サノスが抱える「正義/悪」の均衡

2019年4月末、2008年から始まった一大巨編の物語が完結を迎えました。アイアンマンに始まり、個性的ないきさつをたどりながらそれぞれヒーローへと成長を果たしていった人物たちがそれぞれの困難に直面し、時に絡み合いながらそれぞれの物語が一つ一つの映画としてパッケージされています。僕は何度も言うのですが、このマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)に「ハズレはない」んです。f:id:the-Writer:20190512113539j:plainこの2008年からのMCUの一連の歴史の常に裏におり、時に直接地球に干渉し、影響を与えていたのがサノスという人物でした。MCUを統一する軸の1つであった彼には「最強を超える敵」という謳い文句がふさわしく、2012年の『アベンジャーズ』に始まり、各作品でその存在感を少しずつ出しながら監督のルッソ兄弟らが手掛ける二部作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』,『アベンジャーズ/エンドゲーム』でその全貌がこれでもかと明らかにされました。ジョシュ・ブローリンの演技、クリストファー・マルクス,スティーブン・マクフィーリーの書く台本、ルッソ兄弟の演出、トレント・オパロックの撮影、VFXスタッフらの尽力によって、この映画史に残るヴィランは完成されています。

MCUにおけるルッソ兄弟が手掛ける作品に特徴的なのは、常に「脱・構築」つまりそれまでの秩序をぶっ壊す展開と共に、容赦のない話運びでした。彼ら自身が幼いころは『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』を何度も観たというように、映画やその体験を非常に愛している映像作家です。その何にも代えられない体験を観客に届けるために、そしてその体験を残すため、ルッソ兄弟は物語上の危険を冒すこともいとわないです。

IWは観た方なら納得してもらえると思いますが、この映画は徹底的なまでにサノスに尺が与えられていました。それまでの典型的な「鎮座している悪の帝王」という印象から脱却するかのような理知的な言動と思わぬ感情的な一面、現実問題を捉えた思想、それらすべてを超えるほどの圧倒的な強さと残虐さ……。f:id:the-Writer:20190505154442j:plainヴィランであるはずの彼が行動を起こすことで場面が動くのでともすればヒーローたちは最後まで徹底的に振り回されていたとも言えます。また、複雑な彼の立ち振る舞いを観察していると、主人公であるはずのヒーローたちの思想や行動が揺さぶりをかけられ、ヒーローとヴィランとは意外と表裏一体なのではないかと言う不安定な思考を残していきました。よってIWを観た後に尽きない議論とは、やはり「サノスは悪なのか」という事でしょう。これは非常に難しいものであり、とても結論が出るようなものではありませんでした。EGではその議論を仕掛けた張本人であるルッソ兄弟たちがちゃんと結末を用意してくれたと思います。非常にありがたいことです。以下からは完全に僕の個人的な意見となりますので、それをご了承できる方のみ読み進めていただければ幸いです。

 

正義とは、何か

まずサノスが提起してきた問いを僕なりに突き詰めてみます。

まず正義とは何でしょうか?一般的な意味では「正しいこと」とされています。そして正しいとは何でしょうか?ここから答えるのが難しくなっています。古代ギリシアの哲学者プラトンは「善のイデア(注釈:本質のようなもの)を追求する事」と言い、近代の英国人哲学者ジェレミーベンサムは「最大多数の最大幸福」と言います。

ここでそもそも「正しい」という言葉。僕の解釈では「すでに存在する指針や基準に、何かがあっているか・そうでないか」を判断する言葉です。善という基準があるならば、それに沿ったことは正しいことです。その善は何か?という問いが、上記に一部紹介した様々な人間が述べてきた意見です。プラトンの師であり、著名な哲学者であるソクラテスですら、この問いに明確な答えを出すことはできませんでした。もちろん僕も善が何かはわかりません。最低限のもので生を営むことか?困っている人を助けることか?ひたすら快楽を追求することか?ただ今の僕が言えるのは、善のためには「人権」を守ることがカギだと思っています。

