スター・ウォーズという物語に、『最後のジェダイ』が新しく続けた1ページとは

僕は、スター・ウォーズが好きです。

 

僕にとって初めてのスターウォーズは、『エピソード3/シスの復讐』。オープニングのコルサント上空戦・ジェダイ・マスターたちが歩き回るコルサントの映像の雰囲気や、アナキンがムスタファーの川辺で火に焼かれるショッキングな映像など……話はさっぱりわかっていなかったにも関わらず、そこで感じた印象や雰囲気などは僕の奥深くにしみこんでいる思い出深い一本なのです。

それからは特にスターウォーズに触れることもなかったのですが、確か2015年初頭だったかYoutubeで偶然『エピソード7/フォースの覚醒』のティーザー映像を見つけました。そこから徐々にスターウォーズに触れていくことになり、ディズニーが再び始めた祭りに乗って、今はこうして僕なりに全力で楽しんでいます。

今ではすっかり胸を張って「SWオタクです!」と言えるようになりましたが(一部ではウォーザーというそうですね)、恐らくファンともなればある程度はシリーズの知識を身に着け、次回作に向けて予想や期待を持つ方もいらっしゃると思います。そういった予想や期待を持ったウォーザーの方々が映画館に足を運ぶと、「( ゚Д゚;)……?!」となるのがシークエル・トリロジーの第2章を担う『エピソード8/最後のジェダイ』ではないでしょうか?実際、僕の方はどうだったかというと映画館から出てくる頃には、打ちのめされて疲れたような感じがしました。それはさながら「どうして言ってくれなかった、ベン……」と打ちのめされた『エピソード5』終盤のルークのように。それからは冷静に『エピソード8』の分析、そして「スター・ウォーズとは何なのか?SWとして何が正しくて、何が違うのか?」といった壮大な疑問まで、時間を見つけては自問自答、一人哲学の日々です。『エピソード8』の監督・脚本を務めたのはライアン・ジョンソン。監督と脚本を一人で務めるのはジョージ・ルーカス以来。彼が撮った一本は、全世界のウォーザーに大きな衝撃を与えたことでしょう。僕にとってはまさしく試練でした。自分が期待していたものが悉く裏切られたことで、僕のSWに対する姿勢、すなわち自分のウォーザーとしての地盤を見直す事になりましたから。結果的に、僕は『エピソード8/最後のジェダイ』を好きになり、SWは変わらず好きですが、SWに対する見地が以前より拡大・確立されることとなりました。

ジョージ・ルーカス、そしてライアン・ジョンソンがいわゆる個人的なモノをSWに込めて撮ったように、ここに書いていくのは解説ではなく、個人的な意見です(前回書いた『エピソード8』のルークの記事も「一つの視点」なのであくまで僕の意見ですね)。今回は『エピソード8』のナンバリングサーガ全体に与えた余波を語っていこうと思います。

 

ライアン・ジョンソンはいかに神話を僕らに近づけてきたのか

ライアン・ジョンソンが『エピソード7/フォースの覚醒』から繋げて語る物語、特にルーク・スカイウォーカーについてのストーリーは多くの観客の予想を裏切るものでした。とある事情から戦いに嫌気がさし、誰にも見つからないような絶海の孤島で粛々と生活を送る世捨て人。その描写の一端から「なぜルークはこうなってしまったのか?」という疑問に対して、僕が出した答えが、前回のルークの記事です。一見突拍子もない意見でも、根拠があって論理的に組み立てられていれば問題ありません。ならば、なぜわざわざルークの負の側面を掘り下げるようなストーリーを組み立てたのか?「オクトーに隠居している理由を導き出すため」「ルークがなにか障害に面していないと、レイたちのストーリーが薄れるから」というのが、僕がその記事で出した答えでした。

しかし僕は、第3の理由が存在するのではないかと思いました。その第3の理由は、『エピソード8』の要所要所から感じ取れるので決して事実無根ではないと思います。それは「ルークを一人の人間として描くこと」、です。

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人間というのは複雑な存在です。善か悪か割り切れるものではないし、身勝手な所も献身的な所もあります。矛盾を大量に抱え込むのが人間ではないか、と僕は思うのです。そんな人間は間違いを犯します。ルークの場合は、自分が犯した間違いの余波があまりにも大きすぎた事、それに伴う自責の念からひっそりと行方をくらましました。

ルークに罪を背負わせたこのストーリーは、『エピソード8』まで続くナンバリングサーガの意味合いを大きく変えます。ライアン・ジョンソンがここまで意図していたのかはわかりませんが、この副作用は偶然にも観客がSWをより楽しめるようにするものでした。どういう事かと言いますと……

オリジナル・トリロジーではルーク・スカイウォーカーという農家の青年が、故郷を飛び出し、仲間との冒険と戦いを通じて成長していく様子を描いていきました。

のちに製作されたプリクエル・トリロジーは、ルークの父アナキン・スカイウォーカーがなぜベイダーという恐ろしい敵として君臨するようになったかを描く、いわば答え合わせ的な作りです。

