていたこと。とっさにベンは手元に引き寄せた自身のセーバーでルークに対抗しつつ、小屋をフォースで崩落させてルークを撃退することに成功しました。ルークの鬼気迫る表情、特に殺気で見開かれた目を、過去のどこかで観たことありませんか?

 

まず『エピソード5』では、マスターであるヨーダやオビ=ワンの助言を無視して「友達を助けなければ」という本能に従って単身ベスピンのクラウド・シティに向かいました。そこでベイダーに心身ともに叩きのめされましたが、それが後のベイダーに匹敵するほどの実力を身に着ける修行の強い動機になりました。いわゆる結果オーライ。

そして『エピソード6』、第2デススターの中です。銀河帝国皇帝にして、全ての黒幕であるシス卿ダース・シディアスに仕向けられ、ルークは実の父であるベイダーとの対決を強いられました。クラウドシティでの決闘からおよそ1年、独自に修行を積んだルークは既にベイダーと互角以上の勝負に持ち込めるほどの実力を身につけましたが、目的はベイダーを倒すことではなく、アナキンを呼び戻す事。母パドメが死の間際までそうしたように、ベイダーの中にクローン大戦の英雄であり、勇猛果敢で善良なジェダイ、父アナキン・スカイウォーカーを信じていたのですね。途中からベイダーとの対決を拒むルークですが、ここでベイダーが不用意な発言をします。

「そうか、お前には……妹がいるのか」

(中略)

「お前が暗黒面に下らないならば、彼女を引きずり込むまで」

ここでルークが思わず焦りと恐怖、そして怒りでベイダーをセーバー戦で押し込みます。その後どういうわけか姿勢を崩し(僕はルークの怒りのフォースがベイダーの義足を機能停止にしたのだと思いました)、ベイダーが手すりにつかまりながらも構えるセーバーに無我夢中で武器をたたきつけ、右腕をセーバーごと切り落としてしまうのでした。この時、ひたむきに父を救おうとしていたルークが思わず本能的にその父を殺しかけているのですよ。

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その後、改めて暗黒面を実感したルークは父と違い、毅然とジェダイとして暗黒面への誘いを断ち切りましたが。

『エピソード8』のベン視点の回想でも、ルークは思わず実の父を殺しかけた、あの時と同じ目をしていました。ルークとしては、ベンに気付かれたときにはすでに心が落ち着いて後悔と恥しかなかったそうですが、ベンとしては命が危機にされされている状況なうえ、ルークの殺気=フォースを感じ取ったのでしょうか。(『ローグ・ワン』でチアルートがイードゥに不時着したUウィングの中で、「殺気を持つ者、暗黒のフォースをまとう」と述べていますし)

 

かつてヨーダに向かって「恐れません」といったルーク。しかし、今は「恐ろしい」のです。『エピソード5』の時と同じように本能の声に従い、『エピソード6』の時のようにそんな思いは一瞬だったはずなのに、悲しきかなベンには気付かれてしまいました。客観的に見て彼はいつも通りの行動をとったはずですが……もはや今の彼は「導く側の人間」という状況ゆえ、今回は惨劇に繋がってしまいました。

基本的にオリジナル・トリロジーでは若く、純粋でやんちゃな一面が描かれた希望と楽観の象徴ルークでしたが、結局彼も一人の人間だったのですね。ベンに刃を向けた時に「愛する者を失いたくなかった」という気持ちは、レイアを守るためにベイダーを滅多打ちにしたあの時と同じですし、更にはパドメを死の運命から救いたかったアナキンとも重なります。ルークも悩み、恐怖する僕らと何ら変わりない一人の人間だった、ということがわかりました。

恐らく一番目をかけていた弟子に「自分は裏切られた」と思わせてしまった恥・せっかく自分が築き上げてきたものが一瞬のうちに崩壊した悲しみ・数々の愛弟子たちを失った悲しみ・そして愛する妹レイアと親友ハンの子供を手にかけようとしてしまったふがいなさ・重すぎる過ちの後悔・銀河中の人々から「英雄」「希望の象徴」と称えられてきた事とのギャップ……これらのことが一気に重なった、と僕は推測します。純粋で優しい性格ゆえ、これらの重荷に耐えられず、ふらりと失踪したと。レイアとハンの元に連絡しなかったのもこれで合点がいきます。一人の人間に課すには、あまりにも大きすぎた責任だったのです。