人権宣言の第1条と2条は「すべての人間は、生まれながらにして尊厳と権利とについて平等である」と述べ、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位によるいかなる差別を受けることなく」世界人権宣言に掲げるすべての権利と自由とを享受できると規定している。

来年2020年は世界初の国際機構・国際連盟が産声をあげてから100周年ですが、国際連合が1948年に採択した「世界人権宣言」によれば人権とは以上のようなものです。また引用先にはどのような権利について享受できるのか、その詳細が書いてあります。僕なりに平たく言い換えるのであれば、人権の考えのもと、人は他人に迷惑をかけない限り何でも好きにやってよい、ですかね……。

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ディズニー・ジャパンが公開している本編映像でサノスの行動原理が克明に語られています。自身が征服した惑星の「その後」についてこう説明します。「小さな犠牲で大勢を救った」「簡単な計算だ、宇宙も資源も限りがある」「命に歯止めをかけねばいずれ滅びる」「修正が必要だ」放っておけば生命は留まるところを知らず、膨張を続けていずれ自身の居場所を食いつぶし、餓死あるいは内戦によって自滅の道をたどる……そうならないよう、全生命は半分にする必要がある。間引きは公平を期するために貧富も分け隔てなく完全にランダムに、平等に行う。それは私利私欲による虐殺ではなく、宇宙の未来のための「救済」である。f:id:the-Writer:20190510212225p:plainサノスはその目的を達成する手段に力を用いることを選び、その究極が全インフィニティ・ストーンを集めて発動する「デシメーション」でした。発展途上にある生命はいずれその限界点を突破し、滅びの道をたどるかもしれません。実際、今資源不足で苦しんでいる星がいるのなら力を持った自分が介入することで、その星の未来を救う……自身の従える軍勢を用いた圧倒的な力による一方的な征服は当然第三者の目から見れば不当であり、残虐です。しかし例え誰から理解されることは無くとも、どんなに汚い手段を使おうとも、自分が信じる正義のために、たった一人になっても他の人々の未来のために行動を起こし、突き進む……こうして冷静に活字化すると、彼のやっている事は「ヒーロー」そのものです。

こうなると、紫の恐ろしい巨人が理知的に計画を立て、圧倒的な速度と軍事力で順調に目的を達成していっているのは、ただの視点の違いであり、正義と正義の痛々しいぶつかりあいだったのではないか、とすら思えます。更に、その正義へと至る過程で力を用いるのは今までのMCUのヒーローたちもやってきたことでした。アベンジャーズとサノス軍、彼らの間に違いなどあるのか。他の人々の未来のために戦った結果、アベンジャーズはまた一人のヒーローの前に敗北しただけなのではないか、と。

(削除されたルッソ兄弟のインスタグラムより、リハーサル風景。写真右からサノス役のジョシュ・ブローリン,ジョー・ルッソ共同監督,アンソニー・ルッソ監督)f:id:the-Writer:20190510214846j:plain

 

究極的に利他的なのに利己的な人物

……しかし、これこそルッソ兄弟が意図していたところではないでしょうか。公開前の関係者へのインタビューでも複数回言われている通り「IWはサノスの映画」なんです。悪役であるはずのサノスが思いもよらぬ繊細な表情を見せ、知性的な思想を語り、圧倒的な戦闘力で立ちはだかるものを叩き潰し、音楽などの演出はサノスをヒーローと認定し、彼の勝利に終わる……。彼の語り口調がもっともらしく編集されてるので、「もしかしてサノスは正しいのかもしれない」と思うのはむしろ当然であり、監督が意図していたミスリードであると思います。ミスリード(miss-lead/read)、叙述トリックなんです。f:id:the-Writer:20190510224414j:plainサノスという人物像の核になるのが暴力性です。サノスはIWとEGの二作通して遺憾なく描かれましたが、彼がともすればヒーローのように描かれているIWでも随所でその残虐な性質が顔をのぞかせています。戦いは「楽しみ」・ロキに兄とストーンの選択を迫る際、そして首を絞める時に笑みを浮かべる……といった細かい描写、究極的な「全生命を半分にする」という結論。もしも宇宙の全生命を救いたくて、全能の力をふるえるインフィニティ・ストーンを揃えたなら他にも手段はあるでしょう。資源を倍増させる・問題解決のインスピレーションを全生命に与える・資源が無駄なくいきわたるシステムの構築など、ストーンの力を使えば実現できる案はいくつも考えられます。しかしサノスは平和的な考えに至らず、例え至っていたとしても暴力による道を選びました。もしかすると、ただ他の生命にチャンスを与えるよりも犠牲を払わせることで、そこから恐怖による学習・成長を期待していたのかもしれません。また、IW予告編にあったものの本編から削除されたセリフとしてこんなものがあります。