このSWの創造において始点となったルークはルーカスの自己投影でしたが、『エピソード5』ではその弱さや欠点が示唆され、『エピソード6』からジェダイとして成長し、ひたむきに父を救おうと奮闘する様子から、「キャラクターの一人歩き」が起こっていたと推測されます。アナキンの場合、『エピソード1』では奴隷からの解放、『エピソード2』ではアミダラ議員との禁断の恋とジェダイとしての未熟さ、『エピソード3』ではついに暗黒面への転向が描かれました。この一連の流れ、見方によっては神話的な印象を受け、特に『エピソード3』の暗黒面への転向があまりにも極端な描写だったことから、非現実的=神話的という見方が生まれます。よって、ルーカスが手掛けた6部作は神話という見方ができました。神話だから、物事はたいてい結果的にうまくいく。作品間の多少の矛盾は許される。登場人物たちの心情の極端な変化も許される。

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しかし、『エピソード8』がそれを終わらせたのではないか、と感じます。ルーク・スカイウォーカーはいつでも明るくまっすぐで、下す判断が間違うなんてことはない……と、無意識のうちに作り上げられるような認識を壊したのです。その弱さを徹底して描くことでルーク・スカイウォーカーも、結局は過ちを犯す僕ら観客と何ら変わりない人間の1人であることを宣言した、と僕は感じました。従って、続く他のキャラクター達も全員同じ人間なのです。ルーク・レイア・ハン・チューイ・C-3POR2-D2や、アナキン・オビ=ワン・パドメ・ヨーダそしてパルパティーンでさえも。

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以前の記事で僕は、「ナンバリングサーガはSW作中の銀河の歴史で重大な転換点を切り取ったものである」と述べましたが、更に踏み込んだ言い方ができます。スターウォーズとは遠い昔、はるかかなたの銀河系で様々な人間たちが出会い、別れ、前に進み、一生懸命生きて歴史を作っていく様を描いた物語、という捉え方が可能になるのです。

決して手が届かない神話の人物ではなく、自分たちと同じ観客だからこそより感情移入ができる。より感情移入ができるから、作品がもっと好きになる。

更に、シークエル・トリロジーのキャラクター達は(『エピソード8』でハッキリと定義されましたが)、これまでのルーカス6部作のキャラクターとは違う方向を向いた弱さを持った人間たちです。

どう違うのかというと、6部作はまず物語の「記号」としてのキャラクターです。たとえば、ルーク=主人公,ハン=荒くれもの,レイア=ヒロイン、というように。「弱さ」はキャラクターの味付けでしかありませんでした。

一方、シークエルは「弱さ」が中心になっているキャラクターです(※正確には『エピソード7』で登場したキャラクター達に『エピソード8』が後から「弱さ」を付け加えているので、本来は正しくない言い方なのですが、『エピソード7』の時点でそれとなく示されてはいるので良しとします)。

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レイ=家族がいない孤独,フィン=目の前の困難から逃げる,ポー=状況や仲間を顧みない身勝手さ、そしてカイロは両親からまともに愛を受けられずに育ってしまった人間です。どれも人間だれしもが持つであろう「弱さ」です。また、現時点で過去がさっぱりわからずじまいのスノークでさえ「弱さ」はあるそうで(スノークを演じるアンディ・サーキスライアン・ジョンソンから彼の過去をすべて聞かされているため)。レイは主人公、カイロは裏の主人公というように、そんな彼らが物語の「記号」に割り振られています。このキャラクターたちが主人公になることで、スターウォーズは様々な人間たちが懸命に生きていく物語、という性質を色濃くしているのです。

特にカイロに設定されている弱さとは、意外にも多くの人々に大なり小なりあてはまるものではないでしょうか。これはあくまでシークエルにとどまった例ですが、このようにして自分の持つ弱さを一見どうみてもフィクション=現実ではないSWのキャラクター達の中に見出すことで、より深い所で共感し、物語をもっと楽しむことができる……

シークエルは特にプリクエルやオリジナル以上に観客に近いキャラクター達が動き回る群像劇として描かれます。そのドラマをなるべく新世代である彼らのものにするために、フォースの両サイドの頂点であり、場合によっては両陣営のトップになり得、その強大な力ゆえに新世代の彼らの存在感を薄れさせてしまう恐れがあるルークとスノークは今回命を落とすことになった……ライアン・ジョンソンはそんな意図をもってあの衝撃展開を書き上げたのだと思います。

 『エピソード8』はスターウォーズのナンバリングサーガを神話から人間たちの物語へと引き戻したのではないでしょうか?

