『スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ』上映しているうちに書いた感想

なんと『エピソード8』について語る記事が3本目になってしまいました。いつの間にか出来上がってしまった『エピソード8』感想トリロジーはこれにて一旦完結です。ディズニーが『エピソード7』『エピソード8』『エピソード9』のシークエル・トリロジーや、ライアン・ジョンソンが舵を取る全く新しいSWトリロジーについて発表した時、興奮と共に「わざわざ3本も作って利益もガッポガッポか」なんて考えを持っていました(問題発言)(日本の伝統的思想)。しかし、ライアン・ジョンソンが新しいトリロジーについて述べていましたが、「三部作を通して一つのストーリーを語る」。自分でやってみてわかったのですが、ある物語を描くのに必要な規模や話数というのはあるのですね……それを実感いたしました。第1にあたるルークの記事で書きましたが、『エピソード8』感想について元々一本の記事を3幕に分けて書いていたはずでした。

 

しかし、あまりにも長くなりすぎたのでこうしてそれぞれ独立した記事として書いている、というわけです。各記事の文字数をチェックしてみるとおよそ1万字であり、自分でもびっくりしております∑(・ω・ノ)ノ

ここまで僕に感想を書かせるに至るとは、面白いか面白くないかは別として、『エピソード8』は並みならぬものが込められた映画、という証明になるでしょう。では、まず今まで実は述べていなかった僕の個人的な印象や感想を書いていこうと思います。ただ今回は僕の思考や感情が中心ゆえ、まとまっておらずに読みづらいかもしれません……ご了承いただいた上で読み進めてくださいませ

 

 

『エピソード8』感想

f:id:the-Writer:20180212214304p:plain記録として残すために、そして自分に嘘をつかずに正直であるために、これは言わねばなりません。『エピソード8』に関して、正直観る前から期待していたものではありませんでした。これは認めざるをえません。デザイン面ではTウィングとスノースピーダー以外は特に目新しいものはなく、エイリアン種族やカントバイトのカジノ描写もしかり。ファーストオーダーからの敗走劇という全体のプロット、キャラクター達の成長、どれも予想の範疇におさまるものであり、ガツンと殴りつけられるような衝撃は無かったです。前回「一度目の観賞時は『革新』のSWだなと思った」と書きましたが、実は言葉が足りていなかったです。所々に革新的な個所は見受けられるものの、全体としては結局「保守」に落ち着いていた、というのが正確な所です。期待していたアナキンとオビ=ワンやフォースの新たなる側面といったものはなく、スノークとルークは命を落とすという衝撃展開。そういった相対するものが相殺し合い、観終わった後は、例えるなら虚無というような心境でした。それから様々な方の意見や考察を読んでいった結果、作品のどういった特徴が独自で優れているかは、ルークの記事や『エピソード8』が果たす役割といった記事に書いた通りです。

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2度目以降の観賞で、一つ言える事。今作に対する印象を一言でいうなら、「物足りない」。なお、これはあくまで僕が今作に対して抱く数々の想いの一つでしかない事に注意してもらいたいです。また「物足りない」は決して「つまらない」ではない。変な方向に振り切ってそれこそ作品自体を台無しにするよりは全然いいと思います。この「物足りない」という感覚こそ、どことなく保守的なSWだと感じた大きな要因でした。そして「物足りない」からこそ、何度も観たくなるというのもまた事実です。

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プリクエルほど前衛的な、いわゆる攻めたデザインはあまり見受けられないものの、それはあくまで映画の表層的な個所にとどまります。スクリーンに映る舞台は相変わらず隅々までみっちり作りこまれており、スキがありません。今作は前作に引き続き、実物重視で撮ったため、ぎっしりとディテールが詰まっている映像は没入感を約束してくれます。また人物を映し出すカットもこれまでにはなかった新しい角度からだったのも印象的です。