"Fun isn't something one considers balancing the universe. But this, ha ha ha...does put a smile on my face."(訳:悦びというのは宇宙に均衡をもたらす者がもつものではない。だがこれは、ハハハ…顔に笑みが浮かぶ)

そしてEG終盤で2014年より襲来したサノスは、救済すべき宇宙をひとまず完全に破壊しつくし自分の思うままに作り上げる事・自分に最後までたてつく地球を滅ぼすのを心の底から楽しむ事を告白します。大義の裏に隠れた暴力性がIW以上に表に出てきているのです。f:id:the-Writer:20190510231545j:plain先に挙げた暴力性が先天的なものならば、共感性の欠如は後天的なものかもしれません。個人に他人の自由を奪い、人権を侵害する権利などありません。しかしサノスはむしろ「自分こそ感謝されるべき」、「誰もやらないことを自分がやっている」という真逆の考えを持っています。他者へ同意なき犠牲を強いますし、その際に躊躇や後悔も感じません。ルッソ監督は以前のインタビューで「サノスを次世代のダース・ベイダーにしたい」という意気込みを語っていました。コミックの紫色の醜い巨人といういかにも悪役といったキャラクターを、残虐でありながら複雑で映画史に残るキャラクターにする際に彼らが目指したところが、ソシオパス的な特徴を取り入れたことです。ソシオパスとは日本語では社会病質者とされ、反社会的パーソナリティーに属する心理状態にある人間のことを指します。心理学的に明確な定義はない(あるいは難しい)のですが、・他者への共感性が著しく欠けている事・先天的でなく後天的に身につける心理性である事、とされています。彼は(意外にも?)義娘のガモーラを、手段は歪んでいても心から愛していました。それも無償の愛があったと言えるかもしれませんが、彼のような共感性といった思いやりが欠如していると嫌がる娘を殺害するという突き抜けた悪を働きかねないです。f:id:the-Writer:20190518202957j:plainサノスは主にこの二点においてタガが外れています。ただ目の前の欲しいものを手に入れたいから暴力をふるうという私利私欲で動く破壊者ではなく、大義のために暴力をふるって他者に犠牲を払わせる上にそれを正しいと信じ込んでいるから、サノスは複雑で厄介なヴィランなのです。信じ込んでいるどころか「私は誰もやらないことを仕方なくやっている」と自分を悲劇の主人公に見立てるある種の自己陶酔、沈痛な面もちで突き進む止められない勢いがあります。腕力と共に、彼が自身の望みを達成するのに授けられているのが知性です。狂ってはいるが知性的な彼は、綿密に計画を立て、必要なものを着々と集めています。ハルクとの戦いを観ればわかる通り、彼自身も非常に実践的な格闘術を身に着けていますし、従える軍勢の運用も非常に高度です(これについては以下に引用するツイートをお読みください)。