 

「これはただの映画だ。観て、ただ楽しむものなんだ。夕日みたいなものさ。そこにどんな意味があるのかなんて心配しなくていい。”素晴らしい”って言うだけで充分なんだ」──創造主ジョージ・ルーカスによる、1981年のインタビューの言葉である(※)。『最後のジェダイ』のルーク・スカイウォーカーは、映画の過剰な神格化に疲れ切っていたかつてのジョージ・ルーカスそのものだった。ジェダイや自分に対する幻想を重荷に感じていたルークが「ジェダイは終りを迎えるべき」としたように、ルーカスフィルム/ディズニーは『最後のジェダイ』を以ってこれまでのスター・ウォーズを終わらせたのだ。

※「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」クリス・テイラー(著)、児島修(翻訳)、パブラボ、2015年

出典:【レビュー】『最後のジェダイ』はいかにしてスター・ウォーズの伝説をリセットしたか ─ 「古いものは滅びるべき」

 

上に引用したのは、THE RIVERという主に映画について取り扱うファンメディアの編集長さんによるレビューです。特にルーカスの言葉はいくつかの解釈ができそうですね。神話というのはその名の通り、人を超えた神の荘厳なお話であり、基本的に人の手が届くものではありません。スターウォーズのファン(と人気)が増えるにつれ、神格化つまりSWを神話としてみる視点が成長していきました。

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僕が思うに、SWとは神話である以前に観客と等身大の人間たちの群像劇です。そしてその根底には人間模様がある作品だと僕は思います。その作品を「すごい共感できる、これは人間同士のドラマだ」「とても壮大だ、これは神話に違いない」「メカがかっこいい、これはSFだ」など、どう解釈するのかは観客の自由です。しかし、娯楽作品としてもっと観客が楽しめるようにする大本の土台として。スクリーンに映るのは観客と同じ人間である事を、ルーカス・フィルムは改めて提示したのだと思いました。

 

矛盾こそが、大きな魅力

「衝撃の、スター・ウォーズ」という謳い文句の本作。展開はさることながら、ファンはこれまでのいくつかのお約束が破られていることから「これまでのSWは終わった」「革新的なSW」と評する方も少なくありません。しかし、僕はそこからまた一歩踏み込み、総括して「矛盾を抱えたSW」という意見に行きつきました。

"Let the past die. Kill it, if you have to."

 ↑予告編にも使われたカイロのこのセリフ。一度目の観賞時は過去のSWのお約束や伝統を破るところが印象的だったので「革新」をテーマにしたSWなのかな、と思いました。しかし、様々な方の考察や感想を読んだ上で、冷静にもう一度観た時には逆に過去のSWへの丁寧なオマージュがちりばめられている事に気付く。展開やキャラクターの成長具合も以外に予想の範疇内に収まるのでむしろ「保守」のSWだな、と感じたのです。感想が1回目と2回目でまるで逆ですね。これはいったい何なんだ?!となったところ、偶然見つけた感想でストーンと納得させられたものがあったので以下に引用いたします……

僕的に本作のテーマは「フォース=調和=バランス」だと思っていて。過去のジェダイたちを否定する台詞をルークに言わせて遺物を燃やすものの、この映画シリーズ自体が過去の恩恵にすがって成り立っているものだったり、ヒーロー的行為はダメで命が大事だと言いながらローラ・ダーンの自己犠牲をカッコ良く描いたり、伝説化を否定しながらもラストは伝説が受け継がれていったり、相反する要素をあえて盛り込んで、観客に「矛盾を抱えながらバランスを取ることが大事」と伝えている気がしたんですよね(それが上手くいっているとは言い難いんですが…)。とは言え、これをルークが聞いたら、「素晴らしい、すべて間違っている ( ゚д゚) カエレ!」なんて言われちゃうのカナー (´∀`;) ナンダコレ 

出典:スター・ウォーズ/最後のジェダイ(字幕版、吹替版)(ネタバレ)

 三角締めで捕まえてというブログを運営されているカミヤマさんによる感想ですが、「相反する二つ」を様々な形で盛り込んだのが本作なのだなぁ、と思いました。一応主人公のレイはフォースのライトサイドに属していますが、宿敵のカイロ・レンはダークサイドに属しながらレイ以上の複雑な背景や葛藤を秘めたキャラクターです(すなわちカイロは裏の主人公)。

僕は『エピソード8』はSW史上最高に観る人に優しい作りだな、と思っていまして。これはできるだけ多くの新旧ファンに受けが良い「最大公約数」的な作りだった『エピソード7』とは違う方向の優しさです。『エピソード7』は観客のSWファン的な部分に優しく、『エピソード8』は観客の人間的な部分に優しい作り、だと思います。前述の通り、人間というのは矛盾を抱え、不完全な生き物です。映画そのものを、矛盾を抱えたものとして作り上げてしまうこと自体、そんな矛盾を抱えながらも生きていく人間=観客たちの肯定のように思えるのです。他にも、弱みがある前提のキャラクターたち。英雄とされていた人物でさえ、あそこまで憔悴してしまうこともあるという事。そして何より、「失敗こそが最良の師」という指導者でも間違う事、人間が犯してしまう失敗すらも受け入れ、認める教え。ひたすら希望の素晴らしさも謳う映画もいいですが、このように挫折や絶望、失敗を認めてくれる上で、希望を持てるような結末に仕上げた『エピソード8』は、観客の人間的な部分に優しいということです。