さて、表層的な所から潜って作品の更に深いところ、その根底にあるもの。それは作品自体の構造、込められたメッセージといった類のものです(デザインやカット割りというのはそれを面白く見せるための仕上げなわけですね)。『エピソード8』のそれらがどれほど深いもので、観客の心に訴えかけてくるかは前2本の記事で書きました。

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とはいえ、一つのエンタメ作品として成立しているかどうかはどうでしょう、明言はできないです。『フォースの覚醒』はおおまかな流れは『新たなる希望』を参考にしたうえ、監督がJ.J.エイブラムスだったからこそ一つの起承転結、純粋な冒険映画として成立していました。一度目の観賞は、後述のいわゆるフィルターを抜きにしても、期待していたものがほとんど出なかったからこそ、静かな心境で観ることができた=スクリーンに映るものはとにかくありのままに頭に入ってきました。それによって生じる感情に、エンタメ作品を観た時の純粋な高揚はあまり感じられなかったですね。そもそも、その更に奥というか下の方に、ウォーザーとして築き上げた地盤があり、それが「これはナンバリングサーガとしてどうなの」と訴えかけていたから、あまり楽しいと感じられなかったのかもしれませんが。

2回目は、様々なキャラクター達が試練に直面していくストーリーが何本も並行に展開していきつつ、全ての展開がつながっているというのが印象的だったので、かなり楽しめるようにはなりました。

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そういう風にして作品の根底にある論理を理解したうえでまた映画館に足を運びました。その時には公開前に抱いていた予想や期待、それを裏切られたという気持ちはほとんど消え失せており、割とフラットな気持ち(=一般客の方とほとんど同じ心境)で観る事が出来たと思います。とにかく美しい。『エピソード3』を超えてくるほどの勢いで沢山詰め込まれている印象的な美しいカットの数々。

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スリリングな戦闘シーン。困難に直面しながらもキャラクター達が懸命に前に進み、変化していく様。「失敗こそが最良の師」という教えや、過ちを犯して憔悴しきっていたルークが伝説のジェダイとして復活する展開など、心にしみる作り。ラダス,スプレマシー艦内や、カントバイト、クレイトなど隙なく作りこまれたSWの世界を巡る「エキゾチックな」体験。目には見えないものの、希望を感じさせる結末。僕は『エピソード8』がすっかり気に入ってしまいました。今や『エピソード8』に対する否定的な感情がほとんどないからこそ、スクリーンに映し出されるものを抵抗なく受け入れ、楽しむことができているのだと思います。実際、4回目は心の底から楽しめました。こんなに面白く、素晴らしい映画を撮ってくれたライアン・ジョンソン監督および製作チームには感謝と尊敬の念しかありません。

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プロットの大きな穴として僕が気になっていたのは、「ホルドーがなぜラダス放棄作戦を特にポーに伝えていないのか」という事でしょうか。これは僕の脳内捕捉によるものですが、ホルドーは今や銀河に希望をともすレジスタンスという最後の砦の長です。今までハイパースペースに入れば敵はほぼ間違いなく追手は来れないという絶対領域が侵されたことで、敵がハイパー・スペース・トラッキングという技術を持つ可能性のほかに、レジスタンス内部にファースト・オーダーのスパイがおり、いちいちラダスの座標をリークさせていたという可能性も考える必要があったことでしょう。必要最低限のクルーや、自分が絶対に信頼できる部下にのみ、その作戦を伝えていた……という事で僕は納得しました。とはいえポーに対する態度が必要以上にキツいというのはありますが。また、「主人公であるはずのレイが薄味」という声があります。これは僕もそうだな、と思ったのですが逆手に取りました。「SWは人間たちの群像劇だよ」「これからは誰でも主人公になれるんだよ」と宣言したのが『エピソード8』、と僕は思っています(詳しくは前回の記事をご参照ください)。ならばそれをを宣言した立場上、作品の作り自体がそうなってもおかしくないという事です。つまりレイを主人公として彼女ばかりが強く、おいしい展開ばかりを迎えるのではなく、登場人物全員に必要な尺が与えられ、それぞれが乗り越えるべき試練に立ち向かっていく様子をできるだけシームレスに描いた……それが『エピソード8』であると。平たく言うなら、『アベンジャーズ』のような感じですね。