宇宙の救済という究極の目的はわかりますが、目的に至る手段やそれを固める論理がどこか狂っています。彼は大のために小を犠牲にするという考えを掲げることで、半分の抹殺を主張します。実際この「犠牲が出る」という考えそのものは間違っているわけではない、と僕は思います。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でスティーブはラゴスの事故で出た犠牲者のニュースに関しては、「この仕事は、できるだけ大勢を救う事だ。いつも全員を救えるわけじゃない。けどそれと折り合いをつけないと、次に誰も助けられなくなる」と見解を示しています。f:id:the-Writer:20190512002706j:plainただし注意したいのが、スティーブとサノスはどうやっても犠牲が出てしまう同じ現実を生きている中で、前者はそれでも犠牲を少なく済ませる方法を模索して諦めないのに対し、後者は自身の計画への踏み台としている事ではないでしょうか。

更に、スティーブほかアベンジャーズたちは必要とあらば自分を犠牲にするのは全くいとわないですが、サノスは徹底的に自分が他を救うためにまずは他を犠牲にしています。自分が死ぬことは特に何とも思っていないのかもしれませんが、救済は自分にしかできないと信じている以上、自分が目的を達成するまでは死ねません。ある意味究極の利己的な姿勢、とも言えます。

ウェブ・メディアUproxxとのインタビューでは、兄のアンソニー・ルッソ監督と弟のジョー・ルッソ共同監督がそれぞれ説明をしています。

アンソニー「映画を通してサノスの高貴なところは自身のエゴのために動いているのではない事。彼は全宇宙の生命の半分を殺すことで残りの半分に均衡や平和、新しい人生や喜びがもたらされることを信じている。自身をその使命に捧げている。彼は不必要な殺しはせず、自身の目標への障害となる場合のみ殺している」

ジョー「結局のところは彼は殺人者だ。私情を持ち込むことなく公平を期してランダムにするとは言っているので、彼の計画には利他的な側面があるのだが……それでも非常にゆがんでいる。彼は精神的に健全とは言えない。どこかのネジが外れている。言うなればメサイア・コンプレックスだ」

出典:Where Is Thanos At The End Of ‘Infinity War,’ The Russos Explain

 メサイア・コンプレックスとは自分こそが人を救わなければならない、と自分を救世主と同一視する一種の妄想状態を指すとされています。

 

狂気のタイタン人が「救世主」の鎧を着こむまで

と、ここで何があのサノスと言う人物を作り上げたのか?というのも考察していきたいです。サノスが語る過去と共に、僕の推測も交えて書いていきます。

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(上から順に、IWにコンセプト・アーティストとして参加したJerad S.Marantz氏がインスタグラムで公開したタイタン人のコンセプト・アート, Ryan Yang氏がTwitterアカウントの@MarvelTalk01を通して公開したタイタン人の家族と若きサノスです。クリップ映像中、過去のタイタンの幻影にも遠目に写ってはいますが、彼らと比べるとサノスの異質さが際立ちますね)

惑星タイタンには高度な文明を持つタイタン人が繁栄。サノスはその社会にタイタン人の男性・アラーズと女性・スイサンの息子として誕生しました。サノスのオリジンたる幼少期について、アメリカの映画専門誌Entertainment Weeklyとのインタビューではサノスを演じたジョシュ・ブローリンが、インドのメディアThe Telegraphのインタビューではジョー・ルッソ共同監督が語っています。