また『エピソード8』が抱える大きな矛盾が、伝統と革新の兼ね合いです。新旧の対決と葛藤、製作側が大きく悩んだところでしょう。『エピソード7』はディズニーが再起動させた新しいSWの幕開けとして、可能な限り多くの観客が楽しめるように馴染み易く、懐の大きい一本でした。もろクリフハンガーな終わり方をした『エピソード7』に続く『エピソード8』は、新世代のキャラクター達にそれぞれ試練を課し、物語を大きく前進させる役割が予想されていました、が。奇しくも『エピソード8』はSW全ての始まりである『エピソード4』公開40周年記念節目の年である2017年に公開でもありました。『エピソード4』から始まったナンバリングサーガは、ルーカスフィルムによって「スカイウォーカーサーガ」と定義されています。『エピソード8』は、『エピソード4』に様々な形で敬意を払いつつ、スカイウォーカーサーガの終わりを暗示し、その枠を押し広げたのです。

『エピソード4』へのオマージュ点

 ・オープニングテーマ

SWはオープニングの説明文が終わった後に短い間奏があり、各作品毎に異なる印象の導入が楽しめます。しかし『エピソード8』は『エピソード4』のものを改めて使いました。どうせなら『エピソード8』独自の間奏を聞いてみたかったですが、これもオマージュの一環なのかもしれません。ポジティブに捉えるなら、『エピソード4』は41年前の作品なので音楽の音質も古く、管楽器の音もそろわずバラけている個所もありますw 『エピソード4』のオープニングの一連の音楽が、現代のキレイな音質でのリプライズで楽しめると思うと少しオトクです。

 

・「嫌な予感がする」

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これは『エピソード4』に限ったものではありませんが「あれ、今回あのセリフが無いじゃん!」と言う方がいらっしゃるので書いてみました。ポーがX-Wingでドレッドノートに向かい合うカットの直後、BB-8が何か言ってポーが「わかってる」、レイアが「私もそのドロイドに同意ですよ」と言います。初見では当然わからないですが、BB-8にこのセリフを当てはめるとしっくりきます。このお約束はしっかり守られていました。

 

・レイアのホログラム

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「いわずもがな」ですが、ジーンときました。R2が疲れ切ったルークを再び奮い立たせる言葉として、掘り出したものです。現在も敵から逃げているものの、まさに危機に陥っているレイア。そして今は隠れているジェダイ・マスターこそが最後の希望である事。彼の冒険の原点であるホログラムを見せ、純粋な心を呼び覚ましたのでしょうか。この粋な計らいにはいやはや参ったという他ありません。

 

・レッスン1

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かつてオビ=ワンにフォースの軽い手ほどきを受けたルークですが、その彼が今やジェダイ・マスターとしてフォースの手ほどきを授ける立場です。その時、座禅を組んだレイに説いたフォースの説明がオビ=ワンに教わったものを受け継いでいるのです(その後「万物の間にフォースは流れている」という説明はヨーダから教わったものですね)。

 

・アナキンのセーバーの光刃の出し入れ

レイがアナキンのセーバーを使って自主訓練を行い、岩を切り裂いてケアテイカー達を困らせるシーン。岩場からアッチャー……と感じにケアテイカー達を見ながら光刃を収納する時、『エピソード4』でルークが起動スイッチに触らずに光刃を出し入れしたのと同じ描写に見えました(まだ確証が無いです……)。どういう事かと言いますと、1977年はまだ設定が固まっておらず、2015年になって明確に描写されたのがアナキンのセーバーの起動スイッチです。

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セーバーの刃が出る口の付近に二枚板状の突起があり、その後ろに赤いスイッチがあります。それが起動スイッチです。タコダナやスターキラー基地でフィン、レイは共にこれを押して使いました。なお、オクトーでは敢えて『エピソード4』の黄色いモールドが入ったボックス付近に触れて刃を収納する方式が描かれていました。細かい演出です。

 

・カイロのTIEサイレンサースピン

カイロが専用機のTIEサイレンサーに乗り、レジスタンス旗艦ラダスに追撃をかけ、スピンをかけた攻撃時。中で操縦しているカイロもクルクル回るカットは、デススターで味方機にトレンチからはじき出され、なす術なくスクリーンでクルクル回るベイダーのオマージュです。

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また、攻撃時に機体をスピンさせるのは『エピソード3』のコルサント上空戦で彼の祖父にあたるアナキンが搭乗するイータ2をスピンさせた事を思い出させます。このシーンは『エピソード3』『エピソード4』で描かれたカイロの祖父のリプライズを一挙にやっているのですね。

 

・レイアのブラスターのスタンモード

『エピソード4』でレイアに使われた青いリング状のスタンモードですが、映画で登場するのは実はそれ以来だったそうです。

 

・クレイトでのファルコンチェイス

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ポーグがやかましいクレイト地下のファルコンチェイス、オープニングと同じく『エピソード4』の有名曲のリプライズでした。デススターから脱出したファルコンを4機のTIEファイターが追撃した際の音楽ですが、現代版らしく重低音を思う存分響かせるのがまた良い。自然が作った曲がりくねった立体迷路内を飛び回ることも併せて考えると、旧スターツアーズも思い出されますね。彗星に突っこむところと第3デススター攻略を合わせた感じですが、その旧スターツアーズの精神がナンバリングサーガに組み込まれていると思うと嬉しいです、楽しみが増えました。