(↓IMAXポスターをチョイスしたのは単純に僕の趣味です)

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やはり前後編というのは面白いですね。余裕があった時に『エピソード7』を最後まで見てから映画館に足を運んだのですが、『エピソード7』と『エピソード8』はナンバリングサーガでは異例の直結した2作です。お互いに影響を及ぼし合う興味深い2部作であり、とても楽しかったです。まさしくどっぷりとSW漬けの幸せな時間でした(*´ω`*)

ただやはりタイムラグというものができてしまうので、はやくディズニー・ジャパンによる『エピソード8』円盤の発売告知がほしいですね~。物語はシームレスに直結しているものの、同じキャラクターの成長や作品間の描写の変化も面白い。J.Jは非常にオードソックスな印象の映像を撮り、ライアンはより濃く、見事な味わいの映像を撮りました。自宅でこの贅沢な2部作を連続して観られる日が待ちきれません!

 

考えさせられた「好き」の哲学

中国では公開1週目で90パーセント以上の劇場が『最後のジェダイ』の公開を終えてしまったそうです。『ローグ・ワン』との扱いの差が顕著です(全世界興行収入では『最後のジェダイ』は既に『ローグ・ワン』は超えている)。

とはいえ、僕の近辺で『最後のジェダイ』を見に行った7人に直接聞いてみたところ、例外なく「面白かった」と言っていました。彼らの共通点は新規ファン、いわゆるこれまでのSWを一切知らない、あるいはライトなファンであったということ。まだ僕のように確固たる地盤(こだわりや望み)がなかった、ということです。

ここで湧いてくる疑問が「SWは、そもそも映画館にあまり行かないような人が楽しめたらそれでオーケーなのか?」という事です。映画館というのは自宅と違って、巨大なスクリーン、響き渡る音響、ゆったりとしたシート、照明を切った空間、漂うポップコーンの匂い……など、上映される映画に集中できる環境です。これをまとめて「劇場効果」と呼ぶとして、仮に観たのが駄作であってもそれを「面白い」と感じたら、その映画は本当に駄作なのか?という事です。劇場効果によって駄作が傑作という矛盾が生じてしまう可能性があります。

 

 

 

とはいえ、そもそも映画に「これは傑作、これは駄作」と決められるような、絶対的な面白さの尺度なんてあるのでしょうか?映画も広い視点で観れば、芸術に属します。10人いれば感じ方も10通りある、それが人の感性です。そんな人の感性が製作側と観賞側両方に関わってくる映画というものには、絶対的な正解は存在しないという事です(いわゆる絶対主義ではなく、相対主義)。強いて何かしら評価の基準をもうけるなら、どれだけ多くの人を満足させられたか、ではないかと。

そもそも傑作、駄作というのは誤解や衝突を招きかねない言い方です。世間で傑作と絶賛されるものが自分にはつまらないかもしれないし、駄作とボコボコに言われている一本がツボにはまる大好物かもしれない。傑作、駄作という表現を使う分には問題ないとしても、本来はそのまえに「個人的には」という文言が入るのでしょうね。

「SWのように多くのファンが存在するような作品はファンと一般客、どの層をターゲットにして製作すべきなのか」。これに関しては議論がなられるべき議題ですが……前回の記事にも書いた通り、ライアン・ジョンソン監督は彼なりに丁寧に過去の作品(およびそれが好きなファン)と向き合ってくれ、満足度の高い物語を創り出してくれたと思います。慣れるのに時間はかかりましたが、ウォーザーである僕は今作が好きです(とはいえ、僕のようにうんうん考えた上で「やはりだめだ」という方もいると思いますし、むしろそっちの方の方が多いかもしれません)。という事で、映画に関して絶対の正解や見方などあり得ない、と言った後にこう言うのもなんですが、今作はSWの伝統や常識を壊したことでファンを蔑ろにしたように見えながら、実はファンの事も非常に大切にして作られたSWだと思うのです。