基本的にタイタン人は全員似たような外見をもち、生まれたサノスは奇形の子でした(彼の顔面を注意深く見てみると、剃ってありますが髪や髭の跡が見えるのでタイタン人の例にもれずちゃんと毛もあったようです)。そのせいで彼は怪物として疎まれ、狂気においやられたとされています。その一方でその時には既にタイタンは人口増加による資源の枯渇が深刻な状態でした。サノスはその救済策として「人口の半分を分け隔てなくランダムに減らす」ことを提案しますが、それが彼を追放へと追いやります。結果として惑星タイタンはIW本編で描かれた通り地表は荒廃し、地軸は元よりも傾くことでとても人が住める環境ではなくなり、結果としてタイタン人は全滅___ただ一人サノスを残して。これが彼の「宇宙にバランスをもたらして救うにはその半分を減らさなければならない」という思想の元になり、以来各地の星々を襲ってはその人口を半分に減らしています。f:id:the-Writer:20190518223832j:plainまずサノスは生まれ持った肉体が異形であったために周りのタイタン人、ひいては家族すらからも避けられていた可能性が高いです。仮に人を力で支配し、傷つけることに快楽を覚え、それに躊躇を感じないという暴力性は先天性のものとして__その性格に、元来の醜い外見に対する周囲からの嫌悪が加わるとどうなるでしょう?例え子育てのプロでなくとも、その子の性格が歪んでいくのは想像に難くありません。社会病質性は後天的に得られるもの、とされていますが外見が美しく統一され、高度な文明の恩恵を受ける社会の隔絶に会った結果、彼は人の気持ちとの付き合い方がわからなくなったのではないか、と思うのです。一方で腕力と共に自分の望みを実現させるだけの知性を持っていますし、人の感情を自分の損得勘定に入れることはできなくとも、自身の感じる感情は本物です。自分を受け入れてくれない社会なら離れてもよさそうなものの、人口増加による資源枯渇、そして故郷の滅亡という現実を知ると解決策を熱心に提示して救おうとする辺り、彼は故郷を愛していたのではないでしょうか?結果として彼は何も手出しができないよう物理的に隔絶された結果、何もできずに滅んでいく故郷をまざまざと見せられました。
サノスは誰にも受け入れてもらえず、愛していた自分を拒絶した故郷も自分に耳を貸さずに予想通りに滅んだことで、外に目を向けたのだと思います。自分の惑星は滅んでも他の惑星には同じ道を辿ってほしくない。やっと自己実現をできる場こそ「宇宙の救済」だったのではないか、と思います。力をふるいたいという根源的な欲求と、自分を拒絶したものの愛した故郷が目の前で滅びゆく強烈な、トラウマ的な経験。彼は暴力による救済に、自分のアイデンティティーを見出したのではないでしょうか?そこでは持て余していた腕力と知性を使えます。知力はこれからの自分の方向性を決める計画を立て、腕力は自分の邪魔をするものを叩き潰し、何があっても突き進むために。f:id:the-Writer:20190518203010j:plainここからのサノスの征服記、彼がいかにして帝国を築いていったのかという経緯も考えてみるとかなり興味深いと思います。自身が人口を半分にした惑星からただ一人幼子を誘拐し、自分の教えで洗脳して「サノスの子」とした事。チタウリ軍を従えた事。どう猛かつ使い捨てにできるアウトライダー軍を作り出した事(原作コミックでは人造生物とされています)。いつものように征服した新しい惑星で本当に愛する娘を見つけ、家族を持ったこと。どこかの時点でインフィニティ・ストーンの伝説を知り(どこかの惑星で秘宝としてセプターを手に入れた時か?)、ニダヴェリアのドワーフたちを脅迫してストーンの力を使いこなす装置ガントレットの製作を強制した事。その後、大勢のヒーローたちの抵抗を受けながら「均衡」を達成したサノスが一人引退して穏やかに暮らしていた農場でどのように生涯を終えたのか思うと、また胸に来るものがあります。

 

サノスはヒーローではなく、アベンジされるヴィランである

f:id:the-Writer:20190510225234j:plain僕にとって、サノスというキャラクターを理解するカギは「自己中心的」である事です。究極的に利他的な目的で動いているはずの人物が、実は非常に利己的である__思い切り矛盾しているようですがそれを両立した結果、あの独特の気味の悪さを持ち得たのが彼です。 目的達成のために、誰かの人権を踏みにじる暴力を躊躇なく使う……それは今まで描かれてきたユニバースに誕生してきたヒーローなら絶対やらない事でした。確かに暴力は振るいます。しかし、それは敵が暴力を行使してきたから止むを得ず反撃として使っただけです。相手を窒息死させる様を見て、刃物を相手の胸元に徐々に押し込んでいく様を見て、残忍な衝動による笑みを見せる事とは違います。