 

・ルークのたどった結末

老いジェダイマスターが自分と決着をつけに来た暗黒面へ堕ちた元弟子と戦い、次世代に希望を託して自身はフォースと一体化する……こうして文字にすると、オビ=ワン対ベイダーにも、ルーク対カイロとも捉えられます。やはり展開自体は非常に似通っているのです。SWには過去作へのオマージュ含めた過去作の美学、というのがありますが『エピソード8』ではただの「繰り返し」に留まらない展開につなげました。

 

・双子の夕日

いわずもがな、ですね。SWは並べられてみると「あっ同じ構図だ」と気付かせられることが多いのですが、今回は初めて、何もせずともオリジナルのシーンが重なりました。このシーン設計はルーク・スカイウォーカーの完結を担うため細心の注意を持って行われたからでしょう。禅を組んでローブをはためかせ、オクトーの美しい双子の夕日に臨むジェダイ・マスターの背中に、僕は確かにタトゥイーンで広い銀河に思いをはせる19歳のタトゥイーンの農家の少年の姿を見ました。オビ=ワンが望んだようにはなれなかったかもしれない、オビ=ワンのようになれなかったかもしれない。それでも最後の彼は心安らかに、希望の火を受け継いでこの世に別れを告げたのだと思います。

 

サーガの流れを終わらせた点

・R2と3POの出番はカット

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感じ方は個人差あるとは思いますが、あまりスクリーンに登場しなかったように思います。次作の『エピソード9』でも今回以下の出番か……やはりルークと同じく新世代の物語に集中するためでしょうか。また、今回でこのコンビはまたしても主人に先立たれてしまうことになりました(´・ω・`) ドロイドの悲しき宿命ですね。

 

・アナキンのセーバーの破壊

親に捨てられた孤独を抱える似た者同士のレイとカイロでしたが、決別に終わります。その際ついに破壊されてしまったアナキンのセーバー。思えばクローン大戦の時代からアナキン・スカイウォーカーが使い、その後世代を超えてルーク、レイに受け継がれてきた重要な遺物でした。

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その「お下がり」の破壊は、レイの自立(後に新しいセーバーを作る?)、そしてスカイウォーカーサーガの終結を暗示します。そういえばその少し前のスターキラー基地での戦いでも似たような状況が発生し、セーバーはレイを選んだかのようにその手に収まりましたね。今回はセーバーがレイとカイロを選び切れなかったのか、真っ二つに割れました。

 

ライトセーバー戦が存在しない

一応終盤のクレイトでのルーク対カイロがありますが、あの時のルークは幻影です。一応ライトセーバーの使用者同士がセーバーから火花を散らして戦うもの、と定義すると今作は史上初それが存在しませんでした。

 

・アナキンとオビ=ワンの皆勤賞、ついえる

前作ではアナキンは一応遺骸という(不本意な)形で出演しており、オビ=ワンはレイが観たビジョンに「レイ?これが君の最初の一歩だ……」とささやきかけていました、が。今回はまさかの欠席……(´・ω・`) 導き誤った弟子が暗黒面に堕ち、ジェダイ・オーダーを破滅に導いたという点で、アナキンとオビ=ワン/ベンとルークは共通しているのでかつてクローン大戦の英雄でもあった師弟に来てほしかったですね……オビ=ワン、なぜあなたはタコダナのレイに向かってあんな意味深なセリフを囁いたのですか

 

・回想シーンが登場する

時系列的にはプリクエル→オリジナルなのですが、製作順はオリジナル→プリクエルです。オリジナルにプリクエルの回想シーンが挟み込まれることは勿論ないですが、オリジナル製作時点でプリクエルの時期を当時のキャストで撮った回想シーンすら撮られませんでした。そのルーカス6部作に続く『エピソード7』ではフォースによるヴィジョン、という形で「ナンバリングサーガでは回想シーンは使ってはいけない」という暗黙のルールは守ったことになります。『ローグ・ワン』では回想シーンが登場しましたが、あれはアンソロジーでした。

なお、『エピソード8』ではついに回想シーンが使われ、更に個人的に最も使ってほしくなかった形で使われてしまいました。

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それは、「ウソ」です。過去の出来事を語るとき、視点によって語り方が違うのは往々にしてあることですが、場合によっては事実と異なるウソだってありえます。更に、それを映像として見せられてしまうと観客にはもう疑いの余地がないんですね。しかし、『エピソード8』はただ過去を描きたいというだけで初の回想シーンをはさんできたのではなく。黒澤明監督による『羅生門』へのオマージュとして、語り手が交互に変わる計3回の回想シーンをはさんだそうです。『エピソード4』にように黒澤明監督への敬意をこめて撮られたのが、この回想シーンなのですね。

 

・レイはスカイウォーカーではない(現時点では)