そして、どうしてもだめな作品は恐らくファンと一般人、両方からはっきりNOを突き付けられ、それが興行収入というわかりやすい形に数値化されて現れる(ハズ)でしょう。僕としては、一度目はプロット上の穴として気になった点も、二度目は自分なりの解釈を持ってその穴を埋め、滑らかな一本の娯楽映画として楽しめました。もうそれで良い。僕の中で『エピソード8』は傑作、好きな映画、思い出の一本という位置づけにしっかりと収まったのです。そしてウォーザーとしても、これはナンバリングサーガに連なるれっきとした一章として胸を張って言えます。

(あくまで僕の主観で話している事を念頭に置きつつ)僕はどんな面白い映画も、つまらない映画もなんでも受け入れて楽しめる雑食系ではありません。大金を投じて作られ、大いに期待していって「つまらない」と明確に感じるものはいくつかあります。幸い、『エピソード8』はそれには入ることはありませんでした。なぜなら、優れたものが映画の根底にある(と感じる)からでした。ライアン・ジョンソン監督および製作チームが全力でぶつけてきたものに、僕は全力で挑みました。図らずとも、それはファンとしての僕を根幹から揺るがし、結果的により強固な、そしてある程度は柔軟な考えを持たせるに至ったと信じています。

それとも、僕は『エピソード8』が期待に沿う出来ではなかったからと言って、自分自身を無理矢理納得させ、「あれは最高のSWだった」「面白かったんだ」と洗脳しているのでしょうか?例え傍から見たらそう見えても。(結局は僕の主観による話ですが)ぼくは違うと思っています。改めて冷静になったうえで2度目の観賞で、オープニングの高速な宇宙戦で感じたスリル、レジスタンスの兵士の犠牲の悲しみ、スノーク謁見室の緊張感あふれる決戦、ルーク関連の感情に訴えてくるシーンの数々など……これらの感情は作り出せるものではなく、ましてやウソではないはずです。レイアとルークはそれぞれフォースを使って「空を駆ける者」=スカイウォーカーを最後に体現してくれました。

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オクトーの自然は素晴らしく、クレイトのスピーダーによる滑空はのびのびとした感じが良い。純粋に素晴らしいからこそ、心から自然とそういう感情が湧き出てくるのだと思います。

 

 

 スター・ウォーズに対する理想的な姿勢とは

『最後のジェダイ』はファンほど振り回され、ライトな人ほど楽しんでいる……そんな印象があります。この差はいったい何なのでしょうか?SWの特徴として、その世界はとても広大な上に解釈の余地が深い、というのがあります。ファンを続けていると、知識と解釈、それによって出来上がるSW像というのが形成されていくの気がします。「SWといえばコレ!」「SWとはこうあるべきだ」と、これらを「拘り」と書いていきますね。SWについて詳しくなっていくのは結構なことですが、それは時としてしがらみにもなると思います。今回のケースがまさにそれではないでしょうか?ファンの期待とはどこか違う、「拘り」に真っ向から挑むような作りだったからこそ、多くのファンが困惑しました。しかし、逆に「拘り」というのものが一切ライトなファン、あるいは完全な一般人客は普通に楽しむことができたと。

↑引用させていただいたこのツイートに、SWに対する理想的な姿勢の(一つの)答えがあると思います。

ある作品が好きでファンになり、もっと好きになる。そのうち「拘り」ができていく。それ自体は何ら悪いことではないですし、個人の自由です。しかし、SWとなってくると、その世界があまりにも広く、深すぎるのです。万に一つ、もしくはそれ未満の確率で製作側と自分の好みが一致しない限りは、SWに対する過度な期待などはかえって自分を苦しめる可能性があります。それが表れたのが、今回の『エピソード8』でした。今まで積み上げてきた期待を裏切られたからこそある人は衝撃を受けたり、嫌いになったり、そもそもその作品とは何でなぜ好きになるのか哲学を始めたり……。厄介なことに、特に僕のような人間はあれこれ考えてしまうので、作品との適切な距離というのはこれからおいおい見つけ出していくしかありませんが……