まずサノスには本物の感情があります。しかし彼は他のことを思いやる事をしませんでした。だから彼がガモーラやネビュラを本当に愛していても、彼は親とは呼べませんし、本物の悪です。そもそも人間は(サノスはタイタン人ですけどそこは置いといて……)意思疎通をするのにテレパシーを使って、自分の考えている事をそのまま相手に見せることはできません。そのために言語などを用いたコミュニケーションを行うのですが、相手の脳内を覗けない「壁」のせいで嘘をつく事ができますし、誤解が生じる事もあります。一般的に言われる「相手を思いやる」とはその本質を見れば、結局独りよがりになりかねません。しかし相手の意図を直接見ることができないからこそ、相手の気持ちを想像し、彼の幸せのために自分にできる限りのことをする……見方を変えれば、「相手を思いやる」というのは相手の反応によって、相手の幸せのために自分の行動を変えることではないか、と思います。f:id:the-Writer:20190518203904j:plain再三言っていますが、彼は間違いなくガモーラを、もしかしらたらネビュラも愛しています。しかし相手の人権を考えず、自由や可能性を尊重しない力による関係におくのであれば、それは親としてやってはいけません。彼女らは常にサノスが敷く暴力におびえながら育ち、彼をなだめ、媚を売り、気に入られようとその人生を過ごしてきました。彼が本当に良い親だったのなら、ネビュラが彼との関係から脱却する時に目に涙をたたえながらそれでも無理だと拒否するでしょうか?ネビュラを虐待していた一方、ガモーラにはせっかく作ったスープ(でしょうか?)を目の前で捨てられても声を荒らげません。しかし大義と彼女の命という天秤になると、拒否・抵抗していたにも関わらず、彼女を奈落の底へ突き落とし、涙を流します。ガモーラにはまだ見ぬ世界があり、愛する家族をようやく自分で見つけ、自分が生きたい人生が広がっていたはずでした。これらからわかるのは、娘への愛情は本物なのですが娘からの感情は考慮に入っていない事です。

本気で抵抗する娘の命を自分の手によって絶ち、亡骸を見て本気で涙を流すシーンや、一面オレンジの幻想の世界でガモーラの幻影と会い、和解したようになっているシーン__基本的に「自分から」のみであり、「相手から」が存在しない彼なので、IWでドラマチックに演出されている場面が、実は非常に究極的に自己中心的で不気味なものに変わってしまいます。愛する娘を勝手に殺し、勝手に和解した気になっているサノス……。もはやサイコ・ホラーの領域です。f:id:the-Writer:20190518225159j:plain結局のところ、サノスは悪に過ぎない。僕はそう思っています。なぜなら手段が間違っているからです。自身の過去から、生物はいずれ資源不足で滅ぶことを学んだ。他の星々が同じことにならないよう、自分が貢献したい。だから、全生命の半数を殺す。この考えに至ることが彼の本質を示唆しています。個人的に、彼が「他の生物を殺す」という手段をとるのは未だ良いと思っています。例えばストーンの力で自殺志願者のみを殺すのだったら、人を傷つけることに喜びを見出す人物のみを殺すのだったら、個人的にはまだわかります。

問題は、それが殺す対象つまり他者の同意を得ていない事です。殺人はなぜいけないのかというと、僕はこう考えています。他者の命を奪う事とは、彼がそれまで積み上げてきた人生を一瞬で無に帰すだけでなく、そこからつながり達成することができたかもしれないという可能性を、彼をかけがえのない人と思っている人からその彼を、永遠に奪う事です。それを有無を言わさず力をもって施行するのは非常に残酷であり、一個人にそのようなことをする権利はありません大義の元に、殺人を恣意的(ランダム)に集めた人々を同意なしに殺す___それはただの大量虐殺であり、最低でも600万人の命を奪ったホロコーストと同じなわけです。「犠牲」と言う理念のもとに殺しを行うのはヒーローたちも同じでした。ストーンをサノスに渡すくらいなら、とピーターはガモーラに向かって引き金を引きますし、ワンダはヴィジョンを吹き飛ばしてしまいました。が、それは双方の同意があってこそです。