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心の奥底でもう自分が待つ家族は戻ってこないことをわかっていたレイにとって一番つらい事。それは両親が名のある誰でもなく(=自分を確立するアイデンティティが無い)、その両親はもう戻ってこれない所に旅立ってしまった事でした。すなわち天涯の孤独。前作で強いフォースの素質を示してスカイウォーカー関連の血筋を匂わせた彼女でしたが…… ルーク「素晴らしい、全て間違っている」ファン「Noooooooooo」

スカイウォーカーではない者=一般人が今や主人公なのです。

 

・ラストシーン

初見の僕は、少なからず戸惑いを覚えていました。今までのラストカットはスクリーンのどこかに必ずスカイウォーカーが映っていたので、その伝統を何となく感じ取っていたファンの方々は「あらっ」と思われていても全く不思議ではありません。なお、最終的に納得した僕の考えを、流れを追いながら書いていきます。

ルーク・スカイウォーカーはついに銀河の表舞台から去ってしまいました。なお、自由を求めて戦うレジスタンスは人数を大幅に減らしたものの、今一度より強くより大きくなって復活することが示唆されます。密輸船だったファルコンはレジスタンスを乗せ、希望を胸により明るい未来へと突き進んでいく……という感じで主人公たちの出番は終わります。さて、画面が変わるとそこはカントバイトの厩で働かせられている少年たち。その言葉は観客にはさっぱりわかりませんが、どうやらジェダイ・マスターのルークの活躍についてお話している様子。今一度、改めて「伝説」という役割を引き受けた彼の行いは、確かに銀河各地に種をまいたようです。その後、その部屋から追い立てられたテミリ少年は寒々しそうな厩でさりげなくフォースを使って箒を手繰り寄せます。元々「フォース感応者というのは銀河各地に生まれる」という設定です。それがこれまでの映画で描かれたかどうかは少しあいまいなので、改めてそれが提示されたことになりました。そんな彼が星々がきらめく夜空を見上げると、一条の光の筋が走り抜けます(ファルコンでしょうか?)。先ほど2人のレジスタンスに指輪と共に、立ち上がる勇気と希望をもらったテミリ君のその顔には、明らかに希望と夢が宿っています。これからの道を切り開いていくかのように、小さな箒をジェダイライトセーバーを持つように構える彼。ルーク・スカイウォーカーは伝説として、希望として、そしてフォースとして人々の中に生き続けます。テミリ少年も例外ではありません。目には見えませんが、確かにテミリ少年の中にルークがいる。ルークが受け継いだ希望は新しい世代に受け継がれ、新しい物語を作っていく……そうして僕は、あのシーンは『エピソード8』のフィナーレに相応しいという事で納得しました。

 

 

『エピソード8』は過去を終わらせたのか?

上にようにわざわざ『エピソード4』へのオマージュと・過去の伝統を破った点をそれぞれ列挙しましたが、その前に書いた通り『エピソード8』が抱える数々の矛盾の一つです。よって僕が出した答えは、過去に敬意を持ってお別れの意を告げた……という事です。これは過去に固執するわけでもなく、切り捨てているわけでもないということを留意してください。

先ほど述べたラストシーンについて。「誰でもない」テミリ少年がこの映画のラストを締めくくるというのは、ナンバリングサーガ全体で見ると極めて異例の変化球です。そんなラストシーンがなぜ『エピソード8』にふさわしいのかは先ほど述べた通りですが、「誰でもない」少年に重要なラストを任せたのには理由があると思います。

『エピソード8』は登場人物たち全員を、「何かしらの弱点があり、何かしらの動機があって動く存在」=「観客と同じ人間」として描きました。ならば、今までオリジナルやプリクエルでは脇役だったスカイウォーカーでない一般人たちも、これからは主人公になれるのです。

アナキン・スカイウォーカーは「選ばれし者」として、「フォースにバランスをもたらす者」として強大なフォースの素質を秘めて誕生しました。それはジェダイ・シスの枠組みを超えた超然とした存在になるはずでした。ですが彼は人間として生まれ、愛を知りました。それゆえ、自分よりはるかに邪悪で狡猾な存在に付け込まれ、もてあそばれ、傀儡とされてしまいました。スカイウォーカー=強大なフォースの持ち主、という図式はそのままSWという物語を語るときに、何となくスカイウォーカー=主人公という認識や伝統を生み出すに至ります。

前作でレイの秘めるフォースの資質について様々な意味深な伏線が張られましたが、今作でそんな彼女は別にスカイウォーカーでもなく、特別な血筋に生まれたわけでもない。平凡……というのは流石に語弊がありますが。その生まれながらに持つアイデンティティは何ら特別なものではなかった、という事が描かれてしまいました。そのレイが主人公という事は、もうスカイウォーカー=フォースにバランスをもたらす者≒主人公、という役割はアナキンの時点で終わっていたという事です。続くルーク、レイア、ベンは血筋に付きまとう宿命に縛られずに自由に生きていても良かった。ルークは反乱軍の一員として、ジェダイとしてベイダーをライトサイドに呼び戻したり帝国の崩壊に大きく貢献しました。一見フォースの意志のように見えたのは、ただルークが自分なりの人生を自分の意志で「それが正しいんだ」と信じて、一生懸命歩んできた軌跡でした。