全てが嫌になってオクトーにたどり着いたルークは、まず愛機のT-65Xウィングを海中に沈め、そのSフォイル(X型に開く戦闘翼の事)の装甲をはがして自身の住居の扉にしてしまいます。これまでとは打って変わってジェダイを冷めた視点から捉える事になったルーク。それが、旧共和国時代のジェダイを「偽善と傲慢」と言わしめ、あの夜の悲劇となった大本の動機であるジェダイの全てを終わらせようという考えも浮かんだのでしょう。様々な条件が一挙に重なり、奈落の底に突き落とされたルークは、その心情をこじらせ、全てから逃げて何とも関わりたくない気持ちになり、殻を作ります。バラシュの誓いどころではなく、フォースすらからも自身を閉ざしてひっそりと死を迎えるのを待つばかりだった……。

 

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そこに突然、謎の少女(女性?)レイがやってきたわけですね。そこに、かつて生来の右腕と共に失ったはずの、父アナキンのセーバーを期待するような顔つきで差し出されるわけです。『エピソード7』ラストでは考えが読めない彼でしたが、今となっては葛藤あるいはフラッシュバックが起こっていたのではないかと思います。

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辛い記憶を必死に忘れようと孤島で粛々と生活を送った日々でしたが、父のセーバーの現物を差し出されることで起こったフラッシュバック。まだ自分が平凡な農家の少年で、一生何もない故郷で退屈な日々を送っていくんだと思っていた矢先、偶然に偶然が重なり、ずっと自分を見守っていたオビ=ワンとの邂逅。「君の父は実はジェダイだった」と父の形見であるセーバーを渡され、ジェダイを夢見て送った帝国との戦いの日々。あの時はまだ純粋でしたが、年を取ってから自分が犯した過ちや、過去に抱いた夢や理想とのギャップを感じ取ったのではないでしょうか。やっと決心をつけて全てをひっそりと終わらせようとした(=自殺?)矢先、レイの来訪に邪魔された形になります。過去から逃げたかったのに、それを鮮明に思い出させられたので、受け取ったセーバーを不機嫌な様子でポイ捨てしてレイを置いていく、という反応も納得いく気がします。

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以上が伝説にして最後のジェダイルーク・スカイウォーカーの謎に包まれていた「その後の30年間」の真実でした。とはいえ、まだまだ語られるべきストーリーはあるのでしょうが……

物語の中盤、上記の真実が判明するまではルークはそれをレイには伝えていませんでした。彼はまだあの夜の出来事、それに追随して起こった感情などをまだ克服できていません。時間が止まったままなのです。ハンに何が起こったのをレイから知らされた後では尚更いうことができなかったのでしょう。「彼を殺そうとしたの?あなたがカイロ・レンを創り出したの?!」という詰問が彼の胸に突き刺さったのは想像に難くありません。

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レイは単身、レンを説得しるためにオクトーを飛び出していきます。ルークはもうジェダイを終わらせようとたいまつを持って古代の書物を収めたフォースの木の元へ。その時、背後に気配を感じ、振り向いた先に立っていたのは、霊体となってもなお彼を見守っていたヨーダでした。

「若きスカイウォーカーよ」

決意をヨーダに述べてもなお、全てを燃やすことに躊躇するルーク。フム、と一言発したヨーダはフォースによる天候操作で雷を落とし、容赦なく木を燃やします。衝撃を受けるルークをよそ目に、ヒーッヒッヒッ!と大笑いするヨーダ。かつてダゴバで初遭遇した時のお茶目なふるまいを思い出させます。年を取り、ジェダイ・マスターとなっても、ヨーダの前ではルークは一人の弟子であり、ジェダイの貴重な書物を燃やしたことに文句を垂れる時の顔はまさに「若きスカイウォーカー」のままなのです。