サノスはこの「全生命の数を半分にする」にするという手段に行きつくまでに、他に何か手段を考えている節がありません。エボニー・マウに代表され、あのピム粒子と量子力学関連の技術を複製するほどの優秀な科学技術を、サノス軍は有しています。しかし彼らは暴力に訴える手段を躊躇なく行い、それを「大のために小を犠牲にする」という理念のもとに正当化しているのです。半分というのも綿密な研究の元に算出した割合というわけではなく、2023年にやってきたサノスが即断で自身の計画を「全生命の数を半分にする」から「一度全宇宙を破壊する」に変えたことから、特に科学的な根拠に基づいていない、彼の思い付きであることがわかります。「50%」とはむしろ象徴的な意味合いさえ込められた数字なのです。f:id:the-Writer:20190518224657j:plainIW序盤ではサノスはこう言います。「恐れ、逃げても運命はやってくる。そしてここに来た。それともこう言おうか、この私と___」そしてEG序盤でサノスはこう言います。「私は絶対なのだ」字幕ではこう訳されていますが、原語では"I am innevitable"であり、より正確に訳するのであれば「不可避」です。字幕の表現もその一端を捉えていますが、これはサノスが「生命は増え過ぎた→その存続のために私という存在が動かざるを得なかった→私は自然の使者にして世界の理」というように、宇宙がバランスを取ろうとする根本原理に自分を同一視させている思考が現れていると思います。

しかし自分を神格化させて圧倒的な力で敵対勢力を叩き潰していくのは、何か他に手段があるかもしれない・誰かが更に良い方法を考えてくれるかもしれない・生命に介入しなくても自分たちで何とかするかもしれない……そういったほかに託す信頼をせず、可能性・多様性を否定する行為です。他の自由を尊重したり可能性を信頼せず、自分たちの正義を押し付ける……だからそれが例え利他的な目的であっても究極的に利己的である所以です。f:id:the-Writer:20190518203913j:plain「感謝している。今、私が何をすべきかわかった。この宇宙を、最後の原子に至るまでバラバラにする。そしてお前たちが私のために集めてくれたストーンで、新しい宇宙を創る」2023年にやってきた2014年時点のサノスはこう言いました。この新世界の創造は明らかに一線を超え、彼の掲げる大義をも超えてしまったのではないでしょうか。「仕方がないが私がこの役目を背負っている」という受け身の姿勢を超え、「自分の思い通りに世界を作り直す」という積極的な神のごとき所業を成そうとします。ただでさえ大義のために虐殺を厭わない彼は、守るべきはずの世界を一度徹底的に破壊すると宣言するのです。これでやっとサノスが「もしかしたら正しいかもしれないヒーロー」ではなく、「絶対に止めないといけないヴィラン」という事がわかります。セリフを分析すると、ストーンを使うのは世界の再創造にであって、破壊にではない(=破壊は自らの軍勢で行う)というのを示唆しているのがまた恐ろしいです。

自分相手によく戦った相手に対する態度として、2018年のサノスはスタークに対して敬意すら払い、賞賛します。しかし2014年のサノスは同じくスティーブに対して賞賛どころか地球をじっくりと滅ぼし、それを楽しむ胸中を告白します。この二者を比べると本当に愛する者を犠牲にしたか否か、という違いもありますが、インフィニティ・ストーンを手にして優位に立っているかどうか、という差も考えられます。実際完全に想定外であったキャプテン・マーベルの乱入に遭うと、宇宙の破壊という過程を飛ばして速攻で「デシメーション」を発動しようとしました。一見高潔な武人気質な彼は、あくまで余裕がある時にそうふるまっているだけなのです。f:id:the-Writer:20190518205315j:plainIW,EGのサノスは言ってみればパラレルワールド同士の関係であり、別人でありながら同一人物です。2018年の彼は本気で心を痛めながら愛する者を犠牲にし、以降は無駄な殺しを控えるようにした「聖戦士」のような境地に達しました。EGに登場する2014年の彼は、「聖戦士」とはまた別の可能性を辿った別人なのか。それとも農場でソーに処刑されず、アベンジャーズの計画を知った「聖戦士」の延長線上の彼なのか。どちらと捉えるかは各観客による解釈によるのでしょうが……結局、大義のためと言いながらその本質は暴力に根差しており、それを心のどこかで楽しむつもりでいる事。究極的に利他的でありながら利己的なキャラクターであるサノス。自分の考えで人の人権を侵害し、多様性を減らし、可能性を否定した彼は、まさに自分が潰したはずの全世界「アベンジャーズ」によって報復を受けるに値する人物なのです。