しかし、ベンに関しては生まれたその瞬間から、彼を囲む状況が自由に生きることを許さなかったのではないか……と思います。いずれベン・ソロについては記事を一本は書きたいのですがここでは割愛します(←重要な説明なのに?!)。銀河内戦終結後も忙しい「英雄」の両親のもとに生まれたことで、その両親からまともに構ってもらえず、更に「英雄」という肩書が重くのしかかってしまった……とにかく総括すると、彼の場合は、スカイウォーカーの血筋がマイナスに働いてしまったように思えるのです。

『エピソード8』はスカイウォーカーだからといって頑張らなくても良い、自分には何もないから何にもなれないわけじゃない……そんな対比が僕には読み取れました。それに加えて、前述の明確に弱さが設定された続三部作のキャラクター達、そして「失敗は最良の師」「師は、弟子が超えていくためにある」という教え。オリジナル、プリクエルと経てきたSWは、また違った方向に濃く、僕ら観客の心に訴えかけてきます。先ほど書いた通り、ナンバリングサーガとはスカイウォーカーサーガであり、スカイウォーカーの血をひくベン・ソロは裏の主人公として、『エピソード9』でも物語の中心にあり続けることでしょう。しかし、それに対する主人公側はスカイウォーカーましてやフォースを使えなくても良いのです。少し飛躍した言い方になりますが、SWの冒険に参加する敷居は低くなりました。これからは誰でもそこに飛び込み、主人公になる事だってできるのです。

 

僕はむしろ、『エピソード8』はできる限りの過去作への敬意を持って作られたと思います。しかし、一方でシークエルの第2章として新しい世界あるいは流れを打ち立てる必要がある。いつかは過去とはお別れをする時が来る……。その中での敬意です。

なぜ僕が「ライアン・ジョンソンは過去作への敬愛を持って『エピソード8』を撮った!」と言い切れるのかというと、ヨーダのシーンなのですよ。ファンの方ならピンとくると思いますが、霊体として戻ってきたヨーダは、プリクエルのVFXで生き生きと動く姿ではなく、オリジナルのパペットのぎごちなさと温かみを持って、改めてルークを導きました(時系列で見てもVFX→パペット→パペットなら流れがスムーズですね)。また、なぜアナキンとオビ=ワンは戻ってこなかったのか。追い詰められたルークの元に父が戻ってくるのは何らおかしくないですし、弟子が暗黒面に堕ちたという点ではオビ=ワンと通じるものがあります。しかし、ライアン・ジョンソンが(オビ=ワンについて)語ったところによれば、「ルークはユアン・マクレガーのオビ=ワンとの交流が無い」とのことでした。確かにそうです。ルークはあくまでアレック・ギネスの顔をした老いたオビ=ワンの弟子なので、ユアン・マクレガーのオビ=ワンに導いてもらうというのはどこか違和感があります(それでも僕はプリクエルとオリジナルの交差点として見たかったですが……)。よってアナキンとオビ=ワンではなく、オリジナルのヨーダをルークと引き合わせたシナリオは結果的に、見ていて何も違和感なくしっくりくる映像に仕上がりました。アナキンとオビ=ワンをわざわざ選ばなかった点や、前回の記事で説明したルークの人物像が過去作の延長線上にある点。それこそ、僕がライアン・ジョンソンが過去を葬ったりないがしろにしていることは無い、と感じる根拠です。

『エピソード4』へのオマージュと、これまでのナンバリングサーガの伝統を絶った点。決定事項としては物語全体は希望がある方向へ向かう事。そしていつかは過去とは決別をつけなければならなかった、という点でしょう。僕にはまるで、『エピソード4』(過去作)というインクで新たな物語を描き出したように思えます。

ファルコン内で、フィンが昏睡状態のローズにかぶせる毛布を引き出しから出すときに一瞬見覚えのある本の数々の背表紙が映ります。ヨーダが夜のオクトーの島で、フォースの木もろとも燃やしたと思われた聖典の数々は実は新世代のレイの手で持ち出されていました。よく数えてみるとその数は8冊あるそうです。非常にさりげなく、気の利いた形で『エピソード8』の過去に対する姿勢が表れたシーンでしょう。

 

 

 

これは完全に余談なのですが……先ほどエピソード1~9からなるナンバリングサーガは多層的な解釈ができる大河ドラマである、と僕は書きました。最近新たに気づいたのは、プリクエル=ジェダイの末期,オリジナル=シスの末期という見方です。ジェダイとシス、フォース信望者における象徴的な集団であり、対極の立場に居ながらどちらも1000年以上は続いています。ならば、シークエルに属する『エピソード8』でルークが述べた「ジェダイは私で最後にはならない」(←若干意訳しました)では、またしてもフォースのバランスが崩れ、再び(ジェダイとシスのイタチごっこ)歴史が繰り返されるのではないか、という懸念があります。実際、これを示唆するようなセリフが2015年9月に発売された小説『アフターマス』にあるのです。