「あんなカビ臭い書物など忘れてしまえ!」

「まだ地平線を見るか、ここ、ここじゃ!目の前にあるものを見ろ!」

「あの娘、レイが持つもの超えるものは、あの書物にはない」

「学んだものを受け継ぐのじゃ、強さ、技巧、だが弱さ、過ち、失敗も」

「失敗、そう失敗こそが最良の師」

「わしらは、彼らが超えていくためにある」

ジェダイを終わらせようとした時に、自分の前に現れたジェダイとしての師であるヨーダ。人とのかかわりを絶ち、ずっと自分の過ちを許せずに悔いていたルークに、ヨーダが授けてくれた失敗すらも肯定する教えがどれほど救いになったか。ルークはようやく、自分のことを許すことができたのではないでしょうか。夜の闇の中、霊体のヨーダと並んでフォースの木が煌々と燃えていく様子を眺めている後ろ姿からは穏やかな雰囲気すら感じます。

レイに聞いたハンの最期、R2が見せてくれたレイアのホログラム、そしてフォースを通じてレイアに呼びかけた事……少しずつ心情が前向きに変化していたルークは、ようやく復活を果たしました。かつてのように、銀河の人々のために。帝国を倒した反乱軍の英雄・伝説のジェダイルーク・スカイウォーカーとして。今一度その名前を背負ってクレイトに(幻影として)赴きます。ようやく再開した兄妹。レイアが何も言わずともルークを許すのはグッと来ました。しかし、レイアは自分を探し求めていた間に、ベイダーの娘であることを暴露されて失脚し、長年連れ添った愛する夫ハンを残酷な経緯で失い、息子のベンすら暗黒面に捕らわれて諦めかけていました。そんな彼女にルークがかけた言葉は「誰も真に、いなくなったりはしない」。レイアとの最後の別れが、自分の最期が近いことを悟っていた上でのものだとしたら泣けますね。

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唯一、ドロイドである3POだけはルークがそこにはいないことに気付いていたのか。いたずらっぽいウィンクは口止めの意でしょうか。ファーストオーダーが突入しようとしてくる入り口の割れ目にローブをはためかせて堂々と向かいます。希望の象徴として、暗闇からついにその姿を現したルーク。それを次々に頭を上げて見る兵士たちが、ルーク復活の衝撃と感動を実感させてくれます。

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追手が迫る中、民衆の前に一人立ち、逃げ道を切り開くその姿はまさに救世主のモーゼのようです。ルークと決着をつけようと一人来たカイロ・レンもしくはベン・ソロ。ルークが幻影として採用した姿は、ベンが最後に見たルークの姿ですが、衣装が違います。黒地の一見シンプルなローブの下に見える白い衣服。まさに、絶望から復活して希望を見出したルークそのものを表していると思います。

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せめてレジスタンスの彼らが逃げる時間を稼ぐために、ルークは幻影として最大限できることをしますね。まずレンが不安定な精神の持ち主である事を利用して、レンが最後に見た姿(レンが殺される寸前に見た姿)で、レンご執心のアナキンのセーバーを持って彼と向き合います。レンを心の底から自分自身に注意を惹きつけ、攻撃をひたすらかわす事で、レジスタンスの撤退を可能にするのです。これで自分の足跡がクレイトの真っ白な地表に残らないことにも気づかれません。この時、ルークのセーバーの握り方なのですが、よく見ると『エピソード5』のあのちょっと変なぎごちない感じの持ち方です(演出が細かい!)。さらに、ルークは基本的に右手を上に構えていたのですが、今回は左手を上に構えているのです。命がかかっている一騎打ちで敢えて逆の手を使う……このことから、ルークはレンと戦う意志は決して持ち合わせていない、と僕は読み取りました。

ここでルークは"I failed you, Ben. I'm sorry."と言います。かつてオビ=ワンがムスタファーでアナキンに言ったようにです。ベンを導きそこなった、失望させた、という思いはあるようです。なお、ベイダーの時のように積極的な救済の意志は見られません。今回は敢えて、本人の好きなようにやらせる一方、次世代のレイたちに希望を託したのでしょうか?