 

インフィニティ・サーガを通して築かれたキャラクター 

f:id:the-Writer:20190505162256p:plainアベンジャーズ」と名が付く作品4作品すべてにサノスは登場しており、このキャラクターは前の二作を監督したジョス・ウェドンから後の二作を監督したルッソ兄弟へと引き継がれた、と言えます。ジョス・ウェドンは『インフィニティ・ウォー』と『エンドゲーム』の二作を鑑賞したうえで絶賛を送っていますが、そんな彼はIW公開時にサノスの人物像やそれを描いた監督らへ具体的な賛辞を述べていました。

 『アベンジャーズ』,『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』のオマケシーンで少しだけサノスを描いたジョス・ウェドン監督、自分が引っ張ってきたアベンジャーズがいずれサノスと激突することを想定した仕事でした。彼はIWで描かれたサノス像にも非常に満足している意思を表明しています。結局のところ、一見ヒーローに見えたサノスとはウェドン監督に言わせる「虚無主義者」に過ぎず、「破壊が大好きなキャラクター」という本質はそのまま受け継いでいると思います。f:id:the-Writer:20190510212220p:plainIWの映像が出る前にはこんな疑問がありました。「サノスはMCUでも『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に代表される、いかにも非現実的で漫画的な世界に属する存在……言ってしまえばフルCGの虚構の塊のようなキャラクターを、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のようなもろ硬派で現実的な作品を扱った監督が撮るとどうなるんだろう?」というものです。ルッソ兄弟のチームのお陰でサノスは非常に複雑で重層的、深みのあるキャラクターになりました。

一見もっともに聞こえるが、どこかおかしい理論を振りかざしながら人を傷つけ、「正義」を執行する人物……そのような厄介な側面も見事に表現されています。IW,EGというMCUの最終局面で描かれた彼は、各作品で語り口は異なりながらも一人の特徴的なキャラクターの本質を余すことなく、惜しげもなく描かれていました。11年続いたインフィニティ・サーガのラスボスという事で、あらゆる意味で極限を体現したようなスペックでしたが、こういう人って意外に現実に大勢いないでしょうか?フィクションのヒーローもの、大戦争の娯楽映画と思ってみていると、意外と自分に身近な事に気づくのです。

しかし、その時こそ今まで誕生してきたマーベル・ヒーローたちの姿が輝くのではないでしょうか。もしも「私のルールに従うしかない。私は絶対なのだ」と迫ってくるヤツがいるのであれば、スター・ロードのように中指を立てておさらばし、キャプテン・マーベルのようにそもそも相手に付き合うことなく(ついでに一発食らわせて)自分の道を行けば良い。

アベンジャーズ」という映画は基本的に3年の間隔を設けて公開されるのが恒例でしたが、EGがそれを打ち破りました。元々IW,EGはパート1,パート2として構想されていただけあって、話の根底的な筋は思いっきりつながりつつも確かに別々の映画として成り立っていたように思えます。これまでの11年間の完結編として、アベンジャーズが全員結集しなければ勝てない程の巨悪にして闇の帝王・サノス。彼のおかげでIW,EGはとても面白く、色あせることのない成熟した作品に仕上がったと思います。彼のスクリーンでの実写化に携わったすべての方々に感謝と賛辞を述べたいです。