しかし、同じく『えピソード8』で明かされた(裏)設定として、最初のジェダイ寺院であるオクトーの孤島には、あるレリーフがあります。それは最初期のジェダイたるプライムジェダイ。旧,新共和国時代に存在するジェダイ・オーダーのようにライトサイドのみを扱うのではなく、ライトサイドとダークサイドの両方に通じる存在だったそうです。前回の記事で、「ジェダイは今後ただライトサイドに傾倒した存在ではなくなるかもしれない」という予想をたてましたが、思わぬ形でこれが当たるかもななどと思っています。現時点のシークエルの展開自体は光と闇の戦いで、未だにルーカスが手掛けた6部作と構図は何ら変わっておらず 、悪く言えば二番煎じ止まりです。思わぬ形で『エピソード9』を手掛けることになったJ.J.エイブラムスですが、シークエルトリロジーが過去の二つのトリロジーとどう異なるから特別な意味合いを持つのか、9部作全体にどのような結末を迎えさせるのか。全ては彼の手にかかっているのです。

ちなみにR2-D2には今後個人的に興味深い役割(を果たす可能性)が残されています。

スター・ウォーズR2-D2の記録がウィル銀河史に収録されたものである

「ウィル銀河史」は、「草案や小説版の冒頭でちょっと触れられているだけの裏設定」ではありません。実はスター・ウォーズのストーリーを理解する上で、「ウィル銀河史」の上記の文章は重要な意味を持っているのです。
では、「ウィル銀河史」とは何でしょうか?
これは実は、長い間、わかりませんでした。何かよくわからないが、スター・ウォーズの話は「ウィル銀河史」に書かれているらしい。そんな位置付けでした。しかし、近年、少しずつその謎が明らかになりつつあります。
まず、ウィル銀河史とは、銀河で起こった重要な出来事を記録している歴史書のようなものらしいということ。そして、R2-D2が記録した情報が「ジェダイの帰還」からおよそ100年後にウィル銀河史に書き加えられたということがわかっています。
これらは「シスの復讐」のメイキング本におけるジョージ・ルーカスへのインタビュー等から明らかになったものです(今後設定が変更になる可能性はありますが、少なくともルーカスはそのように考えていました)。

出典:「ウィル銀河史」とは?

そう、R2-D2はナンバリングサーガで皆勤賞に加え、3POと違いこれまでの記憶をすべて持ったままなのですよ!いうなればスカイウォーカーサーガの生き証人。『エピソード8』の34ABY時点で67年は稼働している事に。また、上に引用したウィル銀河史についてもう少し知りたい方は引用元へ飛んでくださいませ。ウィル銀河史は原語だと"Journal of the whills"。実は『ローグ・ワン』でチアルートとベイズが「ウィルズの守護者」、ウィルズが何かはわからないもののウィルズ自体はカノンに組み込まれているのです。ウィルズというのはジェダイ以上にフォースと強いつながりと知識を持つ集団であり、銀河の歴史に関して半ば傍観的な達観的な立場をとっている……と推測できます。なお、銀河帝国ジェダイと共に粛清を受けたようですが。

ここでは説明は割愛しますが『エピソード9』でスカイウォーカーサーガ、すなわちナンバリングサーガは一旦完結を迎えるとされています。ここからは妄想ですが……『エピソード9』のラストシーンはR2-D2が寺院らしき薄暗い部屋で机に向かったフードをかぶった何者かにしきりに電子音を発している。その人物は「話は分かった、詳しくはまた後で聞かせてもらえないか」と言い、R2と共に部屋から立ち去る。机上の紙に書かれたオーラベッシュが示す題名と目次は「ウィルズ銀河史」「エピソード1/ファントムメナス、エピソード2/クローンの攻撃……」\Directed by J.J.Abrams/

とはいえ、以上に書いた『エピソード9』の予想は全くあてになりません。なぜなら、ライアン・ジョンソンが語るところによれば、ルーカス・フィルムはトリロジー全体の話の流れをあらかじめ決めているわけではなく、各作品を担当する監督にそのストーリーの方針を完全に委任する方針だそうです。『エピソード8』では『エピソード7』で思わせぶりに張られた伏線の数々が盛大にぶん投げられたことから(←言い方に問題あり)、次作の監督が今作の要素を丁寧に拾ってくれる保証は全くない。だからこそ予想がつかず、各監督によって仕上がりが違うSWを楽しめるという事でもありますね。

 

 

 

 

 

 

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(↑Earthdownfall72氏による作品です)

以上、僕が感じた『エピソード8』がナンバリングサーガにもたらした影響などに関する意見でした。自分では納得いっている考えなので、今は『エピソード8』はスムーズに楽しめるどころか、過去作もまた少し違った見方で楽しめるようにもなりました。一作また一作と撮り、気付けば壮大な規模に成長した現代のおとぎ話、スター・ウォーズ。新しく積み重ねられていく毎にサーガ全体に新しい意味合いを持たせたり、また違った解釈を可能にしたりと、見ていて非常に興味深い成長です。とても奥が深いこのシリーズはこれからもまだまだ深く、そして広くなっていくのでしょう。