この後はご存知の通り、幻影でレンを翻弄している間に実はレジスタンスを逃がすことに成功したのが知れ渡ります。と、口先と幻影のみで未熟な青年一人を翻弄した辺り、ルークのマスターとしての実力を垣間見ました。"See you around, kid" もう彼が"kid"という側に立ったんですね……(遠い目で)。まさしく、ヨーダから受け継いだ教え「ジェダイはその力を決して攻撃ではなく、知識と防御のために使う」を体で実行に移したのが、この一連のシーンでもありました。

この後ルークはオクトーで双子の夕日を見つめながら、その生涯を閉じます。それは、レイに言わせれば「苦しみや絶望ではなく、穏やかで意義あるものだった」そうです。彼が満足げな表情で故郷を想起させる双子の太陽を見つめていた時に感じていたのは、望郷の念か、レイアやハンへの愛か、次世代への希望だったのか。その結論を出すのは別の機会に譲りまして……彼が最後に満たされていた事は確かです。非常にドラマチックなシーンでした。

一度は「ジェダイは、滅びる」と言い切るも最終的に希望を取り戻し、「私は、最後のジェダイにはならない」と確信したルーク。彼という火花に呼応するように、レイ、そして銀河各地で未だ名も知らぬ子供たちのフォース、そして希望が燃え上がりつつあります。今度復活する時にはただライトサイドに傾倒した者ではなくなっている可能性もあるジェダイ。そんなジェダイがこれからも立ち上がっていく事が示唆されているだけでなく、ルークの希望は次世代の人間たちに受け継がれ、彼らとその物語を前進させるのでしょう。

 

『エピソード8』を受け入れられなかった方の中には、ルークの人物像だけでなく、実際にライトセーバーをぶつける戦いすらせずに最期を迎えた事が嫌だった……という方もいるかもしれません。少なくとも、僕は最初そう感じていました。

しかし、時間をおいて考えると、続三部作はレイ達の物語であり、ルークの冒険は監督も述べているとおり、旧三部作で完結しています。旧三部作の主人公が本格的に復活して一緒に戦うとなれば、レイ達を食うほどの存在感を発揮し、せっかくの続三部作の物語が薄れる恐れがあります。よって『エピソード8』でルークとのお別れは不可避だったのかな、と今では思うのです。丁度ルークの祖母にあたるシミ・スカイウォーカーの言葉を思い出します。「運命は変えられないの。夕日が沈むのを止められないのと同じ」

ルークが旧三部作を終えてからたどった道筋は、決して僕ら観客が期待していたものではありませんでした。「いつまでも幸せに、暮らしましたとさ」という絵にかいたような幸せな生活を送ってほしかったですが。そもそもそんな状態なら、続く『エピソード7』からの続三部作に出演する必要が無いわけで。物語が続く以上は、やはり何らかの試練を受けないと物語として成立しません。仮にその「幸せな」状態で出演したとしても、何一つ不足しているものはない完璧なキャラクターということになるので、それこそ前述の通りレイ達の影が薄くなってしまいます。言い方を変えれば、今回のすさんだ状態は、ルークという最初のSWの主人公である伝説級のキャラクターに対する足かせ、あるいはハンデだったわけです。

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それでもなお、最後に彼が満足し状態で逝ったなら、自分で自分の歩んできた人生に何か意味が意義が見いだせたなら、少なくとも僕は嬉しく思います。プリクエル世代の僕ですが、『エピソード7』に向けてルーカスのSW6部作を何度も何度も見て、ルークや他のキャラクター達が本当に好きになりました。最初は受け付けなかった『エピソード8』のルークの最期は今では悲しく、壮大で、非常に美しく思います。最高のやり方で、ルークというキャラクターを送り出せたと思いました。

 

 

 

 

以上、現在『エピソード8』のルーク・スカイウォーカーについて思ったことでした。本作品の特別映像インタビューでフィンを演じるジョン・ボイエガが述べた通り「全てが逆の方向に動き始める」、実際ルークは衝撃の人物像でしたが、冷静に少しずつ紐解いてみるとしっかりと旧三部作のルークに根差したものでした。衝撃を裏付ける丁寧なキャラクター構築、脚本も務めたライアン・ジョンソン監督のスターウォーズ愛をひしひしと感じました。その手腕と、ルーク・スカイウォーカーの人生を完結させるという英断には拍手を送りたいです。見事でした……

 

なお、『エピソード8』の感想はこれだけにはとどまりません。元々一本の記事だった予定が、ルークの個所を書いているうちにかなり長くなってしまったので急きょこうして独立した記事にしたわけでして……とにかく、今『エピソード8』について感じた事を書いた記事を鋭意執筆中です。またそこでお会いしませふ(´・ω・)ノシ