SWは何が来ても受け入れる、そんな心意気で観に行くのが良いのかな、とすら今は思います。思えば、SWは根底にあるものは普遍的・人間的なものであっても、表層となる映画としての作風ですら、作品毎にずいぶん違うと思います。というかもう、バラバラです。『エピソード1』から『エピソード6』までのルーカス6部作は、どれもルーカスが深くかかわっていますが、同じようなものはどれ一つとしてないと僕は思います。それはあたかも、三次元空間に様々な方向を向いたベクトルが存在しているといった具合です。太さも長さも方向も、それぞれが全く違う多種多様な矢印が、そのSWという空間に存在しています。

 

 僕がまだSWにハマりたてのころ、実は『エピソード1』のナブーや、『エピソード6』のエンドアなど、正直SWとして好きになれないものはいくつかありました(時間が経って、今ではすっかり慣れて「これもSW」として受け入れています)。今は『エピソード1』から『エピソード6』まで、「はい、これがSWですよ」と言わんばかりに全てバーンと揃っています。多少は「ん?」と思うところはあれど、6作を連続して家のテレビなどで楽しめるようになっているので、その一見してまるで規則性が見いだせない膨大な世界をSWとして、ありのままに受け入れることができます。SWとは、常に受け入れの連続の歴史だったのではないでしょうか?

SWは楽しめればそれで良いと僕は思います。大金を投じ、映画を何作も撮ることで時間をかけて一つの大きな物語を形成していく……それがルーカス・フィルムがとっているスタイルです。その間にできていくSWファンの総数というのは恐ろしく大きく、時間が経つうちに「オリジナル世代」「プリクエル世代」「シークエル世代」というように、世代が形成されていくほどです。そうやって時間をかけつつ、つくられた作品群は世代ごとに作風が違い、更にそれを観て育ったファンたちの好き嫌いは世代によって多少の差異ができます。よって全員を満足させるのはまず不可能なシリーズと言えるでしょう。

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製作側でさえ試行錯誤してSWサーガに新しいものを少しずつ積みあげていっているわけです。この考えが良い、この姿勢が正しい、というつもりは全くないですが、僕はこれからは「これもSWなんだな」と受け入れるような気持ちで臨もうと思います。ただどうしても好き嫌いというのはあるので、そこは無理して変える必要はないですし、個人個人の感性としてむしろ保ち続けるべきです。好きも嫌いも、SWとして受け入れる。「そういうものだ」と。それが、『エピソード8』を経て僕が得た新しい見地でした。 

少々話はそれますが…

…『エピソード8』という前作以上に賛否両論な作品をリアルタイムで観て、大勢の観客の方々の感想を見て思ったことがあります。「肯定派・否定派はそもそも関わらないで良いのではないか」と。両方の意見を熟知するのは余程の熟練のファンか制作側で十分だと思います。僕は今作が好きです。好きだからもっと好きになりたい。感性に間違いというものはありません。好きでも嫌いでも良い。しかし、感性という根本的なものが違うからこそ、基本的に好きな人と嫌いな人とは分かり合えないと思うのですよ。突き詰めてしまえば、同じものをどう感じるかですから。感じる方向が根本的に違うのです。僕は今ひたすらこの『エピソード8』が好きになっています。そして、せっかく好きになっているのだから他の方の否定的な意見にはできるだけ流されず、この感情はずっと保ち続けたいと思います。なぜかというと僕は周りの意見に影響されやすいので、「あのシーンだめだったよな」という声を聞いた後だと、せっかく自分が好きなシーンでも素直に楽しめなくなったり、以前ほど高揚が湧いてこないんですね。それはまるでガラスが曇ってしまうように。 好きな人は好きな人で、嫌いな人は嫌いな人で、それぞれがやりたいようにして自分の感情を深めていけばいいと思います。

気をつけたいのは、(特に作品に否定的な評価を持つ場合に)あくまでその感情は作品に対して向けるべきであって、他人(特に意見が異なるような人)に向けてしまわないようにする事です。自分と正反対の正義を持つ人との議論というものに慣れていないと、不毛な争いになりかねません。作品に対してなら何を思っても良い。しかしそれを頭の中に留めず、誰かに見られる形で残すなら。更に異なる意見を持つような他の人たちに言及するならば、細心の注意を払うべきだなと思いました。好きになる人、嫌いになる人、好きになろうとしてる人……一人一人がそう感じ、それぞれ独立した思考をする人間なのだから作品に対してどう感じるかなどは自由です。だからこそ、そんな個人の自由を侵害しないように気をつけたいですね。 

 

 

 

 

 

最後に、SWはあーだこーだアレコレ語りましたが。結局は「楽しむ」、これに尽きることだと思います。前回の記事に引用したジョージ・ルーカスの発言より、とにかく彼は自分が楽しいと思うものを詰め込むことで、観客が楽しいと思えるような映画を撮りました。SWは元々は楽しむためにつくられました。娯楽です。だから、『エピソード8』や『ハン・ソロ』といったウォーザー達の間に激震が走るような作品が公開されていく今、SWにはまっていく人たちが羨ましく、幸福に思えます。なぜなら事前の先入観といったものが無いまっさらな状態で、純粋な視点でド迫力のSWを映画館で体感し、その世界に入り込めるからです。今やウォーザーとしてたくさんの知識を身に着けた僕ですが、やはり深く考えずに楽しめるのがベストだなぁと思います。SWに関して様々な知識を身に着けたことで、僕は一般客の方のように純粋に無垢な状態でSWを観ることはかなわなくなってしまいました。あれこれ考えてしまいます。もう後戻りはかなわないのです。

だからといって、後悔はしていません。2015年の『エピソード7』を起点とする、ウォーザーとしての濃密な数年は後からでは絶対に手に入らず、唯一無二の楽しい時間だったと確信しているからです。『エピソード8』はSWに対する姿勢を見直し、より「強くなる」ための試練の時でもありました。これからも僕は色々と予想や考察を立てて、作品を見た後は自分なりに何かを見出し、論理を紡ぎ出していきます。僕はそうして僕なりにSWを楽しみ、それはいつか思い出になっていくと思います。

人間は主観的な生き物です。かの著名な哲学者ニーチェは「世の中に事実は存在しない、あるのはただ解釈のみである」と言いました。何かが人の口を通して語られる時、その時点で(言葉を介する時点で)その人のなんかしらの解釈などが入る、という事が考えられます。SWに対して抱く思いが肯定的か否定的かにしろ、語るその人は何かしらのフィルターを通してSWを見、語っていると言えます。そのフィルターを変えられる可能性がより高いのは、フィルターを形作る感情や印象ではなく、論理である、と僕は思います。幸運な事に、最初は否定的な評価をしていた『ローグ・ワン』と『エピソード8』を最終的に受け入れ、好きになりました。これは様々な方の考察を読んだり、自分なりにそれらの作品と時間をかけてじっくり向き合った結果です。

僕は今、自分の考えをここに書きました。僕にとってはただの記録、あるいは備忘録でしかありません。しかし、インターネットに公開している以上それは誰かの目に留まり、その時僕の書いた記事はただの記録以上の何かとなります。できれば、まだ好きではないがどこか諦めきれない、SWのある作品にそんな割り切れない思いを抱いている方を少しでも手助けできれば。視点の幅を広げてもっと楽しむ事につながれば、僕はとてもうれしいです。ファンとして。オタクとして。先に書いた通り、作品や他のファンの方との適切な距離を保ちながら。純粋に「楽しむ」という気持ちは、ずっと持ち続けたいと思います。

 

 

 

 

 

 

Next……?

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